負け犬三人衆
先程までの威勢はどこへやら、野次馬という名の無慈悲な観衆から逃れるべく、すたこらと情けない足取りで逃げ去った河海一行。
彼女らが命からがら辿り着いたのは、広大な大学内キャンパスの一角に設けられた、学生用の屋内休憩遊戯施設。天井に設置された最新鋭の空間局所冷却装置から絶え間なく吐き出される、ひんやりとした人工的な冷気が、激しい運動と極度の羞恥心によって過剰な熱を帯びた彼女たちの肉体を、急速に冷却していく。
空調の効いた快適なラウンジの片隅。備え付けられたふかふかの合成皮革ソファー。その上で、ガックリと深い絶望の淵に沈むように項垂れる河海。その真横では、先程からずっと「ふへへ」と気味の悪い笑い声を漏らしながら、物理的ではなく精神的に項垂れ、完全に自分だけの桃源郷へと旅立ってしまっている普並木の姿。
「う、うぐぐ……また負け……いや、違うっ! 引き分けだけどっ! 今回の勝負はあくまで引き分けだから!」
河海は両手で顔を覆いながらそう呪詛のように呟き、表向きはどうにか強がりの姿勢を崩さないものの、その実態は周囲のギャラリーたちに「圧倒的な敗者」として完全に認識されてしまったという残酷な事実を前に、すっかりしょんぼりとしていた。その背中は、普段の不良然とした虚勢が嘘のように小さく丸まっている。
「だから最初から言ったのに。あたしらみたいな凡人が、学内最強と謳われるあの亜鳴蛇に真正面から挑んで勝てるわけないでしょ。はい、これ、ほれ」
冷静沈着な保護者役である黒角は、深い溜息と共に立ち上がると、近くに設置されていた自動販売機から購入してきた、よく冷えた微糖珈琲の缶。そのまま黒角は、ゆったりとした動作でソファーへと腰を下ろす。彼女の細い指先には、三本の缶コーヒーがしっかりと握られており、きちんと人数分の飲料を確保してくるという抜かりのなさを見せていた。彼女は、河海の頭に軽く押し当てるようにして手渡した。
「ふひひ、私は綺麗なイルミネーションなんだ……」
相変わらず焦点の合わない虚ろな瞳で宙を見つめ、気味の悪い笑みと共に喜悦の表情を浮かべている普並木を呆れ顔で尻目にしつつ、黒角は彼女と河海の間に割って入るようにして座った。いつまたヒステリックに爆発するか分からない河海の対応をするという名目と、最早自力で現実に帰還できそうにない普並木の介護をするためという、二つの重労働を一身に引き受けるためだ。
黒角は自身の分の缶コーヒーのプルタブをカシュッと小気味良い音を立てて開ける。一口喉へと流し込んだ。微糖特有の、人工甘味料と珈琲豆の苦味が入り交じった安っぽい甘い味が、疲労した脳髄にじんわりと染み渡っていく。
「つーかさ、あんた、もう愛しの時庵くんには別学部の可愛い彼女がいるって判明したじゃん。もういい加減、亜鳴蛇に個人的な怨恨で執着しなくていいんじゃないの? 不毛なだけだし」
黒角は缶コーヒーを持ったまま、じとーっ、と半眼にして河海の顔を横から見つめた。
「いやっ。あの女は私の乙女の純情を踏み躙り、プライドをズタズタに引き裂いたんだっ。このまま泣き寝入りしたんじゃ、私の気がいつまで経っても収まらないんだっ!」
河海は黒光りする牙を剥き出しにするかのように、再びキャンパスの狂犬としての威嚇の声を上げた。だが、長年彼女の暴走に付き合ってきた黒角は、そんな虚勢など意に介さず、さらに鋭い指摘の矢を放つ。
「河海さぁ。あんたにはもう、わざわざ手の届かない相手に執着しなくても、身近にすっごくいい人がいるじゃん。ほら、無我見。あいつじゃダメなわけ?」
