悪魔の囁き
かたやまういです。
いよいよ平穏が崩れていきます。
さらにその1ヶ月後
「おはようございます!」
いつもと同じように、フィンは門のところにいる警備員に挨拶し、訓練施設に通じる自動ドアを通った。
ーーけれど。
「あなたを子どもたちに会わせることはできない!!!お引き取り願おう!!」
施設の中の様子は、いつもと違っていた。
入り口から入ってすぐの開けたロビーで指導役がフィンに背中を向けて怒っている。彼の前にいるのは、スーツに身を包んだ若い男。
ずいぶん細い体だ。東側の人かな、とフィンは思った。
その彼が、フィンに気づいた。
「おや、きみはここで訓練を受けている子かな?」
「え、は、はい……」
指導役の奥から突然話しかけられて、フィンはしどろもどろになりながら返事をした。
若い男がにこりと微笑む。
フィンの背筋に冷たいものが走った。相手は笑っているだけなのに。
「フィン!今日は帰りなさい。訓練はなしだ」
指導役が、フィンを若い男から隠すように移動する。フィンに向けられた背中から緊張が伝わってきた。
「え、」
思わぬ言葉にフィンは固まる。警報でも出ない限り、今まで訓練が休みになったことなどなかったのだ。
その場から動けないでいるフィンに若い男が畳み掛ける。
「少し僕とお話ししませんか?」
指導役がフィンを振り向かずに叫んだ。
「話を聞くな!」
「きみにとっても悪い話じゃありません」
指導役が怒っているのに、まったく笑みを崩さない若い男の姿に、フィンの頭が警戒を告げている。
この人は、何か変だ。
「早く帰るんだ!!」
フィンは指導役のその言葉を背に外へ駆け出そうとする。
しかし、男が言った。
「大学に行きたくはないですか?」
フィンは、ぴたりと足を止めてしまった。
「西側最大の訓練施設で2年間訓練を受ければ、大学進学の援助を受けられるんです」
"大学"
その言葉は、今のフィンにとって、何よりも甘美な餌だった。
「寮付きの施設で、ちゃんと中学の勉強の続きも教えてもらえますよ」
若い男はニコニコと明るい声で続ける。頭はダメだと言っているのに、フィンはもう心を奪われてしまっていた。
「なんと1人一部屋!どうです?話だけでも聞いてみませんか?」
「本当に、大学行けるの……?」
カラカラに乾いた喉から言葉を絞り出す。
「充実した援助が受けられますからね」
指導役がフィンと若い男の会話を遮ろうとした。
「フィン!迷うな、帰れ!!」
指導役はいよいよ声を荒げる。いつもよりきつい言葉に、フィンはびくりと体を震わせた。
「子どもの自己決定を邪魔するのはいただけませんね。あまり度がすぎると、委員会に報告しなければいけなくなるのですが…」
フィンから見えない位置で、若い男がスッと厳しい目を指導役に向ける。
「ふざけるな!自己決定だと!?子どもたちの貧困につけいっているだけだろう!!」
しかしそんな脅しで屈する指導役ではない。
背筋を伸ばしはっきりとそう言い切って若い男を睨んだ指導役の背中から、まだ声変わりしていない声が聞こえた。
「俺、行きます」
指導役は、ゆっくりと後ろを振り返る。そこには、いつの間に歩いてきたのか、近距離で両手を強く握って若い男を見るフィンの姿があった。
指導役は血相を変えてしゃがみ込み、フィンの両肩を掴んだ。
「フィン!何を言ってるんだ、考え直せ!こんな上手い話があるわけないんだ。国はお前たちをせん____」
戦争に、という言葉は、若い男に遮られた。
「そこまでです。情報漏洩で彼まで罰を受けることになりますよ?」
若い男は、"彼"というところでフィンに目をやる。
「……っ」
指導役は口を引き結んで俯いた。
フィンはわかっていた。自分が指導役を困らせていることを。
けれど、もう我慢できなかった。
"ないんじゃなくてさ、周り困らせたくないから言わないだけじゃねーの"
その通りだ。興味があるとか、憧れとか、そんなものじゃない。
今までどこにも書けなかった、"将来の夢"だ。
フィンは震える声で言った。爪が手のひらに食い込んで痛かった。
「……俺、学校の先生になりたい、です……」
フィンの方を掴む指導役の力が一瞬緩む。
「だから、大学、行きたい……!」
はぁ、はぁ、とフィンは肩で息をした。
言った。
言ってしまった。
もう後戻りはできない。
「では、この紙にサインを」
若い男がぐいっと指導役からフィンを離して、紙とボールペンを渡してくる。
フィンは興奮がおさまらないまま、地面に紙を置いてペン先を滑らせた。
「だめだ、やめなさいフィン!やめろ!!」
フィンのペンを持つ右手を掴もうとした指導役を、若い男が制止する。
「あなたはただの指導役です。家族でもなんでもないのですから、彼の決断を棄却する権利などありません」
若い男は笑みを絶やさない。しかしその笑みこそが、指導役に悪い予感を覚えさせた。
「書け、ました……」
フィンがそう言って紙から顔を上げる。
指導役の手から、力が抜けた。
「フィン……」
「よく決断してくれましたね。その紙をこちらに」
フィンがサインした紙を渡すと、若い男はそれを鞄にしまい、フィンに手を差し出して言った。
「では、行きましょうか」
「え、」
驚いて固まるフィンを見て、若い男が不思議そうに首を傾げる。
「おや?サインしたでしょう?」
「い、今から、ですか……?」
フィンの背中に嫌な汗が流れた。
「ええ。こういうものは早い方がいいですから」
フィンが戸惑っているのに、若い男はずっとにこやかなまま、一切表情を変えない。
「で、でも、荷物とか……。学校の宿題も終わってないし……」
言い訳を並べて今日からはちょっと、と尻込みするフィンの言葉を、若い男は一つずつ切り捨てる。
「荷物は後で送っていただきますから心配ありません。宿題も、あちらで新しいものが出ますから、こちらのものはもうやらなくていいんですよ」
そして、念を押すように満面の笑みになった。
「ね?何も心配ないでしょう?」
その笑みに圧倒されて、フィンは曖昧に頷く。
「……たし、かに?」
「そうでしょうそうでしょう。ほら、行きますよ」
若い男がフィンの手首をぐいっと掴んで出口に向かった。
フィンは若い男に引っ張られつつも、一瞬だけ後ろを振り向く。
フィンの肩を掴むためにしゃがみ込んだときの体勢のまま途方に暮れている指導役が、その日フィンが故郷で見た最後の景色だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
やっとタイトルと齟齬のない展開になってきたと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。




