第二十二話 さくら
何が起きているのか、わからなかった。
仕事帰りだった。
丸の内のオフィスを出て、同じビルの中にある託児場に娘を迎えに行った帰り道だった。
娘を迎えに行って、スーパーで夕飯の食材を買って、家に帰る、いつもの道だった。
最初に気づいたのは、地面が揺れた時だ。
地震かと思った。
でも揺れ方が違った。
世界そのものがズレるような、おかしな揺れだった。
日向さくらは、娘の頭を咄嗟に抱きしめた。
空の裂け目の向こうに、こちらを見てる何かを感じた。
二つの月。
見たことのない星の配置。
「お母さん、こわい」
「大丈夫、大丈夫だから」
世界が変貌していた。
アスファルトの上に石畳が混じり、オフィスビルの隣に中世の城壁が聳えていた。
人々が悲鳴を上げて走っていた。
そして、化け物が来た。
黒い甲冑の群れ。
人の形をしているが、人ではない。
さくらは娘を抱えて走った。
どこへ向かえばいいかわからなかった。
無我夢中で逃げた。
群衆の中を、娘を抱えたまま必死に走った。
後ろから、重い足音が迫ってくる。
振り返った。
先頭の怪物が、腕を振り上げていた。
逃げられない。
さくらは娘を抱きしめた。
目を閉じた。
衝撃は、来なかった。
重い音がした。
誰かが、怪物の腕を受け止めていた。
さくらは目を開けた。
見知らぬ男の背中……
いや、違う。
「れ……蓮、くん……?」
男は振り返らなかった。
怪物と向き合ったまま、静かに言った。
「逃げろ」
声が、変わっていなかった。
あの夜から九年。
死んだと思っていた。
いや、死んだと聞いた。
老婆を助けて、車に撥ねられて、と。
なのに。
「蓮くん!」
さくらは叫んだ。
———
東京の千代田区上空、アリアは古竜に跨って飛んでいた。
「空を飛ぶというのはなんとも恐ろしい体験だな……だがそうも言っていられない」
「全騎士団、群衆を守れ!魔王軍に一歩も譲るな!」
アリアには今の状況が全くわからなかった。
だがするべきことはわかった。
玄鉄盾騎士団を始めとした騎士団の塊が、正面から魔王軍と激突する。
その激突の先頭にはレンと……フィレーネ皇女?なぜここに?
いや……別人だ、立ち居振る舞いや服装が違う……だがよく似ている。
———
「はやく逃げろ」
「蓮くん……」
「安心しろ、後ろの奴らは味方だ、そこに駆け込め」
「でも、蓮くんが……」
「俺は大丈夫だ」
さくらの目から、涙が溢れた。
何を言えばいいかわからなかった。
言いたいことが、ありすぎた。
あの夜のことも。
法廷のことも。
ずっと、ごめんなさいと思っていたことも。
でも声が、出なかった。
男は振り返らなかった。
怪物と向き合ったまま、動かなかった。
さくらは泣きながら、娘を抱えて走り出した。
走りながら、振り返った。
男の背中が、見えた。
叫んだ。
何を叫んだのか、自分でもわからなかった。
ただ、叫んだ。