河海の数少ない異性の友人であり、気安い距離感を築いている男、無我見友成。二人の出会いの歴史は、彼らがこの国際信州学院大学の門を潜った入学当初にまで遡る。
血気盛んだった河海は、入学早々に一目惚れした見ず知らずの男子学生に対して、周囲の目も憚らず特攻玉砕の告白を敢行。結果として見事に撃沈し、キャンパスの薄暗い隅っこで一人寂しく体育座りをして大号泣していたのである。そんな悲惨な状況の彼女に対し、偶然通りかかった無我見が「おい、大丈夫か?」と声をかけたのが、全ての始まりだ。
それ以来、無我見は手当たり次第にそこらの男に告白しては無残に玉砕を繰り返す河海の失恋話に毎回付き合い、その度に愚痴を聞いては慰め、励ましてきたという、奇特な優しさを持つ男。現在では、二人は既に苗字ではなく名前で呼び合う仲にまで発展している。
「なっ……! ち、違うっ! 友成とは、絶対にそんなんじゃないってばっ! ただの腐れ縁っていうか、気の置けない悪友っていうか!」
突如として核心を突かれた河海は、ぼんっ! と擬音が聞こえそうなほどに顔をトマトのように赤く染め上げ、あわあわと両手を激しく振り回して大慌てで否定した。
「へぇー? 客観的に見たら、どう好意的に解釈してもそうは見えないけどなぁ」
黒角は意地悪く口角を上げ、にやけつつ河海の真っ赤な顔を見つめる。横に鎮座する普並木も、魂の抜けた虚ろな視線だけを河海の方へと向けている。
傍から見れば、どう考えても付き合っていないのが宇宙の真理に反しているとしか思えないほどの、甘酸っぱくも近すぎる距離感。黒角と普並木は、この無自覚にして古典的なツンデレを拗らせたリア充の生態に対し、心の底から呆れ果てており、「いい加減、さっさと付き合ってしまえ」と内心で強烈なツッコミを入れている。
「そ、それよりっ! さっきのあれはなんなのさっ!」
己の恋愛事情という極めて不利な話題から逃避すべく、河海は強引に話題を転換し、誤魔化すように黒角の顔をじろーっと睨みつけた。彼女が問題視しているのは、先程の戦闘後のやり取り、すなわち黒角の───河海の偏狭な視点から見た、重大な裏切り行為についてだ。
黒角は慌てる様子もなく、再びくびっ、と自らのコーヒーを飲んだ。
「え? あ、あれは……その、あれだよ。深謀遠慮っていうか、一種の高度な情報戦? 亜鳴蛇のやつの機嫌を適当に取って油断させておいて、それで彼女のあのデタラメな能力の秘密とか、決定的な弱点を訊き出そうかなって、そういう緻密な計算の上での行動だよ。……ねぇ、杏璃?」
黒角は咄嗟にそれらしい、いかにも知的な言い訳をでっち上げ、横に座る、とっくに柄長と内通している裏切りの仲間である普並木に同意を求めた。だが、完全に脳の処理能力が別の次元へと溶け落ちている彼女は一切の反応を示さず、相変わらず「ふひひ……」という気持ちの悪い笑みを空中に向けて浮かべ続けている。
「ふーん? なんだか、そうには見えなかったけど……。めちゃくちゃ親しげに喫茶に誘ってたように見えたし」
河海は胡乱な目を細め、疑いの眼差しを向ける。
「あ、あはは。全ては完璧な演技だよ、演技っ。ほら、古の兵法書にも、敵を欺くのも一瞬の戦術って言うか、猛虎の尾を撫でて牙を抜くって言うでしょ? あたしはそれを実践しただけ」
「な、なるほど……そういう深い意味があったのか。流石は黒角、我が派閥の誇る策士だね。疑って悪かった、褒めてやってもいいよ」
「そりゃどうも」
猛虎の尾を撫でて牙を抜く。
