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第十一話 束の間の休息

夜が、明けた。


東の空が橙色に染まり、王都の石畳に長い影を作る中、俺は正門の前に立っていた。

見渡す限りを埋め尽くしていた魔王軍は、玄鉄盾(くろがねのたて)騎士団と、合流した他の騎士団によって挟撃され、壊滅し、敗走し、一部の敵兵は投降した。


俺は深く息を吐いた。

身体中が重かった。あちこちに傷がある。

いくつもの攻撃が、守護者の力による防護を貫通していた。

アリアに肩を支えられながら、なんとか立ち続けた。


「……守った」


誰に言うでもなく、呟いた。



城壁の向こうで、騎士団が傷の手当てをしている。

近衛騎士団の先導で避難した民が戻り、様子を恐る恐る眺めている。

誰もが今夜何が起きたかを知っている。


それでも、朝が来た。平和な朝が。


どうしたことか、急に思い出した。

前世で、警備員の面接を受けて、駄目だった時のみじめな記憶。


たしか警備員という仕事は、警察官とは違い、侵入者を撃退したり、逮捕したりはいけないんだとか。

だとしたら、これだけ派手に暴れた俺は、なるほど完全に警備員失格だ。


何も起こらないならそれが一番いい。

何も起きない朝、なんでもない平和な朝を届けること。警備員という仕事は、きっとそういうものだったんだろうな。


何故今そんな事を思い出したのかわからない。

わからないが、苦笑がこぼれた。


後ろで、城門が開く音がした。


振り返ると、走ってくる人影があった。

白い衣装の裾を翻して、まだ夜明けの薄暗い中を、一人で。護衛も連れず走りくる。


逆光の中でシルエットだけが見えた瞬間、俺の足が、地面に縫い付けられた。

その輪郭を、俺は知っていた。

黒い髪。小柄な体躯。走る時に少し前傾みになるあの癖。


さくら…


「レン!」


声が、現実を取り戻させた。


違う、さくらじゃない。


アリアごと俺を抱きしめた彼女の顔を見て、息が止まった。

フィレーネ・アルディア。この皇国の第一皇女。美しい黒髪に、柔らかな目元。


「無事で、よかった」


皇女は俺の胸に顔を埋めたまま、ただそれだけ言った。

責めるでもなく、称えるでもなく。

ただ、よかった、と。


俺は固まっていた。


あの夜のさくらの顔が、瞼の裏に浮かんだ。

恐怖で引きつった表情。

俺を見る目が変わったあの瞬間。

ずっとそこで止まっていた俺の時間。


俺とアリアを抱きしめる皇女の腕の力が、少しだけ強くなった。

そこに言葉はなかった。

ただその温度が、俺の中で止まっていたすべてを、静かに溶かしていった。


目の奥が、熱くなった。


こらえようとした。守護者が人前で泣くのは格好が悪い。

そう思ったのに、止まらなかった。一粒が頬を伝った瞬間、堰が切れた。


声は出なかった。ただ、涙だけが出た。


朝陽の中で、俺はしばらく泣いた。

皇女は何も言わなかった。ただ、離れなかった。

どれくらい経ったか。


背後の城壁の向こうで、朝の鐘が鳴り始めた。皇都が、目を覚ます音。

皇女は顔を上げた。

泣きそうな顔で、笑っていた。


「こんなに傷だらけ…あなたはたった一人で」


「これが…俺の仕事ですから」


俺も、つられて笑った。

朝陽の中で、三人はしばらくそのまま見つめ合っていた。

言葉はいらなかった。長い夜が終わった静寂の中で、ただその時間だけがあった。


ぐぅ〜〜っ。


「……え?」


皇女が、呆然と俺を見た。

俺は、盛大に鳴った自分の腹を見下ろした。

「絶対防壁」キリシマ・レン。

どんな攻撃も通さない、生ける城壁。

魔王軍からアルディア城の正門を一人で守り抜いた守護者が、今。


「…………腹、減った」


顔が、熱かった。

皇女は一瞬固まって、それから堪えきれずに笑い出した。

さっきの泣き笑いとも、感動の涙とも違う、心の底からの笑いだった。

皇女はまだ笑いながら、立ち上がった。


「待っていてください、アリアと一緒に何か作ります!」


そうして踵を返し、走り出すフィレーネ。


「もう肩を貸さなくても大丈夫だな?」


