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2. 女嫌いが、門で待っている

 夢も持っていく、と言った翌朝。三年の教室に入ると、私の机にはもう人垣ができていた。窓から差す朝の光まで、肩と肩の間でつかえている。夢の荷物より先に、噂の荷物が届いたらしい。


「リスベットさん、いつからヨーラン様と、そんなにお親しくなさったのですの?」


 隣の机で、トーニャ様が胸に抱えた恋愛小説を開いた。紙のこすれる音さえ、級友たちのひそひそ声に埋もれてしまう。私が腰を下ろすと、人垣がじりっと近づく。


「お話ししたのは、昨夜が初めてなのです」


「昨夜で、求婚まで!? そんな早さ、わたくしの本にも載っていませんわ!」


「私も、膝までつかれるとは思っておりませんでした。お返事でしたら、もう済ませております」


 後ろの級友まで、そろって前へ傾く。トーニャ様は本をぱたんと閉じ、紫の目を丸くして机へ身を乗り出した。


「つまり、お受けになったのですわね!」


「ええ。卒業してから、結婚いたします」


「では、求婚の次は何をなさるおつもりですの?」


 何って、一緒に暮らすまでの支度でしょうに。私は鞄を膝に置いた。浮かれていても、勘定は勘定よ。


「まずは、自分たちで結婚のお金を貯めるつもりです」


「お金ですって!? 恋が始まったばかりで、いきなり家計のお話!」


 そこで扉が開き、マウリッツ様が連れ二人を伴って入ってきた。金の巻き毛を揺らし、レースの襟飾りを直しながら、私の机の前で足を止める。


「帳簿女が、どうやってあの女嫌いをたぶらかした? 弱みでも握ったんだろう」


 教室の声が、すっと引っ込んだ。鞄に置いた指が、知らずこわばる。あの人の七十年を〈弱み〉の一言で片づけるの。帳場なら、ここでお引き取り願うところだ。


「はいはい――今のは聞き流せませんね。……弱みでしたら、握っております」


「ほら見ろ! やはり――」


「あの方、朝にお弱いんです。……ご覧ください」


 私は椅子を引き、窓を開けた。ひやりとする春の風が頬をなで、うなじで一つに結んだ栗色の髪を揺らす。


 一階の教室の窓のすぐ下、中庭のベンチで、ヨーランは眠っていた。目にかかる黒い前髪が頬へ落ち、膝には開いたままの素描帳がある。


 風がその頁をめくった。どの頁にも、同じ娘の顔。私の顔だ。あらまあ、起きているときは、ろくに言葉も出ないくせに。夜明けから私を待って、そのまま寝てしまったのね。七十年この人の寝顔を見てきた私には、それくらい分かる。