圧倒的な強者には阿る振りをして接近し、その隙を突いて危険を排除せよ、の意。この時代のことわざを交えたもっともらしい弁明により、なんとか河海を言いくるめることに成功した黒角。根が単純であり、難しい言葉を使われると「なんとなく凄そう」と無条件で納得してしまう彼女の純朴な性格に助けられた形だ。
「にしても、亜鳴蛇のあの能力さ。あの禍々しい触手を、私の宝石の手で直接掴んで動きを封じようとしたのに、伸縮自在だから逆に絡みつかれるし。おまけに、途中から無数に枝分かれするわ、鳥餅みたいな粘性まで付けられるわで、いくら多重属性だからって、一人で属性持ちすぎでしょ。あれはもう、異能の枠を超えた完全なチートだよね」
黒角はこれ以上の追及を避けるべく、巧みに話題を筮麽の能力の異常性へとスライドさせた。
「あ~……まぁ、今回だけは悔しいけど、私の純粋な物理打撃系の能力だけじゃ、あの変幻自在の触手とは決定的に相性が悪いってことは、痛いほど分かったけどさ……」
河海は先程の圧倒的な実力差と能力格差を嫌という程思い知らされてしまったが、それでも素直に敗北を認めたくはないらしく、口尖らせて不満げな様子で返す。
筮麽の表向きの能力である身体から触手を生やす能力は、本人の主張によれば三つ異常の属性を持つ〝極めてレアな多重属性〟であり、様々な属性を自由自在に操ることができる。その常識外れの触手は、彼女が「他者の能力をコピーし、統合できる」という真のチート能力の隠れ蓑であることを知らないこの三人から見れば、理不尽極まりない、神に選ばれしチート級の異能と化している。
「ま、まぁ、最終的には激しい戦いにはなったからよしとするっ。それに、今回は私が本気を出せなかっただけで、今は時期が悪いのっ。ほら、もう夏に入って、今日もバカみたいに暑いでしょ? だから、私の自慢の動きも、この不快な暑さのせいでキレがなかっただけなんだからっ!」
河海は己の無様な敗北を、気象条件という外部要因に責任転嫁し、そう極めて都合の良い解釈を声高に主張した。
「そうかなぁ……? 相手は汗一つかかずに、欠伸しながら片手でいなしてたように見えたけど。てか片手の指三本しか使ってなかったし」
黒角。顎に手を当てる。冷静な分析を口にする。
どう好意的に見積もっても、手加減という名の接待プレイを受けていたようにしか思えなかったのだが。
「ほ、ほらっ。私たち、あれから一念発起して、みんなで駅前の能力開発ジムに通い始めたじゃん。きっとその血の滲むような特訓の成果が、今回の戦いで確実に出てるんだよっ! 今日は惜しくも引き分けだったけど、このまま修行を続ければ、次は絶対にこうはいかないんだからっ!」
高らかに腕を組み、自信満々に鼻を鳴らす河海。
そう、前回の惨敗からというものの、打倒亜鳴蛇に燃える一行は、街の中心部にある、個々の特性に合わせた科学的なトレーニングメニューを提供する能力開発専門施設に(河海の強権発動により半ば強制的に)通わされていた。
丁度インターネットの海を徘徊していた河海が、「新規入会者はひと月分の会費が完全無料!」という甘いキャンペーン広告を発見し、即座に三人分の応募ボタンを押下。幼少期から自身の低出力な弱能力に深いコンプレックスを持っていた普並木は、無料ならと嬉々としてその提案に乗っかり、黒角は保護者としての責任感から仕方なく付き添った形だ。
