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オール・ギフテッド  作者: Paracoccidioidomicosisproctitiss
第一部 第一章 異能普遍社会

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敗者の誘い

「いやぁ、流石だわ。敵わん敵わん」

 爽やかな初夏の微風が吹き抜ける。あっけらかんとした降参の弁を口にしたのは、黒角。

 彼女は早々に勝敗の帰趨を悟り、戦意を完全に放棄した証明として、スッと両手を頭上に掲げて無抵抗の姿勢を示している。そのサバサバとした潔い態度は、不良グループの仲裁役というよりは、血の気の多い子供たちを見守る保護者のそれに近い。彼女は、見上げるほどに長身で威圧感のある筮麽の顔を、呆れ半分、感心半分の眼差しで見つめていた。

 そんな黒角の背後へと、逃げ込むようにしてさっと身を隠したのは、先程まで宙吊りの憂き目に遭い、すっかり自信を喪失してしまった普並木。

 だが、いかに黒角を盾にしようとも、この試みは物理的法則という冷酷な現実の前にあえなく破綻していた。何しろ、普並木は百七十センチメートルという、女子としてはかなりの高身長を誇るモデル体型。対する黒角は平均的な身長か、あるいは比較的小柄な部類に入る体格であったため、普並木がどれほど身を縮こまらせて彼女の後ろに隠れようと試みても、その長い手足やオレンジ色のショートヘアは容赦なくはみ出しており、彼女の怯えた姿を完全に隠蔽することは到底叶わなかった。

「完全に、あたしらの負けだわ。文句なしの完全敗北」

 黒角が諦めの境地に至った清々しい声でそう宣言すると、ただ一人、納得がいかない様子で抗議の声を上げた者がいた。

「ちょっと! 何言ってんのさ、黒角っ! 言っとくけど、まだ負けてないからっ! 引き分けっ! 今回は痛み分けなんだからっ! ほら、私も五体満足で立ってるし!」

 そう言って、ぷりぷりと顔を真っ赤にして怒り狂うのは、発起人である河海。彼女は短い手足をじたばたと動かし、己の敗北という受け入れ難い現実をどうにかして改竄しようと必死に喚き散らしている。だが、客観的な事実として、目の前に立つ因縁(ただし、その因縁のベクトルは極めて一方的なものであるが)の相手である筮麽は、先程の攻防において、ポケットから出した左手の指を三本しか使用していない。さらには、激しい立ち回りの最中であるにも関わらず、幾度も退屈そうに大きな欠伸を噛み殺しながら、まるで幼児と遊ぶかのような手加減で彼女らの猛攻を適当にあしらっていたのだが。

 それに加え、河海の自尊心をさらに深く抉る残酷な事実が存在した。先程まであれだけ激しく動き回り、幾度も棍棒を振り回して力んだ河海自身は、額から滝のような汗を流し、息も絶え絶えに肩を上下させているというのに、目の前に立つ巨女たる筮麽の透き通るような白い肌には、一滴の汗すら滲んでいないのだ。これは、筮麽が併用している体温を下げる能力と体温を保つ能力という、二つの極めて高度な生体環境制御の恩恵によるものであるが、そんな種明かしを知る由もない河海からすれば、化け物じみた無尽蔵の体力の証明に他ならなかった。

 誰の目から見ても、論理的にどう考えてもボロ負け以外の何物でもない状況。しかし、河海の主観的かつ希望的観測に満ちた脳内フィルターを通すと、彼女としては「以前のように一瞬で気圧されなかった」「少なくとも攻撃を受け止めることはできた」という事実が過大評価され、今回は互角の良い勝負が出来ていたつもりになっていた。故に、この圧倒的な蹂躙劇も、彼女の辞書においては「引き分け」という極めて都合の良い言葉に変換されているらしい。

「あー、まぁそれでいいんじゃない? 引き分けってことで」

 適当に言葉を返し、とりあえず面倒な河海の主張に合わせた。彼女の目的は勝敗の優劣を競うことではなく、迫り来る講義までの退屈な時間を浪費することに過ぎない。相手が勝手に満足して引き下がるのであれば、わざわざ正論を振りかざしてその鼻っ柱をへし折るような労力を割くのも馬鹿馬鹿しかったのだ。