「来てくださるのは嬉しいのですけれど……朝はいつも、こうなのです」


 級友たちが窓に押し寄せた。男子がベンチを指さし、こらえきれずに声を弾ませる。


「女嫌いのヨーランが、窓の下で寝てるぞ! 膝の素描帳、リスベット嬢の顔ばっかりだ!」


「……帳簿女が、そういう絵を描けと命じたんだろう!」


「眠っている方にまで絵を描かせるほど、私も厳しくはございませんよ」


 窓際から、どっと笑い声が上がった。ベンチのあの人は素描帳を抱えこみ、寝返りを打っただけで、目も開けない。


「マウリッツ様。惚れた弱みを握られているのは、どう見ても女嫌いの殿方のほうですわよ」


 笑う級友たちの顔が、窓の下からマウリッツ様へ向き直る。彼はレースの襟飾りを握りしめ、連れを置いて教室を出ていった。追いかける足音はしない。


 私は窓を閉めて振り返り、笑うと線になる目をトーニャ様へ向けた。トーニャ様は恋愛小説の頁を開き、私の机に指先をぴたりと置く。今度は、こちらが授業を受ける番らしい。


「決めましたわ。恋の初心者のお二人に、このわたくしが手ほどきして差し上げます。まずは放課後、門でお待ち合わせ。それから、手をつないでお帰りになること!」


 恋の初心者とは……思わず苦笑してしまう。


「待ち合わせに、手をつなぐこと、ですか?」


「そうですわ! お金を数える前に、殿方のお顔を見て照れるのです!」


 頬が引きつりそうになるのを、私は手で押さえた。七十年連れ添った夫婦に、待ち合わせの手ほどきとはね。


「……ご親切に、ありがとう存じます」


「恋愛小説を百冊読んだわたくしですもの。絶対に、失敗はさせませんわ!」


「それでは、まず待ち合わせのお相手を、授業の前に起こしてまいります」


       ◇


 放課後、学園の門の脇に、猫背の青年が立っていた。傾いた日差しが、門の影を長く道へ引いている。通りかかる令嬢たちは、あの睨む顔を見て、そそくさと道の反対側へよける。


 私が歩み寄ると、よけた令嬢たちまで足を止めた。靴音が途切れ、視線だけがついてくる。誰も近づけなかった学園一の女嫌いが、私ひとりを待っている。


 夕日の中で、夫の右の耳が赤くなった。人の中から、私だけはすぐに見つけたらしい。口より先にお返事する耳は、昔のままだ。


「授業より、長く感じた」


 私は夫の耳元へ顔を寄せ、令嬢たちには届かないところまで声を落とす。


「あら。朝は窓の下でうたた寝、放課後は門で待ちぼうけ。忙しいおじいちゃんね」


 門の脇の令嬢たちが、まだこちらを見ている。おっと、今は子爵家の娘だった。背筋を伸ばし、声だけはよそゆきに戻しておく。


「皆様、ずいぶん驚いていらっしゃいましたよ。門で待つヨーラン様を、初めてご覧になったようで」


 ヨーランは黙って私の鞄へ手を伸ばした。持ってくれる手つきには、少しのためらいもない。


「お荷物まで、ありがとうございます」


「……うん」


 並木道へ足を向けた。若葉の影がまだらに落ちる道に、土と青い葉の匂いがする。少し後ろの植え込みには、恋愛小説の角が見え隠れ。まったくもう、先生は見学つき。


 夫の目が、私の手のほうへ三度動いた。前の人生では、出会って三か月で店に入り、毎日帳場で顔を合わせる暮らし。待ち合わせも、こうして手をつないで帰ることも、一度もしないまま。こんな小さなことを、私たちはやり残していたのね。


「……手を、つないでも、いいか?」


「七十年、毎晩私のお皿から芋をさらっていった人が、今さら何を」


「それとこれは違う!」


 並木の小鳥が飛び立つほどの声だった。私はこらえきれずに笑い、自分から手を差し出す。夫の大きな手が、指を一本ずつ確かめるように重なった。


 七十年握ってきた手なのに、十八の手は熱い。指の間まで温かくて、どこに目を向けていいか分からない。こういう時まで先回りできるつもりでいたのに、心臓のほうが先に走りだす。


「……やだ、私まで照れてる」


「……芋とは、違うから」


「ええ、ええ。芋とは違うのね。握っただけで、よく分かったわ」


 植え込みで、トーニャ様が声を上げた。恋愛小説の角と一緒に、足元の葉がわさわさ揺れる。


「手をつないだだけで、お二人とも真っ赤! やっぱり初心者ですわ!」


「トーニャ様、そんなに大きなお声では、道の皆様に聞こえてしまいます!」


「それでも、お二人ともお手はお離しになりませんのね!」


 言われて、顔を見合わせた。あらまあ、離すほうの手順は習っていない。つないだ指に、かすかに力がこもる。どちらからとも分からないくらい、同時に。


 子爵家の門の前に着いても、夫は手を離さない。私は空いているほうの手で、門の取っ手に触れた。金具はひんやりして、つないだほうの手だけが、まだ熱い。


「明日も会えるわよ。だから、そろそろ私の鞄を返してちょうだい」


 夫はうなずき、私の手をゆっくりほどく。指が離れるたびに、夕風が入りこんできた。鞄を差し出しながら、何か言いたそうに口を結んでいる。


「明日の朝、渡したいものがある。……早く起きる」

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