第十四話 和平交渉
円形の軍議室に、空席が一つあった。
誰も、その席には触れなかった。
触れれば、死天使アズリエルが敗れ、捕縛されたという事実を、改めて認めることになるからだ。
魔王は上座に座り、残った三人の将軍を見渡した。
不落の盾、ゼルドリヒ。
黒い全身鎧に身を包んだ巨躯の騎士。
兜の奥の目が、静かに魔王を見ていた。
教皇ベネディクトゥス。
白いローブに金の刺繍。穏やかな老人の顔をしているが、その目だけが笑っていない。
暗殺者、無名。
そこに座っているはずなのに、誰かがいる感覚がない。
「和平交渉を行う」
三人の反応は、それぞれ違った。
ゼルドリヒは微動だにしなかった。
ベネディクトゥスは目を細めた。
無名は何の反応もしなかった。
沈黙を破ったのはゼルドリヒだった。
「……理由を」
「屍霊騎士団は瓦解した。この十日、正面突破の可能性を探ったが、守護者と古竜が揃っている以上、答えは出なかった。正面衝突は愚策だ」
「魔王様のご命令さえあれば、我ら一命を賭して守護者と古竜を……」
「まあ聞け」
魔王は指を組んだ。
「アルディア皇国の龍脈を掌握すれば、幽世への回廊を開ける。和平交渉はそのための時間稼ぎだ」
ベネディクトゥスが、穏やかな声で言った。
「なるほど。彼奴らが呑気に交渉の席に着いている間、我らは龍脈に手を伸ばす」
「そうだ」
「代表は私めが務めましょう。教皇という肩書きは、人間の警戒心を緩めるのに都合がよい」
魔王はベネディクトゥスを見た。
この男は常に自分の役割を心得ている。便利な駒だ。しかし便利すぎる駒は、いつか別の盤面で動く。
「護衛はゼルドリヒ。お前の冥鉄蹄騎士団を連れて行け」
ゼルドリヒは無言で頷いた。
「無名」
気配が、わずかに揺れた。
「龍脈の位置を特定しろ」
返事はなかった。しかしそれが了承の意味だと、魔王は知っていた。
軍議室に沈黙が落ちた。
燭台の炎が、風もないのに揺れた。
ゼルドリヒが、静かに言った。
「アズリエルは」
魔王は答えなかった。
しばらくの沈黙の後、低く言った。
「捨て置け」
ゼルドリヒの目が、わずかに細くなった。
「……御意」
しかしその声には、何かが混じっていた。
魔王はそれを聞き流した。
将軍たちが退室した後。
魔王は一人、窓の外を見た。
遠く、アルディアの方角を。
回廊さえ開けば、全ては終わる。
この世界も、あの世界も。
人間の物語ごと、全部。
「……待っていろ」
誰に言うでもなく、呟いた。




