おまけ 名前で呼ぶ日 前編
付き合い始めて少し経った頃。
二人で図書館に行った帰り道だった。
いつものように、生化学の話とか、くだらない語呂の話をしながら歩いている。
「踏まれたリンゴ、そろそろ呪いだよね」
「定期的に思い出させるオギーが悪い」
そんな会話の途中で。
オギーがふと、言った。
「ねえ」
「ん?」
花音はスマホを見たまま返事をする。
少し間があって。
「……花音」
その呼び方に、花音は一瞬だけ手を止めた。
「え」
思わず顔を上げる。
オギーは少しだけ目をそらして、
「いや、なんかさ」
「ハギーって呼ぶのもいいんだけど」
「今は、花音って呼んだほうがいい気がして」
花音はすぐに返せない。
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オギーは続ける。
「付き合ってるのに、ずっと“ハギー”って変かなって思ってたんだよね」
「でも急に変えるのも変だしさ」
「タイミング分かんなくて」
少しだけ困ったように笑う。
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花音は、小さく息を吐いてから言う。
「別に、どっちでもよくない?」
オギーは即答できずに一瞬止まる。
「え、いいの?」
「うん」
花音は普通に言う。
「オギーはオギーだし」
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その返しに、オギーは少しだけ笑う。
「それはそう」
でも、そのあとすぐに小さく付け足す。
「でもさ」
「ちゃんと好きな人って感じするじゃん、花音って呼ぶと」
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その言葉に、花音の胸が少しだけ動く。
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それからしばらく、二人は普通に歩く。
でも帰り道の空気だけが、少し違っていた。
オギーがもう一度、試すみたいに言う。
「花音」
今度はさっきより自然だった。
花音は少しだけ間をおいて、
「なに」
と返す。
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オギーは少し笑って、
「いや、呼んでみただけ」
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そのあと何もなかったみたいに、
また「踏まれたリンゴ」の話に戻る。
でも花音はちょっとだけ思う。
(あ、ちゃんと変わったんだ)
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そしてその日から、
オギーは自然に「花音」と呼ぶようになった。
たまに照れもなく、
たまに何事もなかったみたいに。
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その変化に気づくたびに、
花音の中の距離感も少しずつ変わっていく。




