19話
学祭が終わると、キャンパスは一気に現実に戻った。
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後期の空気にも少し慣れてきた頃。
問題は、生化学だった。
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「なんでまたテストあるの?」
食堂で莉緒が半分うんざりした顔をする。
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花音もため息をつく。
「しかも中間の前にも小テストあったよね」
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生化学の教授は、とにかくテストが好きだった。
授業の終わりに突然小テスト。
「理解度確認です」と言いながら普通に成績に入れる。
しかも問題が細かい。
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「代謝経路覚えられる気しない」
「ATPもう見たくない」
そんな声が、学内のあちこちで聞こえる。
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そのせいで、後期に入ってから図書館の空気が少し変わった。
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特に獣医学部。
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いつ行っても、誰かしらいる。
教科書とノートを山積みにして、黙々と勉強している人。
友達同士で小声で確認し合っている人。
机に突っ伏している人。
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花音も、生化学の教科書を抱えて図書館へ向かう。
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入口を入った瞬間、聞き慣れた声が聞こえる。
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「だからここでATP使うんだって」
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オギーだった。
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机を囲むように数人集まっていて、男女混ざっている。
ノートを見せ合いながら、何か説明しているところらしい。
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花音は少しだけ立ち止まる。
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(またいる)
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別に珍しいことじゃない。
最近はいつもこんな感じだ。
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オギーが先に気づいて、軽く手を上げる。
「ハギー」
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「生化学?」
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花音は小さくうなずく。
「うん…」
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するとオギーは、いつもの調子で、
「ここ座る?」
と、自分の隣を軽く引く。
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その自然さに、花音は少しだけ困る。
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周りの子たちも特に気にした様子はなく、
「あ、ハギーも生化やばい?」
なんて普通に話しかけてくる。
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花音は苦笑しながら席につく。
「やばい」
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するとオギーが笑う。
「みんなやばい」
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机の上には、代謝経路の図と、書き込みだらけのノート。
図書館の空気は静かなのに、獣医学部のテーブルだけはどこか“共倒れ前提の連帯感”みたいな空気がある。
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花音はノートを開きながら、ふと思う。
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(こういう時間、普通に楽しいんだよな)
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でもその感覚が、少しだけ苦しい。
図書館。
机の上には開きっぱなしの生化学のノートと、代謝経路のプリント。
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「もう無理」
莉緒が突っ伏す。
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「TCA回路が頭入んない」
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オギーはシャーペンを回しながら、
「クエン酸、急げと少し怖くなり、踏まれたリンゴを置き去りに」
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花音が思わず顔を上げる。
「なにそれ」
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「先輩から受け継がれた語呂」
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「雑じゃない?」
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「でも覚える」
「怖すぎ」
莉緒がツッコむ。
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「リンゴ踏まれてるし」
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「しかも置き去り」
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周りにいた子も笑い出す。
「リンゴだけ急にかわいそう」
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オギーは肩をすくめる。
「知らん。伝統」
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図書館なのに、小さく笑い声が広がる。
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花音もつられて笑う。
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(こういう時間、好きだな)
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でもその輪の中には、今日も自然にいろんな人がいる。
女の子も男の子も関係なく、みんな普通にオギーの周りに集まっている。
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その光景を見ながら、花音はまた少しだけ思う。
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(私だけって、感じじゃないんだよな)
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別の日。
実習終わりでみんなぐったりしている。
誰かが急に、
「コハク酸の次なんだっけ」
と言った瞬間。
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オギーが即答する。
「踏まれたリンゴを置き去りに」
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周りが一斉に笑う。
「リンゴ酸かわいそうすぎる」
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花音も笑ってしまう。
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気づけば、その語呂は自然にみんなの中に定着していた。
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授業中。
図書館。
食堂。
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疲れている誰かが、
「クエン酸…」
と呟けば、
どこかから続きが返ってくる。
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まるで合言葉みたいに。
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花音はそんな空気が、少し好きだった。
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でも同時に、
その“みんなの中のオギー”を見るたび、
胸の奥が少しだけざわつく。
クエン酸回路は
アセチルCoA
↓
オキサロ酢酸 + アセチルCoA
↓
クエン酸
↓
イソクエン酸
↓
α-ケトグルタル酸
↓
スクシニルCoA
↓
コハク酸
↓
フマル酸
↓
リンゴ酸
↓
オキサロ酢酸(再生)
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これで1周(1ターン)してまた繰り返しです。
語呂合わせは私が学生の時のものです。