 だが、その適当で気のない返答に、河海は悔しそうに下唇を噛み締め、改めて筮麽の姿を下から上へと見上げた。

 この三人組の中で、河海は圧倒的に一番小柄な体格。

 対する目の前の女、亜鳴蛇筮麽は、百七十センチの普並木すらも軽く凌駕する長身で、自分からすれば自分より三十センチ以上も高い位置にその顔がある。そして、その長い脚と均整の取れたプロポーションの上に鎮座する、万人が認めるであろう圧倒的美貌。さらに、薄着の上着の上からでも自己主張を隠しきれていない、たわわに実った豊満な胸の膨らみ。

 河海は、忌々しい因縁の相手と、ちっぽけな自分自身とを無意識の内に比較してしまっていた。河海自体、黙って不機嫌な顔さえしていなければ、小動物的な愛嬌があり、十分に可愛げがある部類の容姿なのだが、不良を気取るための実態とはかけ離れた派手なメイクが、その素材を台無しにしている。そして何より、発育途上の小柄な体型と、悲しいかなほぼ絶壁と言っていい自身の胸の平坦さ。能力の圧倒的格差以前に、生物学的な、女としての魅力と器の差があまりにも開きすぎている。

 まるで、大人と子供。

 その残酷なまでの遺伝子レベルの敗北感に、河海は思わず「うぐぐ」と呻き声を漏らし、精神的なダメージを受けて数歩後ろへとたじろいでしまった。

「貴重な時間取らせて悪かったねぇ、亜鳴蛇。うちの河海は、昔から無駄に諦めが悪くてさ」

 そんな河海の乙女心に起因する複雑なコンプレックスの爆発など一切気付く素振りも見せず、黒角は隣でわなわなと震えている河海を親指で指し示しながら、実に大人びた態度で筮麽へと謝罪の意を述べた。

「誰が諦めが悪いだっ!」

 彼女はすぐに復活し、再び怒り出す河海の抗議を柳に風と受け流し、特に気にしてはいない様子で話を続ける。

「うん? いやいや、別によいよ? それに、講義までのいい暇つぶしにはなったし。みんな頑張っててちょっと面白かったよ」

 筮麽は少しだけ視線を落とし、黒角の目を見て淡々と答える。彼女の言葉に嫌味や当て擦りはなく、ただ純粋な事実としての感想を述べているだけ。

「亜鳴蛇。君、本当に大したもんだよ。あたしも結構、腕力や物理的な力には自信ある方なんだけどね、君のその規格外の力には、てんで歯が立たないや」

 黒角は背後で未だに怯えている普並木を軽く手で窘めつつ、自身の右手をスッと胸の前に掲げた。そして、再びその拳を美しいダイヤモンドのような宝石に変え、太陽光を反射させてキラキラと振ってみせる。彼女は自身の能力に対して過度なプライドを持っているわけでもなく、能力コンプレックスに苛まれている普並木や、筮麽を個人的な怨恨から特別に敵対視している河海とは違い、精神的に非常に成熟していた。彼女の立ち位置は、あくまでこの暴走しがちな二人組における冷静なストッパーであり、良識ある保護者ポジション。ゆえに、自分よりも遥かに強大な力を持つ他者を前にしても、素直にその実力を認め、賛辞を贈るだけの精神的余裕があった。

「あ、そう? いやー、それほどでもないけど」

 筮麽は、自身の紫色の美しい髪を弄りながら、軽く頭をかいてみせる。極度の面倒くさがりであり、人間関係の構築が希薄な彼女としても、こうして悪意のない純粋な称賛を向けられるのは、決して悪い気はしない。

 普段、彼女の傍らにいる友人の柄長からは、その怠惰な生活態度や倫理観の欠如、能力の実にくだらない私的利用に対して、呆れ果てて引かれたり、小一時間に及ぶ説教をされたりするのが常。そして、この広大な大学内においては、その際立った長身と、無機質で圧倒的な威圧感を放つ美貌、さらには多重属性の身体から触手を生やす能力という、視覚的にあまりにも禍々しくグロテスクな異能のせいもあり、一部の生徒たちからは「美しき化け物」などという不名誉な二つ名で囁かれ、遠巻きに避けられ気味なのが現状。もっとも、筮麽本人は他者の評価など路傍の石ころ程度にしか思っておらず、全く気にはしていないのだが。

 しかし、だからこそ。こうして真正面から、衒いのない言葉で素直に自身の能力を褒められるという経験は、彼女の長い人生の中でもひどく新鮮であり、ぬるま湯のような彼女の心をほんの僅かだけ温める効果があった。

