26話
午後の実習は、思ったより長引いた。
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白衣姿の学生たちが、疲れた顔で器具を片付けていく。
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「終わった……」
「腰痛い」
「今日レポート書ける気しない」
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そんな声があちこちから聞こえる。
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花音も手袋を外しながら、小さく息を吐く。
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その時。
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「ハギー」
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後ろからオギーの声がした。
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振り向くと、オギーが自分の白衣を腕にかけたまま立っている。
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「レポート、一緒に図書館でやる?」
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花音は少しだけ目を瞬かせる。
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前なら、こういう誘いは誰にでもしていた気がする。
実際、今までもみんなで図書館に行くことはよくあった。
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でも今日は。
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オギーは周りを誘っていない。
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ただ普通に、花音に聞いている。
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その違いに気づいてしまって、花音は少しだけ落ち着かなくなる。
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「……うん」
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オギーは自然に笑う。
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「よかった。今日一人だと寝そうだった」
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「それは知らない」
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「ひど」
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そんなやり取りをしながら、二人で実習室を出る。
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廊下では、別の女の子がオギーに声をかける。
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「オギー、今日図書館?」
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「うん」
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「じゃあ後で行こうかな」
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その瞬間、花音の胸が少しだけざわつく。
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でも。
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オギーは普通に、
「今日はハギーとレポートやるから、多分奥いる」
と返した。
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あまりにも自然な言い方だった。
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女の子も、
「あ、そっか。じゃまた今度ー」
と普通に手を振って去っていく。
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花音は少しだけ黙る。
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オギーは気づいてないみたいに歩きながら、
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「今日マジで眠い」
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なんて呟いている。
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でも花音は、さっきの言葉が頭から離れなかった。
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“今日はハギーとレポートやるから”
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ただそれだけ。
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なのに。
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胸の奥が、少しだけあたたかかった。
図書館を出る頃には、外はもう暗くなっていた。
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「今日寒くない?」
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オギーが肩をすくめる。
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「もう冬じゃん」
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「まだ秋」
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「獣医学部棟のあたり、風強すぎるんだよ」
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そんなくだらない話をしながら、二人でキャンパスを歩く。
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実習の愚痴。
今日のレポート。
生化学の小テスト。
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「踏まれたリンゴ、もう完璧に覚えた」
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「定期的に踏まないと忘れるよ」
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「だからリンゴかわいそうなんだって」
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笑い合う。
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前と同じみたいな時間。
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でも、前とは少し違う。
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オギーがふいに聞く。
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「ハギー、最近どう?」
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「どうって?」
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「……オレ」
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花音は少しだけ黙る。
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前だったら。
この質問だけで、また苦しくなっていた気がする。
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でも今は。
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講義で隣を取ってくれること。
昼を誘ってくれること。
図書館で待っていてくれること。
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“今日はハギーとレポートやるから”
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小さいことばかり。
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でも、その全部がちゃんと自分に向いていた。
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花音は少し照れながら、小さく笑う。
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「……前より、ちゃんと分かる」
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オギーが足を止める。
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花音は少しだけ視線を逸らしながら続ける。
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「オギーが、私のこと好きなの」
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数秒、沈黙。
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それからオギーが、心底ほっとしたみたいに息を吐く。
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「……よかった」
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その声が、思ったより嬉しそうで。
花音の胸が少し熱くなる。
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オギーは少し笑って、でも今度はちゃんと花音を見る。
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「じゃあ、改めて聞くけど」
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「ハギー、俺と付き合って下さい」
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前みたいな勢いじゃない。
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ちゃんと、花音の答えを待つ声だった。
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花音は少しだけ笑う。
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それから、小さくうなずいた。
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「……よろしくお願いします」
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その瞬間。
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オギーが、びっくりするくらい嬉しそうに笑った。




