第十八話 龍脈の心臓部
その日の差し入れは、蜂蜜入りのパンだった。
フィレーネは籠を持って地下牢の前に立った。
いつも通りだった。
なのにアズリエルの様子が、いつもと違った。
壁に背をもたれたまま、フードの奥の赤い目が、じっとフィレーネを見ていた。
パンを差し出しても、受け取らなかった。
「……小娘」
「はい」
「お前の国の地下に、龍脈の心臓部がある。知っているか」
フィレーネは少し驚いたが、頷いた。
「皇族として、幼い頃に教わりました」
「今、無名がその場所に向かっているはずだ、私ならそうさせる」
「……無名、というのは?」
「魔王軍四大将軍の一人だ。奴をお前たちの目で捉えることは出来ない、魔力感知にもかからないだろう」
フィレーネは籠を持ったまま、立ち尽くした。
「……今、そちらの使節団が和平条約を結びにこられています」
「それはお前たちを欺くための芝居だ。龍脈の位置を特定し、封印を解くための時間稼ぎだ」
フィレーネの手が、籠の取っ手を強く握った。
「封印を強化できるのは、皇族の血を持つ者だけだ。そしてそれを霊的に補強できるのは……」
アズリエルは自分の骨の手を見た。
「私のような高位の魔術師だ」
沈黙が落ちた。
フィレーネはアズリエルを見た。
アズリエルもフィレーネを見た。
「……一緒に行きましょう」
「お前が決めるのか。騎士団長にも、守護者にも相談せずに」
フィレーネは少し迷った。
蓮に伝えるべきだ。アリアにも。
でも。
「時間がないのでしょう?」
アズリエルはしばらく黙っていた。
「話が早い小娘だな」
「すぐに牢屋の鍵を持ってきます」
「いらぬ……少し下がれ」
フィレーネが下がると、アズリエルの骨の指が、青白く光る拘束具に触れた。
パキン、と乾いた音がして拘束具が砕けた。
そして次の瞬間、何かを詠唱すると檻が錆びて腐り落ちた。
アズリエルは立ち上がった。
長身がゆっくりと伸びた。
フードを深くかぶり直し、錫杖を手に取った。
「行くぞ」
「待ってください」
フィレーネはアズリエルを見上げた。
「あなたは……どうして逃げなかったのですか?」
「お前の焼き菓子が食べたい」
「わかりました!では案内するので移動しましょう!」
「私につかまれ、転移魔術をつかう、場所を頭に思い浮かべろ」
フィレーネは籠を格子の前に置いた。
蓮かアリアが来た時に、気づいてくれるだろうか。
それからアズリエルにしがみついた。
フィレーネは幼き頃訪れた龍脈の心臓部を頭に思い描いた。
「いくぞ」
アズリエルが印を結ぶと、二人の姿は消えた。
———
転移が完了した瞬間、空気が変わった。
石造りの通路ではなく、広大な空洞だった。
天井は見えない。
地面の至る所に、青白い光の筋が走っている。
脈打つように、規則正しく。
まるで巨大な生き物の心臓の中にいるようだった。
フィレーネは息を呑んだ。
あたりには三十人ほどの玄鉄盾騎士団の騎士たちの骸が横たわっていた。
全員首を掻き切られている、抵抗の跡は見られない。
「……我々は来るのが少し遅かったようだな」
アズリエルが錫杖を構えながら、周囲を見回した。
赤い目が、空洞の隅々を探っていた。
「奴がいるぞ、気を張れ」
フィレーネは息を潜めた。
空洞の中に、音がない。
青白い光だけが、静かに脈打っている。
次の瞬間、アズリエルは振り返りざまに錫杖を薙いだ。
背後の闇から、黒い影が弾き飛ばされた。
音もなく壁に叩きつけられ、そのまま床に落ちた。
黒いローブに身を包んだ、小柄な人影。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
立ち上がる気配もなく、ただそこに倒れていた。
アズリエルが距離を詰めた。
「無名」
返事はなかった。
「貴様が喋るところを見たことがない。死ぬ前に一言くらい言い残すことはないのか」
人影が、ゆっくりと立ち上がった。
「……邪魔をするな、アズリエル」
感情の起伏を感じない静かな声だった。
アズリエルの目が細くなった。
「長年一緒にいたが、お前の声を聞いたのは初めてだな」
無名は動いた。
音がなかった。
気配もなかった。
ただ、いつの間にか位置が変わっていた。
アズリエルは錫杖で迎え撃った。
弾いた。
また無名が消えた。
また別の角度から現れた。
アズリエルは錫杖を振り続けた。
「小細工が得意なだけで、力では私に遠く及ばんな」
無名は答えなかった。
アズリエルが大きく踏み込んだ。
錫杖の宝珠が光り、無名の動きを封じる術式が展開された。
その瞬間だった。
「馬鹿正直に戦う気はない」
今の今までアズリエルと交戦していた無名が、突如フィレーネの影から現れた。
フィレーネの白くて細い首に黒曜石の短剣が触れる。
「わざわざ皇女殿下の方から来てくれる……手間がかからず助かる」
無名の声が、耳元でした。
いつの間に。
さっきまで確かにアズリエルの前にいたのに。
アズリエルの動きが止まった。
無名はフィレーネを盾にしたまま、龍脈の心臓部へ向かって歩き出した。
「皇族の血が必要だ。協力してもらう」
フィレーネは声を絞り出した。
震えていたが、叫べた。
「嫌です!」
「叫んだとて何になる、お前は無力だ」
無名が呟いた。
アズリエルは錫杖を構えたまま、動けなかった。
今の距離ではフィレーネを傷つけずに無名を仕留める手段がない。
概念魔術で意識の書き換えを行おうとすれば、即座にフィレーネが殺されるだろう。
無名がフィレーネの手を取り、引きずっていった。
開けた空間に一際大きく青く輝く碑石があった。
青く光る筋はすべて……おそらくは世界中から集まっていた。
無名が抵抗するフィレーネの手を力尽くで碑石に触れさせる。
そして黒曜石の短剣でフィレーネの掌を刺した。
「痛い!」
大量の血が碑石に滴り落ちた。
青白い光が、一気に膨張した。
空洞全体が震えた。
封印が、解け始めていた。
無名は懐から小さな通信用の魔道具を取り出した。
「心臓部を掌握した、これより『暴走』させる」
遠く、謁見の間で。
ベネディクトゥスの口元が、初めて本当の笑みを作った。
「茶番はここまでにしましょう」




