枯木立 迷いを捨てし 無の姿
冬になり、今年も震災の日の慰霊祭が東北各地で催された。二年目ともなると、人の集まりも悪い。しみなれた故郷から出た、若者はわざわざ帰ってこない。地元に残った人も、復興が進まず、未だ仮設暮らしも多い。特に老人は、ローンも組めず、見知らぬ土地で部屋を借りるくらいなら、新たな仲間と仮設で暮らすほうが居心地がよいだろう。
国も県も市も個人の幸せなど真剣に考えてはくれない。一見、住民の暮らしを考えているようで、結局は税収をいかにあげるかという観点でしか考えないのだ。
少人数でも豊かに暮らす方法はあるだろう。しかし、常に人口と経済問題だけが語られる。それでも、コミュニティー単位では不自由を無くそうとあがいている。
僕は、休みを取って一人で参加したが、生まれ故郷ではないので当時の僅かな知り合いはバラバラになってしまっていた。
「東京・横浜には当分空きがないよ。なにせ人気だからね。」
転勤はどうやら難しそうだ。出張が明けたらこっちへ戻るのか。僕は、いつしかまたあの山寺へと向かっていた。
「転職のあてはないんですな。まずは、やりたいことを見つけられてはどうです。それとも、すでにあるのですかな?もしそうなら、拙僧に聞くまでもないでしょ。もしかして、他人の意見を口実にしようとしてませんかな。」
そういわれると、思い当たる節がなくもない。確かにしたいことは決まっている。でも、それは職業じゃない。求められているなら職業かもしれないが、勝手にやっても迷惑になるだけだ。
「あそこの枯木をごらんなさい。冬になると葉は木を守るために、すべて落ちます。もし、いつまでも残っていたら冬の寒さに耐えられないでしょう。我欲を捨てることを無我といいますが、欲の無い人間なんていません。本当の無とは迷いを捨てることではないでしょうか。」
住職は帰り際にこう付け加えた。
「仏の道とは、仏のために生きることではありません。大切な人のために生きることです。それは百人でも一人でも同じ。仏教の真髄は迷いがなくなるまで考え抜くことです。そして、それは今までの経験の先にあります。」




