第三章 ヘルター・スケルター
一週間後、会議室の正面には Helter Skelter のコース図が映し出されていた。
港の倉庫を改装した建物らしく、窓の外にはクレーンとコンテナが並んでいる。ガラスへ差し込んだ午後の光が、長いテーブルの上を二つに分けていた。
明るい側には資料が置かれ、暗い側には使い終えたコーヒーカップが残っている。
エンキはコース図の前に立ち、レーザーポインターで最終セクターを示した。
「昨年のデータをそのまま使うことはできる。しかし、それは昨年と同じ結果を受け入れるという意味でもある」
誰も口を挟まなかった。
昨年、Rotaryauto Racing は Helter Skelter で完走こそしたものの、終盤にラップタイムを落としていた。表向きの原因はタイヤの摩耗とされていたが、資料を見れば、それだけでは説明できない不安定さが残っている。
エンキはポインターを置き、全員を見渡した。
「もし一つだけ変更できるとしたら、君なら何を変える?」
最初に答えたのは空力担当だった。
「リアウイングです。高速区間で失っている時間が大きいので、ドラッグを減らしたい」
タイヤ担当は首を横に振った。
「それでは最終区間がさらに不安定になります。私は空気圧を見直します」
「ただし、下げすぎれば温まりが遅れる」
サスペンション担当が資料をめくりながら加えた。
「僕ならリアの車高を調整します。高速時の姿勢を安定させながら、最終セクターの回頭性も残せる可能性がある」
意見はすぐに分かれた。
しかし、声が大きくなることはなかった。誰かが話し終えると、別の人間がその意見の弱点を指摘し、さらに別の担当者が条件を付け加える。
僕は記録を取りながら、昨年の車載映像を見直していた。
最終セクター。
右、左と連続する S 字。
出口の先にはフィニッシュラインがあり、外側には壁が近い。映像では何台もの車が、同じ地点でわずかに姿勢を乱していた。
ほんの一瞬、車体が上下する。
それだけなら路面の起伏に見える。
しかし、着地した直後、ドライバーの手が小さくステアリングを修正していた。何台かは外側の壁へ近づき、さらに修正を重ねている。
僕は映像を一度止め、数秒戻した。
同じ箇所を再生する。
やはり、車体が跳ねている。
「何か見つけた?」
隣に座っていたマークが、小声で尋ねた。
「まだ、見つけたとは言えません。ただ、最終 S 字の手前で、何台か同じ動きをしています」
画面を見せると、マークは眉を寄せた。
「路面の継ぎ目かな」
「そうかもしれません。でも、跳ねたあとにステアリングを修正しています」
「接地した瞬間に向きが変わっている?」
「映像だけでは分かりません」
僕たちの声に気づいたエンキが、会話を止めずにこちらを見た。
「共有してくれるか」
視線が一斉に集まった。
僕は少し迷ったが、車載映像を会議室の画面へ切り替えた。
「最終 S 字の進入から出口にかけて、複数の車が同じ地点で上下しています。その直後にステアリングの修正が入っているので、車体が落ち着く前に次の荷重移動が始まっている可能性があります」
サスペンション担当が前へ身を乗り出した。
「どの周回?」
「昨年の決勝、十二周目と十五周目です。ほかのチームにも似た動きがあります」
タイヤ担当が尋ねた。
「タイヤが摩耗してから大きくなる?」
「そのように見えますが、比較できるデータが足りません」
エンキは映像を止めたまま、全員を見渡した。
「この現象が事実だとすれば、最初の質問への答えは変わるだろうか」
空力担当が腕を組んだ。
「少なくとも、リアウイングだけを先に変えるのは危険ですね」
「タイヤも原因ではなく、結果かもしれない」
タイヤ担当も自分の資料へ視線を落とした。
サスペンション担当はしばらく黙っていたが、やがて僕に尋ねた。
「君は何を変えるべきだと思う?」
「まだ分かりません」
正直に答えると、彼は小さくうなずいた。
エンキも笑わなかった。
「それでいい。観察と結論は、同じものではない」
彼は白板へ向かい、最終 S 字の位置に赤い丸を描いた。
「まず、現象が本当にあるのかを確認する。そのあとで、何を変えるかを決めよう」
会議が終わったあとも、赤い丸は白板に残っていた。
サーキットは、まだ何も答えていない。
けれど僕たちはようやく、何を尋ねるべきかを見つけた。




