3. 百年早いそうなので
早く起きる、と言った人のために、私はもっと早く家を出た。まだ冷たい朝の空気が、歩くたび袖口から入り込む。どうせベンチで寝ているのだから、起こすところから始めよう。
ところが、夜明けの中庭で私を待っていた夫の目は、ぱっちり開いていた。目にかかる黒い前髪の下に濃い隈を見つけて、私は足を止める。
「あらまあ。朝起きてるおじいちゃんなんて、七十年で初めて見たわ」
「……寝てない」
夫が畳んだ紙を差し出した。朝露で湿ったベンチに並んで座ると、木が小さくきしむ。つい膝に手を添えてしまうのは、体より癖のほうが年寄りだからかしら。
初等科の教師見習いの募集、一名。締め切りは今日の夕方の鐘で、教師一人の推薦の署名が要る。
紙から目を上げても、夫は私の若草色の目から視線をそらさない。紙の端を持ち直した指先が、寒さのせいでもないのに震えた。
前の人生で、これと同じ紙をしまったのは、帳場の引き出しの奥だ。今度は夢も、と言えたくせに、いざ手が届きそうになると口が開かない。声にした途端、できない自分まで見つかってしまいそうで。
「……私、中身はもう八十九よ」
「君なら、先生になれる」
「あなたは妻に甘すぎます」
「七十年、実物を見て言っている」
私は募集の字を指でなぞった。体が若返ったからって、教壇に立てるわけじゃないもの。
「落ち着いて見えるのは、歳を取ったぶんよ。先生に要るものが、全部揃ってるわけじゃないわ」
「これからだ」
「あなたったら、簡単に言うんだから。……できなかったら、私、きっと泣くわよ」
「隣にいる」
先生になれなくても、隣に。そう聞こえて、握りしめていた指の力をそっと緩める。
「……ずるいわよ、そういうの」
夫の指が、紙を持つ私の手に重なった。冷えた指先に、そのぬくもりがしみてくる。紙の裏には、教員室の場所と時刻まで書き足してある。
この人が、夜明け前に自分で取ってきてくれた紙だ。あらまあ、言わないうちに分かっていたのは、こっちの人のほうだった。
「……どうして、先生になりたかったって、知ってるの?」
「帳場の引き出しに、これと同じ紙が、七十年入ってた」
紙の上へ涙が落ちる。夫がハンカチを私の指へ掛けたけれど、一粒だけ間に合わず、募集の字が少しにじんだ。
知り尽くしたつもりだったのに。言わずにしまったものまで、この人は見ていたんだわ。引き出しの奥で古びていった願いが、今、私の膝の上にある。
「七十年、私、何も言わなかったのに。あなたも、何も聞かなかったじゃない」
「……今、聞く」
「私、先生になりたいの。帳場のおかみさんの私も幸せだったけど、教壇の私にも会ってみたい」
「……知ってた」
ぼそりと落ちた一言に、私は夫の袖をきゅっとつかんだ。まったくもう、泣かせるのも、じれったくさせるのも、この人はいつも一言だ。
「知ってたなら、七十年のうちに一回くらい言いなさいよ!」
「……言えなかった」
私は紙を畳み直し、鞄のいちばん上へしまう。今度は引き出しではなく、すぐ取り出せる場所へ。夫の右の耳が、朝日の中で赤くなる。
「……出すわ。今日の夕方の鐘までに」
◇
夕方の鐘まで、あと半刻。インクと古い紙の匂いのする教員室で、私は応募の書付を手に机を回った。書付の端は、朝よりずっと柔らかい。握り直すたびに、指の汗を吸っていく。
「推薦の署名を、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「女の教師見習いには、まだ前例がありませんので……」
どの教師も、目を合わせてくれない。返される書付の上で、空いたままの署名欄がやけに白く見えた。窓際でレースの襟飾りが揺れる。机に腰を掛けたマウリッツ様が、私の書付をじっと見ている。
あの人の父親は、この学園の理事の一人だ。教師たちが目を伏せるのは、私より先に、彼が何か言い置いたからだろう。
