第十七話 久能宗一郎
十月の夕方。
珍しく早く帰れる日だった。
玄関を開けると、味噌汁と肉じゃがの匂いがした。
「お父さんだ!」
廊下を駆けてくる足音。息子の宗紀が飛びついてきた。
「ただいま」
久能宗一郎は宗紀を抱き上げた。
「あら、早いじゃない」
妻の由紀がエプロン姿で台所から顔を出した。
「先週から続いてた災害処理がやっと終わったんだ」
「お疲れ様。今日はゆっくりしてね」
台所から、肉じゃがの煮える音がした。
「ねえお父さん、僕、大きくなったら自衛官になる!お父さんみたいに、困ってる人を助けたい!」
由紀が台所から笑った。
「この子ったら最近ずっとそれ言ってるんだから」
宗紀は嬉しそうに笑っていた。
窓の外に、冬の星空が見えていた。
———
十一月の木枯らしが吹きすさぶ夜。
久能宗一郎が駐屯地を出たのは、二十三時を過ぎた頃だった。
妻の由紀にはもう連絡してある。
遅くなる、先に寝ていてくれ、と。
夜も大分更けてから、久能はマンションに到着した。
ふと、エントランスに入った時、何か異様な感覚に襲われた。
言葉にできない違和感。
長年の訓練が研ぎ澄ました、何かがおかしいという感覚。
久能はエレベーターを待たず、全力で階段を駆け上がった。
自宅の前に着いた。
何故か、玄関の鍵が開いていた。
声が出なかった。
リビングの電気は消えていたが、人感センサーに反応して点灯した。
ソファの横に、妻の由紀が倒れていた。
台所の入り口に、七歳の息子、宗紀が倒れていた。
久能は膝をついた。
妻の肩を掴んだ。
冷たかった。
息子に触れた。
冷たかった。
スマートフォンで110番を押した。
声が、震えた。
自衛官として十五年、どんな訓練も耐えた。
どんな状況でも声は震えなかった。
それなのに。
———
警察が来た。
鑑識が来た。
上官が来た。
久能は玄関の前に座ったまま、動かなかった。
誰かが毛布をかけてくれた。
誰かが水を持ってきてくれた。
何も、喉を通らなかった。
刑事が膝をついて、久能と目線を合わせた。
「久能さん、少しだけ聞かせてください」
久能は頷いた。
「今夜、何時頃帰宅されましたか」
「二十三時半頃だと思います」
「それまでの行動を教えていただけますか」
久能は答えた。
勤務中どこで何をしていたか、駐屯地を出た時刻、経路、その他全部答えた。
刑事はメモを取りながら、静かに頷いていた。
「最後に確認ですが……ご家族と、最近トラブルはありましたか」
久能は刑事を見た。
「どういう意味ですか」
「いえ、確認のための質問です」
———
翌朝、ニュースが流れた。
『自衛官の妻子、自宅マンションで死亡。夫は帰宅時に発見』
その日の夜には、SNSに書き込みが溢れた。
『なんで鍵が開いてたわけ?』
『強盗にしては荒らされた形跡が少なすぎる』
『俺、犯人わかっちゃった』
『自衛官なら人の殺し方知ってるよね』
『日本を貶めようとする特定外国人勢力の陰謀』
久能はiPhoneの画面を見つめていた。
病院の待合室だった。
妻と息子の死亡確認の書類に、サインをした後だった。
画面をスクロールするたびに、SNSには新しい書き込みが増えていく。
見知らぬ人間たちが、久能の妻子の死を、パズルのピースのように並べて楽しんでいた。
窓の外に、朝陽が差していた。
妻が好きだった、冬の朝陽だった。
「……宗一郎、大変だったな」
隣に、同期の自衛官が座っていた。
十五年来の友人だった。
久能は頷いた。
「犯人、絶対に捕まえてもらおう。俺も協力する」
「……ありがとう」
———
三ヶ月後。
犯人は見つからなかった。
捜査は続いているという言葉だけが、繰り返された。
その間、SNSの書き込みは止まらなかった。
むしろ増えていった。
『三ヶ月経っても犯人が見つからないのは久能が犯人だから』
『これ自衛隊が組織ぐるみで隠蔽してるって』
