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1. 「おじいちゃん」と呼びかけたら

「リスベット、君との婚約は破棄する。帳簿しかつけられない女は、伯爵家の妻にふさわしくない」


 七十年ぶりに聞く台詞だった。楽師の曲が途切れた王立学園の大広間に、蝋燭の甘い煙が漂う。誰かが息をのむ音まで、よく聞こえること。


 ゆうべ、八十九の冬の夜、私は下町の文具店の二階で、夫と並んで眠りについた。それなのに今朝目を覚ますと、鏡の中には十八歳の春の私がいたのだ。


 前の人生では、この夜、中庭で泣いた。けれど今度の私、子爵家の娘リスベットは、笑うと線になる目のまま、小柄な背をすっと伸ばす。膝が軽い。よっこいしょも要らないなんて、若いって便利ね。


「婚約の破棄、確かに承りました」


 マウリッツ様のレースの襟飾りが、ふるりと揺れる。細い首を反らして差し出されたのは、婚約を破棄する書付だ。紙の端が、早く受け取れと言わんばかりに揺れている。


「手付金は返してやる。せいぜい帳簿にでもつけておくんだな」


 書付には金貨二百枚、とある。その数字に目が止まり、紙を持つ指先がすうっと冷たくなった。


 三年前に納めた手付金は三百枚。破棄を言い出した側が全額を返す決まりである。引き算までお任せした覚えはないわよ。


「はいはい――今のは聞き流せませんね。お預けした手付金は、金貨三百枚でございます」


 近くの生徒たちが、マウリッツ様の手元の書付をのぞき込む。さっきまで私に集まっていた視線が、そちらへ流れた。


「ひゃ、百枚くらい、細かいことを!」


 人垣から、公爵家の末娘トーニャ様が首を伸ばす。桃色がかった金髪の二つ結びが跳ね、胸に抱えた恋愛小説がぎゅっと押さえられた。


「百枚を細かいとおっしゃる殿方は、恋愛小説でも振られますわよ」


「細かい数字を読む女など、夜会で誰が相手にする!?」


「百枚を大きくお使いになる殿方のお相手こそ、よほどご苦労でございましょう」


 令嬢の一人が、扇の陰でぷっと吹き出す。


「返す金の話まで、皆の前でする必要はないだろう!」


「皆様の前でお渡しいただいた書付ですので。百枚分だけ、額をお正しくださいませ」


「まあ! 百枚あれば、恋愛小説が何冊買えることか!」


 生徒たちが口を押さえて笑った。私は書付を引き取らず、指先でそっと押し戻す。マウリッツ様はそれを握りつぶし、水色の目で私をにらむ。この人の家の帳簿が十年後にどうなったかも、私は知っている。


 まあ、それは今夜の勘定ではないわね。私は一礼して、人垣に背を向けた。


 大広間の向こうに、背の高い猫背の青年がいる。学園一の女嫌い、文具商の跡取りヨーランである。いま、令嬢のダンスの誘いに、黙って首を横に振ったところだ。


 あの人は女嫌いじゃない。女の子の前で固まると、睨むような顔になるだけ。そして今夜は、人垣の切れ目ばかりに目をやっている。


 探しものなら、ここにいるわよ。人垣を抜けて、あの人の背中に立つ。あらまあ、またその顔。


「おじいちゃん、そんな顔で睨むと、また子どもが泣きますよ」


「へっ!?」


 彼は目を見開き、次の瞬間、その場に膝をついた。


 目にかかる黒い前髪が揺れる。いつも見上げていた顔が、大広間の真ん中で、私より低いところにある。


「もう一度、僕と結婚してください」


 差し出された大きな手に、自分の手を重ねる。黙って立ち尽くすと思っていたのに、ぽかんと口を開けたのは私のほうだった。胸の奥だけが、遅れてぎゅっと縮む。


 私は知っている。この人が朝に弱いことも、嬉しいと右の耳が赤くなることも。


 だって私たちは、七十年連れ添った夫婦なのだから。


「な……女嫌いのヨーランが、帳簿女に、膝を……!?」


 ヨーランは跪いたまま、首だけをマウリッツ様へ向けた。私の手を包む指に、ぐっと力がこもる。


「……僕の妻を、帳簿女と呼ぶな」


「つ、妻ですって!?」


「たった今、婚約を破棄されたリスベット嬢に、もう求婚!?」


 別の声が、すぐに重なる。


「あの女嫌いが、自分から女の子に……!」


 大広間がどっと沸いた。マウリッツ様の手から、握りつぶした書付がこぼれ落ちる。彼はそれも拾えず、人垣の後ろへ下がっていく。その姿が隠れてから、裏返った声だけが飛んできた。


