第21話「呼吸」
次の日、朝起きた健人は携帯電話の画面を見た。
「今日は本当にごめん。明日、もう一度時間もらえないかな?」
昨日の夜つぐみに送ったメッセージの返信はまだ無かった。
健人はワイシャツのボタンを止めながら短くため息をついた。
事務所に着き、一定の事務作業を終わらした健人はパソコンの画面を見つめていた。
話……何だろう……?
健人の頭にはつぐみのことがよぎり、離れなかった。
彼女は健人にとって他の何にも変え難い大きな存在になっていた。
「こんにちは!」
突然、窓口から声がして振り返ると30代くらいの1人の女性が立っていた。
「健康保健センターの今田です。挨拶にきました。」
女性は元気いっぱいに頭を下げている。
「あ!こんにちは!お世話になります!」
林が女性に駆け寄った。
「立岡の後任になります。お役に立てるか分からないけど精一杯頑張ります!」
女性の言葉に健人の身体に冷たい感覚が走るのを感じた。
「いやー、立岡さんにはお世話になりました。今日から有給消化ですか?北海道ですか、旦那さんの仕事の都合だから仕方ないですね……」
林が話終わらないうちに健人は突然自転車の鍵を取って走り出した。
「成瀬さん!?」
林の驚いた声は健人の耳には届かなかった。
健人は自転車に飛び乗り、猛スピードで漕ぎ出した。
「昨日の約束……ごめん……本当にごめん……」
健人は呟きながら、急な曲がり角を曲がった。
カラカラカラ……
違和感のある音とともに自転車のチェーンが外れた。
健人は自転車から降り、近くの公園の中に入った。
必死でチェーンをはめようとしたがはまらない。
健人は自転車を公園に置き、走り出した。
健人は全速力で丘を登り、いつものベンチに着いた。
息を切らしながら顔を上げると、教会の鐘を見つめて立っているつぐみの姿があった。
「立岡……さん……!」
健人は声を振り絞って叫んだ。
振り返ったつぐみの目からは涙がこぼれていた。
つぐみは涙を何度も拭いながら健人を見た。
「成瀬さん……成瀬健人さん。」
つぐみの声が震えている。
「私は……あなたのことが大好きです。」
つぐみはくしゃくしゃな泣き顔ではっきりと言った。
「はい……はい……」
必死に頷く健人の頬にも涙が伝う。
「あなたに出会って、毎日が色付いて……こんなにも幸せなんだって……あなたの存在に救われた。あなたがいるだけで私は深く呼吸ができた。」
健人は目を覆いながら首を振っている。
「でも……」
つぐみは真っ直ぐな瞳で言った。
「私が好きなのは今のあなただから。」
つぐみは涙を拭いながら少し微笑んだ。
「今のあなたは色んな経験をして、家族に恵まれて……家族を愛して……それで作られたものだから。そんなあなたを私は好きになった。だから、あなたの幸せを壊すようなことはしない。」
つぐみの瞳は強い意志に溢れていた。
「ありがとう……本当に大好きです。」
つぐみは深く頭を下げた。
健人は溢れ出る涙を拭いながら口を開いた。
「いつも鈍感で分かってあげられなくてごめん。」
つぐみは健人の目を見て首を振っている。
「俺も何度あなたに助けられたことか……そしてどれだけあなたが俺にとって大切な存在だったか……俺もあなたのことが大好きです。」
つぐみは濡れた目を触りながら少し笑った。
「そして……俺も今のあなたが大好きです。今のあなたの幸せは壊したくない。」
健人はしっかりとつぐみの目を見た。
「離れても……私はどこかでそっとあなたのことを好きでいます。私たちは……今まで色んな形の愛を見てきた。だから自信持って言える。これだって立派な愛なんだと思う。」
つぐみの言葉に健人は深く頷いた。
「……涙でマスクが……濡れちゃった!」
つぐみは吹き出すように笑い出し、付けていたマスクを外した。
健人も後を追うようにマスクを外す。
「何か……こんな顔だったんだね……成瀬さん。じっくり見たこと無かった。」
つぐみはニコッと笑った。
「不細工かな?」
健人も笑いながら問いかける。
「涙でお互い不細工だね。でも……私はあなたの顔もよく知らないまま……本当に大好きになりました。」
つぐみは優しく健人の目を見て笑った。
「最後に……最後に握手して別れよう?」
つぐみは健人の目を見て言った。
健人は手を出そうとしたが、自分の手が黒く汚れているのに気付いた。
「ごめん、握手したいんだけど、さっき自転車のチェーンが外れちゃって直してたら黒くなっちゃった。汚いよ?」
健人は笑いながら言った。
「もう……ホント……かっこよくない!」
つぐみは笑いながら健人の両手を掴み、強く握った。
「大丈夫……大丈夫だよ!」
つぐみは笑顔で健人の顔を見た。
「じゃあ……行くね!」
つぐみが自転車を押しながら丘を下って行く。
小さくなって行くつぐみを見て、健人は大きな声で呼びかけた。
「立岡さん!」
つぐみが立ち止まり振り返る。
「さっき石田さんに会ったんだ。石田さん、私は生まれ変わっても未季江と一緒になりたい……って言ってた。」
つぐみは頷きながら聞いている。
「俺……俺は……生まれ変わってもあなたと会いたい!あなたをまた好きになりたい!」
健人は大きな声で言った。
「ありがとう。」
つぐみは健人を見て、ニコッと笑い丘を下って行った。
つぐみの姿が見えなくなった後、健人は公園の隣の教会に向かった。
健人は紐を揺らし、教会の鐘を鳴らした。
カーン……カーン……
寂し気な音色と共に桜の花びらが舞う。
健人の涙がただ桃色の地面を濡らしていた。
第1章 完