だが、その最新設備と専門のトレーナーによる指導のお陰で、三人の能力は着実に進化を遂げていた。元から地道に通い続けていた普並木はともかく、これまで能力そのものを真面目に鍛えたことのなかった河海と黒角の成長は顕著だ。河海の召喚する無骨な木製の棍棒は、高い質量と硬度を誇る黒光りする鋼鉄の棍棒へと昇華され、普並木の指先から電気を出す能力は、安物の玩具のようなスタンガンから、暴漢を一撃で沈める高出力の業務用スタンガン程度の威力へと飛躍的に向上した。そして黒角の拳を宝石に変える能力は、生成されるダイヤモンドの純度がさらに高められ、それに伴い彼女自身の基礎的な握力も大幅に向上。
「うーん、確かにあたしたちの能力は格段に伸びたけどさ。と言っても、肝心の亜鳴蛇の能力は、元々のベースからしてめっちゃ強そうっていうか、次元が違うじゃん? あたしらが少しジム通いして毛が生えた程度じゃ、あの理不尽な多重属性に到底勝てるとは思えないんだけど……。ねぇ、杏璃ー? そろそろ現実世界に戻ってこーい」
「ふへへ……ビューティフォー……」
黒角は、隣で未だに恍惚の表情で笑い続ける普並木の肩を揺すりつつ答えた。だが、普並木は揺らされるままにだらしない笑みを浮かべ続け、一向に現実世界へと帰還する様子はない。
「うぐ……た、確かに、スタートラインの絶対的な才能の差は、絶望的かもしれないけど……」
痛いところを突かれた。ぐぬぬと苦虫を噛み潰したような顔で唸り、手元のコーヒーをがぶがぶと飲んだ。
このオール・ギフテッドの社会において、能力の強弱を決定づける能力先天性理論というものが存在する。それは、「能力の最大出力や性質は、八割方が生まれ持った先天的な才能で決まる」という、残酷極まりない現実。もちろん、後天的なトレーニングやジムでの開発によりある程度の底上げは可能であるが、やはり血のにじむような努力が、圧倒的な天賦の才に敵うのかと言われると、歴史上の統計が非情な答えを提示している。
そもそも、彼女ら三人は全員が単一属性の能力者であり、その能力の性質も極めて物理的かつ直線的。それに対し、表向きとはいえ多重属性を謳い、圧倒的な質量と変幻自在の万能性を誇る筮麽の触手とは、相性という次元を通り越して、生物としての格が違いすぎるという、越えられない壁が存在した。
「ふふふ……でも大丈夫。私には勝算がある。今回の命懸けの能力戦では、ただやられただけじゃない。ちゃんと次へ繋がる特大の収穫があったからねっ!」
だが、そんな悲観的な現実など知る由もない河海は、突如として不敵な笑みを浮かべ、最新型のホロフォンを勢いよく起動した。そして、空間に投影された青白いホログラム映像を、指先でスワイプして大きめに拡張する。
空中に浮かび上がったその画面。そこには、筮麽の能力について、河海なりに血の滲むような考察を重ねたであろう分析内容が、手書きの電子メモとして書き殴られていた。触手の見た目の光沢、予想される伸縮速度、そしてその際に確認できた属性種類の箇条書きなど。とはいえ、その内容は「硬い」「速い」「めっちゃ伸びる」「ベタベタする」といった、小学生の観察日記レベルの拙い語彙力で構成されたもの。
そして何より黒角の目を引いたのは、そのメモの余白にでかでかと描かれた、園児の落書きのような極めて抽象的なイラスト。それは、棒人間のように描かれた河海らしき人物が、巨大な黒光りする棍棒を振り下ろし、涙を流して土下座する触手まみれの化物(おそらく筮麽)をコテンパンに叩きのめしているという、自己願望が百パーセント具現化された狂気の絵画。
「……なんだこりゃ。あんた、ジムの前に美術の予備校に通った方がいいんじゃないの」
黒角は、そのあまりにも前衛的すぎる芸術作品と、河海の底抜けのポジティブシンキングに対し、ただただ頭痛を堪えるようにこめかみを押さえることしかできなかった。