「リスベットさん、書付をこちらへ」
奥の机から声を掛けたのは、学園でただ一人の女の教師、ヴィヴェカ先生だった。白髪まじりの黒髪をきっちり結い上げ、琥珀色の目を私に向けている。戸口には、夫の猫背も見える。
「帳簿女が教壇に立つなど、百年早い。推薦を書いた教師は、父上に報告するからな」
ヴィヴェカ先生のペンが、袖口の白墨のそばで止まった。ほかの教師たちの目も、机に落ちたまま動かない。紙をめくる音まで、ぴたりと途切れる。
私の夢をしまっていた引き出しには、今朝、自分で手を掛けたのだ。よそのお父様の名前で、閉じられてたまるものか。
「はいはい――今のは聞き流せませんね。百年でしたら、あと十一年ほどで足ります」
「は? 何を言って――」
戸口で夫が吹き出した。八十九に十一を足す勘定は、この世であの人にしか通じない。まったくもう、こっちは澄ました顔で言ってるのに。
私は懐から、小さな帳面と鉛筆を取り出した。七十年、数と約束を忘れないために持ち歩いた癖で、手が勝手に動く。
「では、今のご報告の件は、私の帳面にもおつけしておきます。本日の日付と、お名前と、どなたを脅されたか」
本日の日付、その下にマウリッツ様のお名前。静まり返った教員室に、鉛筆の走る音だけがさらさらと響く。教師の一人が、伏せていた顔を上げた。
「そんなことまで書きつけるのか!」
「帳簿しかつけられない女ですので。お名前の綴りは、こちらでよろしいでしょうか?」
マウリッツ様の細い首が、帳面のほうへ伸びる。推薦を書いた教師は父上に報告する、と私は次の行へ続けた。
「お、脅してなど、いない!」
「それでしたら、書かれても差し支えございませんね」
顔を上げた教師が、私の帳面と、窓際の彼を見比べる。
「……それは、そうですな」
ほかの教師が小さく吹き出す。こらえた笑いが、机から机へ移っていった。ヴィヴェカ先生がペンを置いて立ち上がり、私の書付を取る。
「書き残される脅しなら、怖くないわね。……前例なら、ここに一人いるわ」
先生が持ち直したペンが、署名の欄を滑っていく。マウリッツ様が口を開いた時には、もう名前の最後の一画まで書き終えていた。誰も止めない。
「せ、先生! 父上が黙っていませんよ!」
「報告なさいな。日付なら、リスベットさんの帳面に書いてあるわ」
「ご推薦を、ありがとうございます!」
「お礼は、子どもの分かった顔で返してちょうだい」
私は書付を両手で受け取る。指に力を入れすぎると、せっかくの署名までしわにしてしまいそうだ。マウリッツ様は帳面を睨み、何か言いかけてやめた。戸口の夫の横をすり抜けて、彼は教員室を出ていく。
教頭が丸い眼鏡を拭き、ゆっくりと掛け直す。
「では明日の三限、初等科で、模擬授業を見せていただきましょう」
廊下へ出ると、夕方の鐘が鳴りはじめた。重なり合う音が窓を震わせ、まだ速い胸の鼓動に響く。西日の差す窓の前で、夫は私が顔を上げるまで待っている。
「……出せたか?」
「出せたわ。……でも、先生の私なんて、あなた、想像つく?」
目にかかる黒い前髪の下から、夫は私を見た。何かを数えるように指を動かしかけて、それから口を開く。
「店に来た子どもに、釣り銭の数え方を教えてた。花屋のおかみには、帳簿の付け方。向かいの坊主には、字。……全部、見てた」
あらまあ、まだ続くの。七十年で、この人が一度にしゃべった一番長い台詞だった。
私はつい指を折って、子ども、おかみ、向かいの坊主と数えてしまう。喉の奥が熱くて、声より先に笑いがこぼれた。教壇に立つ私は、知らない誰かじゃないのかもしれない。
「もう、こんなところで褒めるんだから。そんなに見てたなんて、照れるじゃない。教壇で困ったら、その顔を探してもいい?」
「……うん」
私は笑うと線になる目で、夫を見上げた。今度は私も、あなたが言わずにしまったものを見たい。
「……じゃあ今度は、私にもあなたの絵を見せて」