「それより、君のその宝石に変わる手も、すごく綺麗だね。硬度も高そうだし、実用的でいい能力だと思うよ、うん」

 少しだけ気分を良くし、普段の無関心を引っ込め、珍しく素直な言葉で黒角の能力を褒め返した。お世辞ではなく、単純な物理的強化としては申し分のない、洗練された異能であると評価したのだ。

「そりゃどうも。学内最強にそう言ってもらえると、自信になるわ」

 照れたように微笑み、宝石化した手を元の白い肌へと戻した。

「に、にしてもさっ。多重属性って……。あ、あんた、一体いくつ属性持ってるわけ? さっきの戦いだけでも、三つ以上は余裕で使ってたよね、見たところ」

 その時、彼女の広い背中の後ろから恐る恐る顔を覗かせた普並木。震える声で筮麽に尋ねた。その目。恐怖と好奇心が入り交じった複雑な色を帯びている。

 このオール・ギフテッドの異能普遍社会において、一つの能力に対して複数の性質が付与される二重属性程度であれば、それほど珍しい現象ではない。炎とその色を同時に操る者や、水を出して沸騰させるなど、その程度の掛け合わせであれば、そこらの学生でも持ち合わせている。だが、二つ以上の全く異なる性質を単一の能力に内包する多重属性となると話は別である。それは特異的突然変異ミュータント・イレギュラーとも呼ぶべきかなりのレアモノであり、ただでさえ希少なその多重属性。四つ、五つと増えるにつれ、その存在はメディアから取材されるレベルの、世界的に見ても極めて稀有な代物となるのだ。

「あー……」

 その鋭い核心を突いた質問に、筮麽は途端に口ごもった。視線を泳がせ、明らかな動揺を見せる。

 通常、彼女が公式に登録している「身体から触手を生やす能力」のような肉体変化形の異能は、その変形内容や材質はある程度固定されるのが物理法則の常識。しかし、先程の筮麽の触手は違った。金属的な硬質化、ガムのような柔化、鳥餅のような粘性を持たせる性質、ゴムのようにどこまでも伸び縮みする弾力性、表面の変色や、挙句の果てには枝分かれする細胞分裂や大きさの拡大縮小など、まさに変幻自在、千変万化の極み。

 いくらなんでも、一つの能力に設定を盛りすぎである。柄長には「あんた、設定盛りすぎのナロー系主人公かよ」と呆れ顔で苦笑いされ、過去の高校時代の知人や友人たちにも、「本当は複数の能力を隠し持っているんじゃないか?」と幾度となく疑われてきた。実際、筮麽は他者の能力をコピーして無限に保持できるという反則的な真の能力を持っているのだが、それを隠蔽するために、すべての現象を「これは私の触手が持つ、めちゃくちゃレアな多重属性だから」という強引極まりない言い訳で断固として押し通し続けている。

「えーと、まぁ……私の触手は、めっっちゃくちゃレアで特殊な多重属性だからね……。い、五つ……? くらい、かな?」

 しどろもどろになりながら、適当な数字をでっち上げて誤魔化す筮麽。だが、その明らかに怪しい挙動と、到底信じ難い現象の数々に、普並木、そして黒角までもが、胡乱なものをみるようなジト目で彼女をじっと見つめている。明らかに、一ミリも信用されていない空気。

「……まぁ、いいや。人には言えない秘密の一つや二つ、誰にだってあるもんね。ねえ、良かったら今度、君のその不思議な能力の話、もっと詳しく聞かせてよ。自販機の缶コーヒー位なら、あたしが奢るよ」

 黒角はこれ以上の追及は無粋だと判断したのか、ふっと表情を和らげ、何気ない調子で筮麽へと提案を持ちかけた。それは、激しい戦闘(?)の後の、純粋な好奇心からくる友好的な誘い。

「……いいのっ!?」

 その瞬間。

 筮麽の虚ろだった瞳。

 カッと見開かれた。

 まるで夜空の星のように、キラキラと尋常ではない輝きを放ったのだ。

 彼女の優秀な脳細胞は、「奢って貰える」という、この世で最も甘美で神聖な単語に対して、条件反射的に猛烈な反応を示した。彼女の内部評価システムにおいて、この黒角鏡乎という茶髪の女の評価が、そこらのモブキャラから、「優良な金づる候補」へとグンッ、と天文学的な数値を叩き出して跳ね上がった歴史的瞬間。

 他の鬱陶しい金髪やオレンジ髪の二人はどうでもいい。だが、この未来の有望なスポンサーたる人物だけは、絶対に逃してはならない。筮麽は黒角の顔を穴が空くほどじっと見つめ、その特徴と名前を自身の完全記憶領域へと強固にインプットする作業を開始した。

