第五章 最初の一周
テスト当日の朝、Helter Skelter の空には薄い雲が広がっていた。
観客席は無人で、広告看板の下を冷たい風が抜けていく。普段なら歓声と実況に包まれるメインストレートも、今日はエンジンの暖機音だけが遠くまで響いていた。
ピットでは、各担当者が最後の確認を続けている。
「左前、締め付け完了」
「空気圧、基準値」
「データロガー接続確認」
短い言葉が飛び交うたび、誰かが復唱し、記録に印をつけた。
僕は Pit Wall の内側に座り、初めて無線用のヘッドセットを装着した。耳の周りが締め付けられ、自分の呼吸が普段より大きく聞こえる。
エンキが隣へ立った。
「緊張している?」
「少し」
「最初は誰でもそうなる。ただし、緊張しているときほど結論を急がないことだ」
彼はコースモニターへ目を向けた。
「今日は速さを見ない。車が何をしているかを見る」
ピットレーンに停まっていた Assoluto のエンジン回転が上がった。
黒い車体がわずかに震え、メカニックたちが一歩ずつ離れていく。ロリンズと呼ばれるドライバーが片手を上げると、車はゆっくりとピットを離れた。
一周目はシステム確認。
二周目はブレーキとタイヤを温める。
三周目から速度を上げる。
無線からはロリンズの落ち着いた声が聞こえていた。
『フロント問題なし。リアも安定している』
データ担当が数値を読み上げる。
「タイヤ温度、予定範囲。ダンパー異常なし」
車は高速区間へ入り、長い右コーナーを抜けた。
モニターに表示された速度が上がる。
誰もラップタイムを口にしなかった。
僕たちが見ているのは、最後の S 字だけだった。
Assoluto が右へ切り込み、すぐに左へ向きを変える。カメラの角度が切り替わり、低い車体が路面の起伏へ近づいていく。
一瞬、フロントが軽く浮いた。
ほんのわずかな動きだった。
しかし、着地した直後、車体は外側へ半台分ほど膨らみ、ロリンズがステアリングを戻して姿勢を整えた。
Pit Wall から声が消えた。
データ担当が画面を拡大する。
「サスペンションストローク、急激に戻っています」
「ステアリング角も残っている」
サスペンション担当が波形を指した。
「接地の瞬間と、切り返しが重なった」
無線が入った。
『最後の S 字、少し跳ねた。方向が一瞬抜ける感じがある』
エンキがマイクを取る。
「了解。次の周回は同じラインで、進入速度を少し落としてくれ」
『了解』
次の周回では動きが小さくなった。
その次は、再びペースを上げる。
車体は同じ地点で跳ね、前回より大きく外へ押し出された。
誰も喜ばなかった。
仮説が正しかったと証明されたわけではない。ただ、現象が存在することだけは確認できた。
五周目を終えたところで、エンキはロリンズをピットへ戻した。
Assoluto が速度を落とし、ガレージ前に停まる。
エンジンが切られると、それまで耳を満たしていた音が突然消えた。
エンキがヘッドセットを外し、僕に尋ねた。
「見えたか」
「はい」
「何が見えた?」
僕はモニターに残った波形と、静かに冷えていく車体を交互に見た。
「車が跳ねたことです。ただ、なぜ跳ねたのかは、まだ分かりません」
エンキは小さくうなずいた。
「それでいい」
ピットの外では、誰もいないフィニッシュラインの上を風が通り過ぎていた。
確かに、車は跳ねた。
そして、その小さな動きが、僕たちに次の問いを残していた。