「て、手付金は、三百枚、明日届けさせる!」


「はい。帳面にきちんとおつけしておきますね」


 立ち上がろうとする夫の手を、私は両手で取る。どうして今さら、この手を離すのが惜しいんだろう。


「失礼いたしました。気が早くて……」


「気が早いどころではありませんわ! 小説なら三巻ぶんですわ! ふふっ」


 まったくもう、最初の失言が〈妻〉だなんて。裾を踏まないよう気をつけながら、私は夫の手を引いて、大広間を出た。


       ◇


 七十年前に私が泣いた噴水のそばへ、二人で出る。夜気が頬を冷やし、濡れた石の匂いが鼻をくすぐる。扉の向こうのざわめきが遠のくと、水音だけがやけに大きい。


 前の人生では、睨むような顔の少年がここで黙って、青い格子のハンカチを差し出した。三か月後の求婚だって、言葉ではなく、帳面に挟んだ指輪ひとつ。


 それが今夜は、私の顔を見て言ってくれたのだ。あの短い言葉がまだ耳に残るまま、噴水の縁で夫の袖を引いた。


「もう。あなた、人前で妻なんて言って」


「七十年、妻だったじゃないか……」


「ここではまだ、ただの同級生です! 明日、学園じゅうの噂になるわよ」


「……なればいい」


 この人ったら。袖を引かれても、ちっとも困っていない顔をしている。


「それにしたって、いつから探してたの?」


「朝の四時から」


 聞き違いかと、思わず夫の顔をのぞき込んだ。


「嘘でしょ。七十年、一度も朝起きられなかったくせに!」


「……待てなかった」


「私のほうから探しに行ったのに。いつもどおり、寝坊してればよかったのよ」


「……会いたかった」


「もう、そんな一言で片づけないで。私だって、今朝からずっと心細かったんだから……」


 夫の黒い目が、私をまっすぐ見下ろす。彫りの深い顔は相変わらずの仏頂面なのに、指先だけが、私の袖をそっとつまんでいた。


「僕も」


「……それにしても、あなたが跪くなんて。ゆうべまでは膝が痛いって、床にも座らなかったくせに」


「……今は、痛くない」


 そういえば、私の膝もちっとも鳴らない。


「私もよ。さっきなんて、よっこいしょって言いそびれちゃったわ」


「……言わなくていい」


「言いたいのよ。七十年の口癖なんだから」


「……知ってる」


 夫の口の端が、ほんの少しだけ上がった。睨んでいるようにしか見えない、この人の笑い顔。私にはちゃんと分かるんだから、得なものね。


 夫は上着の内から、青い格子のハンカチを出した。七十年前と同じように、四つに折って、角まできちんとそろえてある。


「……今度は、泣く前に渡す」


 笑うと線になる目から、ぽろりと涙が落ちた。泣く前に渡してもらったのに、これじゃ全然間に合ってないじゃない。


「やだ、また使わせるの。今夜こそ、笑って受け取るつもりだったのに」


「……泣いてる顔も、知ってる」


「知ってるなら、今は見ないでちょうだい」


「……見る」


 夫はそれきり、口を閉じた。困ると睨む顔になるところも、昔のまま。ハンカチで視界をふさぐのが、少しもったいない気もする。


「また、僕を選んでくれるか?」


「七十年かけて間違いなかった人です。今さら選び直す手間は、かけません」


 私は夫の指を握り返した。言葉だけで足りなければ、これで伝わるまで離さない。


「今度は指輪を帳面に挟まずに済んだわね。ちゃんと私の顔を見て、言えたでしょう?」


「……うん」


 背伸びをして、猫背の夫の頭を引き寄せる。額と額を合わせるのに、よっこいしょはいらない。


「ただし今度は、卒業してからですよ」


「……一年か」


「あら、七十年に比べたら、瞬きひとつよ」


「……瞬きでも、長い」


 むすっとした声なのに、間近に見える右の耳はやっぱり赤い。額のぬくもりが移って、私まで離れがたくなる。


 前の人生で、私は先生になりたい夢を帳場(ちょうば)の引き出しにしまった。夫の絵だって、店の包み紙の裏にしか居場所がなかったのよ。


 額を離して、あの人の手を握り直した。今度も、この人と結婚する。私の夢も、この人の絵も、置いていかずに。


「それと今度は、夢も持っていきますからね、おじいちゃん」

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