アリアもその後を追った。


———


アルディア城の厨房に、二人の女性が立っていた。

一人は皇女フィレーネ。

エプロンをつけて、しかし明らかに慣れていない手つきで包丁を握っている。

もう一人は、アリア・ヴォルテール。

騎士団長。金髪を三つ編みにまとめ、普段の黒い鎧を脱いで、驚くほど手際よく食材を並べていた。


「……殿下。そんなに野菜を大きく切っては、疲弊した体には毒です。貸してください、私が微塵切りにします」


「あらアリア、詳しいのね?」


「……戦場では、少しでも効率よく栄養を摂るのが騎士の務めですから」


アリアは皇女から包丁を受け取り、野菜を刻み始めた。

玉葱、人参、セロリ、白インゲン豆。

その手つきは剣を扱うように淀みなく、あっという間に整然と並んでいく。


鍋の底でバターが溶け、刻んだ野菜が炒められていく。甘い香りが厨房に満ちた。

そこにチキンスープのストックが注がれ、白インゲン豆と角切りにした骨付き豚肉が加わった。

蓋をして火にかけると、やがて脂と香草の匂いが混じり合い、腹の底から食欲を刺激するような湯気が立ち上った。

その間にアリアは鉄製のパンに油を引き、厚切りにした骨付き羊の腿肉を並べた。

塩と黒胡椒を擦り込み、ローズマリーの枝を添えて、かまどの奥に押し込む。

やがて肉の焼ける音と香りが厨房を包んだ。


皮が焦げてパリッと音を立てるたびに、フィレーネが嬉しそうに鼻をひくひくさせた。

焼き上がった羊肉は、骨ごと皿に盛られた。表面はしっかりと焼かれて香ばしく、切れ目を入れると中からじわりと赤みがかった肉汁が滲んだ。


スープは深い琥珀色に仕上がり、豆と野菜が溶け込んで、一口飲むと体の芯まで温まるような味がした。


パンはかまど脇で温め直した昨日の丸パン。

外側はカリッと、中はふんわりと蒸気を含んでいる。スープに浸して食べるのが一番うまい。

テーブルの中央に、エールの入った木の杯が三つ並んだ。


俺は厨房の入り口に立って、その光景を眺めていた。


アリアが俺に気づいて、包丁を止めた。


「……座っていろ。すぐ終わる」


「手伝う」


「いい。お前は座れ」


有無を言わさぬ口調だった。

俺は大人しく椅子に座った。


皇女がスープを火にかけながら、こちらに背中を向けているアリアをちらりと見て、小さく微笑んだ。

その意味を、俺はまだ知らなかった。


三人で食卓を囲んだ。


羊肉は骨からほろりと剥がれ、噛むたびに香草の香りが口に広がった。

スープは熱く、豆の甘みと豚の旨味が溶け合って、一晩中動き続けた体に染み渡っていく。

パンをちぎってスープに浸すと、ふやけた部分がとろりと舌の上で溶けた。


エールは少し苦く、冷たかった。


「……うまい」


気づいたら、声に出ていた。


「アリアは料理がとても上手なんですよ」


なんだか意外だった、剣一筋みたいな感じなのに。


「きっと守護者様に気に入っていただけるように、毎日練習してたのね……アリアったら」


イタズラっぽくフィレーネが笑い、アリアが咳き込んでエールを少し吹き出した。


「殿下!それは違います!というか私が料理を得意とする理由はさっき話したではありませんか!」


「でも困りました、このままではアリアに守護者様を取られてしまいます」


「殿下!お戯れはおやめくだされ!わたしはこの男のことを何とも……いや、何ともは言い過ぎですがそういう感情までは……!」


アリアは耳が真っ赤になっていた。


フィレーネの笑いは止まらない。

俺もつられて笑った。


俺はこの世界に来てから、強大な身体能力と引き換えに、幾つかの感覚や欲求を失っていた。

味覚、食欲、性欲、睡眠欲……


それなのに、今日の料理はとても美味しく感じられた。

気のせいではない。本当に味覚が戻っていた。


食事を終えた後、皇女がそっと言った。


「今日は、休んでください」


「食べたらまた仕事に戻ります」


「あなたの今日の仕事は終わりです、私と騎士団がその任を受けます」


「殿下が?」


アリアが静かに言った。


「今日だけは、私たちに任せろ」


俺は静かに頷いた。


———