 だが、その劇的な態度の変化に、提案した黒角はおろか、普並木、さらには後ろでふて腐れていた河海。三人とも、ぎょっと目を見開いて完全に固まってしまった。普段、何を考えているのか分からない気だるげな態度を崩さず、深海魚のように死んだ目をしているあの無表情な筮麽が、これほどまでに分かりやすい欲望の感情を剥き出しにして見せたのだ。そりゃあ、誰だって驚愕するに決まっている。

「本当に!? 缶コーヒー、奢ってくれるの!? 十本くらい奢ってくれる!?」

 ずいっ、と。筮麽はその長身を折り曲げるようにして前のめりになり、凄まじい眼力と圧で黒角へと詰め寄った。その様子は、獲物を見つけた飢えた肉食獣。

「うわっ、な、なんだこいつ!? 急にキャラ変わった!?」

「ひええっ! 食べられるぅっ!」

 まるで巨大な城壁が迫ってくるかのような筮麽の威圧感に、黒角と普並木の二人はたまらず数歩後ずさってたじろぐ。だが、彼女らを何よりも動揺させたのは、迫り来る物理的な恐怖よりも、この「奢り」というたった三文字の単語に対して、学内最強の女がめちゃくちゃに過敏な反応を示したという、そのあまりにも俗物的な事実。なんという現金なやつなのだろうか。神は二物どころじゃないものを彼女に与えたが、プライドというものは与え忘れたらしい。

 だが、そんな友好的かつ金銭的なやり取りを黙って見ていられない者が約一名存在した。

「こ、こらぁ~っ! な、なに敵と馴れ合ってるんだぁ!? 黒角っ、まさかあんた、私を裏切るつもりかっ!」

 先程からすっかり蚊帳の外に置かれ、完全に放置プレイを食らっていた河海が、顔を真っ赤にして地団駄を踏みながら怒り散らかした。

 彼女の脳内設定において、目の前にいる黒角は、自分が絶対的リーダーとして率いる「反・亜鳴蛇筮麽派閥」の重要な構成メンバーの一人であるはずなのだ。それなのに、そのメンバーがよりにもよって宿敵である筮麽を個人的に喫茶に誘い、あまつさえ缶コーヒーを奢るなどという癒着行為に及んでいる。これは明らかな裏切りであり、敵への寝返りであると思い込み、烈火の如く激高した。

 と言っても、それはあくまで河海の痛々しい脳内妄想の中だけでの話。現実問題として、保護者たる黒角と、常識人である普並木は、とうの昔から柄長とこっそり個人的に連絡先を交換し、お茶をしたり愚痴を言い合ったりする程度には仲良く交流しているのだ。そのため、この「反・亜鳴蛇派閥」などという子供の秘密基地のような組織は、とうの昔に空中分解しており、全く機能などしていないのが実態。同じ電気系統の能力使いとして、日頃から柄長とマニアックな交友を行っている普並木もまた、気まずそうにスッと視線を明後日の方向へと逸らした。

「い、いやいや。別にそういう裏切りとか、大層なことじゃないってば……」

 黒角が困ったように両手を振って必死に弁解しようとするが、血に飢えた狂犬と化した河海の耳には届かない。

「ど、どこがだっ!? 明らかにデレデレして仲良くしようとしてたじゃんかっ! あんた、それでも私の仲間か───っ!」

 そう涙目で怒鳴り散らす河海だったが。ふと、周囲の空気が先程までと変質していることに、はっ、と気がついた。

 よくよく見渡してみれば。キャンパスの中央で、あれほど派手な金属音を響かせる能力戦───という名の一方的な蹂躙が行われていたのだ。気づけば、彼女らの周囲には何十重もの人垣ができあがり、大勢のギャラリーが集結してしまっていたのである。そこには、学食で昼食を終えて午後の講義へ向かう生徒たちや、先程まで木陰でキャップ投げに興じていた女子群、あるいはベンチで読書をして過ごしていた生徒などがちらほらと集まり、遠巻きに彼女らの一挙手一投足を興味津々で観察していたのだ。

