第十六話 篝火
使節団が城内に入って三日が経った。
ベネディクトゥスは毎日、穏やかな笑顔で交渉の席に着いた。
言葉は丁寧で、要求は控えめで、物腰は柔らかかった。
アリアは皇帝の執務室を訪ねた。
皇帝は書類から目を上げた。老いた顔に深い疲労が刻まれていた。
アリアが一歩前に出た。
「陛下、龍脈の警護の強化を。捕虜のアズリエルから得た情報によれば、魔王軍の真の目的は最初から龍脈の掌握にあります。和平交渉はその時間稼ぎに過ぎません」
皇帝はしばらく黙っていた。
皇帝は窓の外を見た。
城門の前には、一歩たりとも魔王軍を入れまいと陣形を組んだ玄鉄盾騎士団を中心とした騎士団連合と、そして、その向こう側に地平線まで広がる冥鉄蹄騎士団の黒い甲冑が、朝陽の中で鈍く光っていた。
「あるいはそうかもしれん、だがベネディクトゥス猊下は誠実だ。交渉中に我々が不信に駆られて動けば、決裂の口実を与えることになり、和平の機会は永遠に失われる」
「しかし陛下——」
アリアは唇を一文字に結んだ。
「……陛下は、あの男を信用しておられるのですか」
「戦争を選ぶ前に、出来る限りの可能性を試したい」
この老人は疲れている。
長い戦いに、長い統治に。
だから、ありもしない希望に手を伸ばしてしまう。
「……わかりました」
アリアが頭を下げた。
そして執務室を出て、廊下を急足で歩きながら考える。
独断専行になるが、私の権限で兵を配備するしかない。
———
城壁の上から、使節団の天幕が並ぶ城外を眺める。
篝火が点々と灯り、冥鉄蹄騎士団の見張りが等間隔で立っている。
こちらも負けじと、複数の騎士団が遮るように待ち構え、城壁の上に大量の弓兵隊が夜通し待機していた。
古竜も城壁の上に陣取って、魔王軍の大軍勢を睨め付けていた。
「奴らから目を離す訳にもいかんが、ただ眺めてるのも退屈だろう、少し話相手になろう」
足音に気づいていた。
俺は敵陣を睨んだまま、振り返らずに手を振って答えた。
アリアが隣に立った。
鎧の上に厚手の外套を羽織っていた。腰には剣を帯びている。
「立哨から聞いた、もう三日三晩お前がここに立ち尽くしてると」
「以前と違って眠ろうと思えば眠れる、ただ、その気になれば寝なくても困らない。不気味だが守護者の体はこういう時は便利だ」
「食事はどうしている?ちゃんと摂ってるのか?」
「実は飯も食わなくて平気な体のままだ」
「そう……なのか」
「アズリエルを退けたあの日、お前と皇女殿下がメシを作ってくれたろ」
「ん? ああ……いい食べっぷりだったな、あれは作った甲斐があった」
「俺はこの世界に来てからずっと、食べ物を食べてもまるで砂を食べてるように感じていた」
「なん……だと……」
アリアは驚きを見せた。
俺は続けた。
「俺が死んでいるってのはまあ、そういうこともあってね。皇女殿下はああ言ってはくれたけど」
「……それは今もそうなのか」
「今は生前の半分くらいは味を感じられるようになってきてる、お前らのおかげだな」
「そうか……」
アリアは安堵の表情を見せた。
「いつか……元通りになるといいな、いや、玄鉄盾騎士団長にして料理長である私が必ずなんとかしてやるぞ」
料理長は嘘だろって思いながら俺は笑った
「またうんめえ飯、楽しみにしてる」
しばらく、二人で城外の篝火を眺めた。
「北部国境戦争の時も、こんな夜があった」
アリアが静かに言った。
「五年前だ。私が副団長だった頃」
「……私は副官を自分の手で斬った。彼は私の幼馴染だった。魔王軍の概念魔導士に意識を書き換えられてしまってな。殺すしかなかった。それで……私は表彰され、英雄と讃えられた。笑えるだろう」
アリアは俺を見た。
「笑う訳があるか」
「お前は古竜やアズリエルを殺さなかった」
風が吹いた。篝火が揺れた。
「……俺は今、たまたま殺さずに制圧する力があるだけだ。かつての俺は、相手こそ違うが、人を殺してしまって、何もかもを台無しにしたことがあるよ」
「そうか……」
「我々は似た者同士なのかもしれないな」
沈黙が落ちた。
足音が聞こえたのは、その時だった。
軽い、急いでいる足音。
「二人ともここにいた!探しましたよ」
フィレーネが息を切らせて現れた。
手に温かそうな包みを持っている。
「使節団が来てから、二人ともゆっくり休んでいないでしょう。夜食を持ってきました」
「殿下、こんな時間に一人で」
「今日は侍女と護衛もいます、だから大丈夫です」
フィレーネは包みを開いた。蜂蜜とバターを塗った焼きたてのパンと、小さな果実が入っていた。
三人で並んで、城外の篝火を眺めながら食べた。
しばらくして、フィレーネが静かに言った。
「実はお二人の話、全部聞いてしまいました、だから……私のことも話しますね」
「……私ね、昔、母を失いました」
俺とアリアは黙って聞いた。
「十歳の時です。貴族たちの争いに巻き込まれて……母は私をかばって」
フィレーネは包みの端を、指でゆっくりと折り曲げた。
「私は何もできなかった。ただ泣くことしか」
「それから父上は私を、とても大切に守ってくださいました。でも私はずっと思っていました。守られる存在ではなく、守る存在になれたら、と」
「だから剣の修行をしたり、前線に出たがったりしたのですか」
アリアが静かに言った。
「……はい」
フィレーネは篝火を見つめたまま、微笑んだ。
泣きそうな顔で、笑っていた。
「今はまだ足手纏いの私ですが、いつか必ず……」
言葉が途切れた。
続きは言わなかった。
言わなくても、わかった。
アリアが空を見上げた。
二つの月が、雲の間から顔を出していた。
それからは、三人で他愛のない話をした。
失ったのは俺だけじゃない。
皆、それぞれに何かを失っていた。
三人とも。
それでも。
ここに立っていた。