石造りの牢獄。アルディア城の地下。


アズリエルは壁に背をもたれ、両手首に巻かれた魔術的な拘束具を眺めていた。

青白く光る鎖。人間の魔術師が総がかりで施した封印。


この程度の拘束など、指先一つで砕ける。

転移の魔術を使えば、今この瞬間にでも消えられる。

皇国の脆弱な魔術師ごときに、死天使アズリエルを縛る力などない。


だが、アズリエルは動かなかった。

天井のひび割れを眺めた。

冷たい石の感触を背中に感じた。


遠くで、人間たちが騒いでいる声が聞こえた。

祝勝の声だろう。


アズリエルはもう一度、拘束具を眺めた。


砕こうと思えば、砕ける。


逃げようと思えば、逃げられる。


しかし。


「……なぜだ」


己に問いかけるように呟いた。

答えは出なかった。

ただ、アズリエルは、静かにそこに居続けた。


———


自室に戻ったのは、いつ以来だろう。

皇都の守護者に与えられた部屋は、城壁に近い塔の一角にあった。

質素な石造りの部屋に、机と椅子と、ベッドだけがある。一年間、ほとんど使っていなかった。


埃が積もっているかと思ったが、誰かが掃除をしていた。

アリアか、フィレーネか。それとも侍女か。

誰が清潔を保ってくれていたのかは、わからなかった。


俺はベッドに横たわり、天井の石を眺めながら、この一年のことを考えた。


草むらで目を覚まし、空に二つの月を見た。

村人たちに混ざって畑を耕して、薪を割って、人の傍にいたかった。

村を襲ってきた山賊を縛り上げた。

竜の炎を受け流した時の感触。

抜き手が鱗の隙間に入った瞬間。

喉の動脈を前に、手が止まった。


あの選択が正しかったと、結果論では言える。

ただ、それとは別として、あの古竜が頭を下げた時、俺の中で何かが少し、軽くなった気がした。


俺は思った。


男の後頭部が床を打つ音。

さくらの顔。

そして法廷の冷たい空気。

「殺すしかないと思いました」と答えた自分の声を。

刑務所で暮らした、砂を噛む八年間のことを。

出所してからどこにも就職が出来ず彷徨ったこと。

見知らぬ老婆を助けるために車に撥ねられたこと。


俺が悔やんでたのは何なんだろう。


人を殺してしまった事か。

それともさくらにあんな顔をさせてしまった事か。

それとも、人を殺めたことで、自分の人生が滅茶苦茶になった事か。


答えはわからない。

すべてはごちゃまぜのまま。


あの夜のことは、これからも思い出すだろう。

でも今夜は、今夜だけは、少しだけ離れられる気がした。


皇女の笑顔。

アリアの赤い顔。

温かい食事の味。


一年間、虚無と苦痛以外何も感じなかった体が、今夜は随分と賑やかだった。


「……悪くないな」


天井に向かって、呟いた。


目を閉じた。


ふと。


眠気が来た。


それは波のように、静かで。


抗う理由がなかった。


沈んでいく意識の中で、ぼんやりと思った。

明日は、城壁に立とう。

あの二つ月の下で、この王都の朝を守ろう。


それは義務じゃない。


俺が。


そうしたいから。


意識は暗闇の中に、ゆっくりと落ちていった。


それは、一年ぶりの、眠りだった。


———


第一章 完

第一章、完結です。

暗い導入から始まり、ここまでお付き合いいただいた読者の皆様、本当にありがとうございます。


桐島蓮という男を書きながら、ずっと考えていたことがあります。


かけがえのないものを失った心は、一体どこに向かうのか。


魔王もまた、蓮と同じように理不尽に全てを奪われた人間でした。

それでも二人は、真逆の道を歩んでいます。

その理由を、第二章で描いていけたらと思っています。


第二章では舞台が大きく動きます。

魔王が狙っているのはアルディア皇国だけではありません。

アズリエルは今も、皇都の地下牢に座っています。

なぜ逃げなかったのか、彼自身にもまだわかっていません。


引き続き、桐島蓮とフィレーネとアリアの物語にお付き合いいただければ幸いです。


おいなり

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