「いやぁ、相変わらず亜鳴蛇さんはクールでかっこいいなぁ」

「あの禍々しい触手の能力、えげつないよな。てか、一人だけ強さが規格外すぎだろ……」

「またあの三人組、亜鳴蛇に無謀な勝負挑んだんだ。懲りないねぇ」

「いやでも、あの棍棒の子の動き、キレッキレじゃなかったか? 気合いは感じたぞ」

「まぁ、結果的に手も足も出ずに宙吊りにされてボロ負けだったけどね。あははっ」

 などと、ギャラリーたちは口々に無責任な評価を下し、彼女らへと好奇の視線とヒソヒソ話を集中させている。

「う、うぐぐ……っ」

 復讐に燃えるあまり、己の視野が極端に狭窄しており全く気づかなかったが、この一連の恥ずかしい茶番劇は、ギャラリーたちに遠巻きにばっちりと、最初から最後まで特等席で鑑賞されていたのだ。その容赦のない、事実を適確に突いた感想を耳にしていると、先程まで「引き分けだ」と強弁していた河海も、流石に己の完全敗北と無様な姿を認めざるを得なくなってしまう。顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、彼女は即座にこの公開処刑の場から一刻も早く退散したいという強い衝動に駆られた。

 一方の筮麽もまた、元来が極度の面倒くさがりであり、こうして大勢の他人の目から注目を浴びるという状況は、彼女の美学に反するものであり全く好きではなかった。それに、ホロフォンの時計を確認すれば、憂鬱な午後のフランス語の講義が始まる時間も刻一刻と迫ってきている。腹ごなしの暇つぶしも十分に果たせたことだし、そろそろこの場を退散しなければならない潮時。

「……あー、じゃあ私、そろそろ講義あるからこれで。黒角だっけ? 今度会った時、絶対に缶コーヒー十本奢りね。忘れないからね。あ、あと、そっちの背の高い普並木だっけか。指から出た電気の能力、火力はともかく、青白くてなんかイルミネーションみたいで綺麗だったよ。悪くなかった」

「えっ? あっ、うん、忘れないようにするね……」

「あっ、あひっ……!? えっ、き、綺麗……?」

 突然の去り際の宣告に、黒角は顔を引き攣らせて苦笑いで返し、普並木は思いがけない言葉にビクンッと肩を震わせて奇妙な返事をした。そして筮麽は、鬱陶しいギャラリーの視線と好奇の目から逃れるべく、その長い脚を活かして小走りで足早にその場を立ち去っていく。

 突如として現れ、キャンパスを掻き回した嵐───もっとも、無謀にも勝負を挑んで嵐を呼び起こしたのは明らかに河海たちの方なのだが。ともかく、規格外の災害はこれにて無事に去っていった。


 立ちすくむ三人。

 その場に取り残された。

 だが。普並木。様子が、どうにもおかしかった。

「ふ、ふへへ……。私、すごいんだ……。私の能力、綺麗だって……」

 明らかに、帰り際のついでとして、とってつけたように適当に放たれたお世辞だったが、学内最強にして孤高の存在と名高いあの筮麽に、自身のコンプレックスの塊であった能力を直接「綺麗だ」と褒められたのだ。その事実が、彼女の枯渇していた自己肯定感のタンクを満たし、腹の底からじわじわと尋常ではない満足感と優越感が湧き上がってくる。

 彼女もまた、この瞬間を境に、亜鳴蛇筮麽という存在を「普段何考えてるか分からない、容赦のない恐怖の対象」から、「もしかしたら、強くて優しくてちゃんと人を見てくれる、めちゃくちゃいい人なのかも?」と、その人物評価を百八十度改めるに至っていた。

 ちょろい、あまりにもちょろすぎる女。

「ちょっ! ふっ、二人ともっ! 何ニヤニヤしてんのっ! さっさと退散するよ!! 恥ずかしいっ!!」

 一人だけ居た堪れなくなった河海が、顔を真っ赤にして叫び、茫然としている二人に一刻も早い退散を促した。

 こんな大勢のギャラリー群に囲まれ、冷笑されているわけではないが、ヒソヒソと笑われている状況に、これ以上耐えられるはずがない。彼女は涙目でだっ、とウサギのように駆け出した。

「あっ! ちょい待って、河海っ! 置いてかないでよ!」

「ひひひ、私は綺麗……私の電気はイルミネーション……」

 慌てて後を追う黒角もまた、完全に自分の世界に入り込んでにまにまと不気味な笑みを浮かべている普並木の腕を強引に引っ張り、逃げるようにしてその場からドタバタと退散していった。初夏のキャンパスには、彼女らが残した微かな騒動の余韻と、平和な日常の空気が再び静かに戻っていった。

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