『久能の過去の日記アーカイブしたから検証班よろしく』
『これサヨクによるジャパンディスカウント?』
久能の上官が呼び出した。
「久能、少し休め。お前の件で、部隊にも影響が出てる」
「……どういうことですか」
「しばらく表に出るな、ということだ」
久能は上官の目を見た。
そこに、疑いがあった。
かすかな、しかし確かな疑いが。
十五年間、共に訓練してきた上官の目に。
「……わかりました」
久能は敬礼した。
そして駐屯地を出た。
———
記者会見を開いたのは、四ヶ月目だった。
弁護士に止められた。
友人にも止められた。
それでも久能は、マイクの前に立った。
「私は妻と息子を殺していません」
声は震えなかった。
「妻と息子を失った夜のことを、話させてください」
久能は話した。
全部話した。
演習の後処理で帰宅が遅れた事。
玄関の鍵が開いていた理由はわからないということ。
妻の肩に触れた時の冷たさも。
カメラのフラッシュが光り続けた。
翌日のニュースの見出しはこうだった。
『自衛官、会見で終始冷静。涙なし。「本当に悲しんでいるのか」の声』
SNSはさらに燃えた。
『サイコパス顔で草』
『泣かないのは殺してスッキリしてるから』
『わざと恥を晒して特定外国人のプロパガンダに与している』
『事件で手記を書いて印税で儲ける準備万端じゃん』
『あらゆる歴史的事件は原因なくして生起するものではないって天皇家の人が』
久能はその夜、マンションの一室で画面を見つめていた。
引き払うことも考えたが、妻子の思い出があるここを離れることはできなかった。
電話が鳴った。
十五年来の友人からだった。
「久能、お前、本当に何もしてないんだよな?」
久能は無言で電話を切った。
画面を見た。
書き込みが、また増えていた。
事実は、伝わらなかった。
物語が、事実を飲み込んだ。
妻と息子の死は、見知らぬ人間たちの、娯楽になっていた。
———
十二ヶ月目の夜。
久能はマンションの窓から、夜空を見ていた。
部屋はパンパンのゴミ袋の山と、ゴミ袋に収まり切らなくなったコンビニ弁当の容器や、空になったペットボトル、ビール缶に埋め尽くされ、饐えた臭いを発していた。
仕事は休職していた。
友人とも親族とも距離を置いていた。
ネットではおかしな名前を名乗るアニメアイコンの迷惑系YouTuberが便乗して陰謀論を展開し、それを信じた何十万もの人々による誹謗中傷が繰り返されていた。
あまりにもひどい中傷には弁護士を通じて開示請求を行った。
その中には優しい声を掛けてくれてた友人や同僚がいた。
久能は静かに思った。
人間は事実を見ない。
人間は『物語』を見る。
くだらない『物語』ほど、人間を熱狂させる。
妻と息子は『物語』のなかで消費された。
久能自身も『物語』の登場人物になった。
そしてその物語の中では、久能は『悪』だった。
どれだけ事実を語っても『物語』には勝てなかった。
世のため人のためを思い生きてきた。その末路がこれだった。
窓を開けた。
冬の風が入ってきた。
妻が好きだった、冬の空気だった。
「馬鹿馬鹿しい」
そして久能は、マンションのベランダから身を投げた。
頭からぐしゃりと地面に叩きつけられた。
「……これで由紀と宗紀に会える」
意識が遠のいていった。
光が生まれたのは、その時だった。
音もなく。
気配もなく。
ただ、そこに光があった。
『二度、殺されたな。一度目は妻子を。二度目はお前自身を』
「……誰だ」
『名乗るほどのものでもない。ただの、気まぐれな観客だ』
———
魔王城の玉座の間。
久能は長い時間、一人玉座に座っていた。
お前らが俺を悪と呼ぶなら、お望み通りそうなってやろう。
俺こそが絶対悪であり、血も涙もない魔王だ。
「人間を根絶やしにする」
怒りはなかった。
悲しみもなかった。
ただ、静かな決意だけがあった。




