第十三話 牢獄の死天使
アルディア城の地下牢。
石造りの壁に、青白い封印の光が走っている。
鉄格子の向こうで、アズリエルは壁に背をもたれていた。
ここでこうして何日になるだろうか。
思えばいつも殺す事だけを考えていた。
人間は、愚かで、邪悪で、滅ぼさなければならない存在だからだ。
そして今、私はその人間によって囚われている。
しかし、囚われの日々、アズリエルは生まれてこの方、こんなに穏やかな日々を過ごしたことはなかった。
私の原初の記憶は『人間は絶対悪である』という強い怒りだった。
その怒りは誰から受け取ったのかわからない。魔王様だったのか。
私はその怒りに、とりあえず従うことにした。
人間は脆弱だった。すぐに吹き飛び、潰れ、ちぎれて死んだ。
これでいいのか、こんな事ならいくらでも出来る。
殺せば殺すほど、私は賞賛され、喝采された。
人間は我々を魔族と呼び迫害する『真の邪悪』だから。
私はこの、弱っちくて、見窄らしい絶対悪を滅ぼすために生まれたのだ。
それが私の『物語』だった。
———
ある日、皇女フィレーネが現れた。
護衛も連れず、エプロン姿で、木の椀を両手で持って。
「差し入れです」
小娘、私が恐ろしくないのか。
こんな脆弱な戒めなど今すぐに壊せるぞ。
そしてお前を殺せる。
「温かいうちに召し上がってください」
「…………」
「アリアが作ったスープです。とても美味しいですよ」
しばらく沈黙が続いた後、アズリエルは椀を受け取った。
椀の中の液体は、私の身体を維持するために必要はなかったが、私はそれに口をつけてみた。
フィレーネは満足そうに笑って、それから世間話を始めた。
今日の天気のこと。
市場で見かけた珍しい野菜のこと。
アリアがまた訓練で新兵を泣かせてしまったこと。
アズリエルは答えなかった。
ただ、椀を両手で持ったまま、壁の染みを見つめていた。
ある日、フィレーネは毛布を持ってきた。
「地下は冷えるでしょう」
「私は気温の変化など感じない」
毛布は受け取らなかった。
受け取らなかったが、フィレーネが格子の隙間から押し込んでいった毛布は、気づけば床に落ちていた。
だから拾った。拾うだけなら、別に構わないだろう。
ある日、フィレーネは来なかった。
アズリエルは壁に背をもたれ、天井のひび割れを数えていた。
ひび割れは昨日と同じ数だった。
足音が聞こえるたびに、やれやれ、またあの皇女がお節介をしにきたかと思っては当てが外れた。
その次の日、フィレーネが息を切らしながら現れた。
エプロン姿で、籠を持って。
「昨日は来られなくてごめんなさい、皇帝陛下との謁見があって」
「なぜ謝る?」
「こんな場所にずっと一人、お寂しいでしょう?」
「……お前は憎くはないのか?皇都アルディアを燃やそうとした私が」
フィレーネは一瞬躊躇ったが、優しげに答えた。
「わかりません……でもあなたは、そうして毛布を使ってくれています」
「…………」
アズリエルは自分が包まっている毛布を見つめた。
「そうか……」
アズリエルは静かに答えた。
……私の中の『物語』は一体何だったのだろう。
この小娘は殺さないといけない邪悪な存在なのだろうか。
そのはずだ。だから、私はそれをするために生まれた。
そのはずなのに。
そんな気にはまるでなれなかった。
———
またある日。
アズリエルは毛布に包まり、スープの椀を両手で持っていた。
フードを少し下げて、湯気を顔に当てながら。
その時、足音がした。
アズリエルは毛布を壁の影に押し込み、フードを深くかぶり直し、椀を背中に隠した。
しかし遅かった。
鉄格子の前に、蓮とアリアが立っていた。
二人とも、アズリエルを見ていた。
沈黙。
「見ていないぞ」
蓮が言った。
「見ていない」
アリアが続けた。
「……何の用だ」
アズリエルは壁の染みを見つめた。
アリアが咳払いをした。
「……今日は話を聞きに来た。なぜ魔王軍はアルディアを狙う?」
「私が答えると思うのか?」
蓮は格子に腕を乗せて、アズリエルを見た。
「フィレーネが明日も来るぞ。焼き菓子作ってるらしい」
アズリエルの目が、わずかに動いた。
「どうでもいい」
また沈黙。
「……龍脈だ」
アズリエルは壁の染みを見たまま、低く言った。
「この国の地下に、世界の龍脈が集まっている。二つの世界を隔てる境界が、この地だけ異様に薄い。魔王様は龍脈を利用して、あちらの世界への回廊を開こうとしている」
「龍脈?二つの世界?……お前は何を言ってるんだ?」
アリアが狼狽える。
「守護者ならわかる、あちらの世界とはそいつが元々住んでいた世界。お前ら風に言えば幽世だ」
蓮は黙っていた。
「魔王様の目的は最初からあちらの世界だった。この国は、その世界への経路を開くための触媒にすぎない」
アリアが低く言った。
「……やけに素直に喋ったな、どういう風の吹き回しだ」
アズリエルはしばしの沈黙の後、呟いた。
「あの小娘の焼き菓子とやら、わが口に合えばよいが」




