第十話 皇国の守護者
城門の外、夜明け前の闇の中。
古竜の業火により魔王軍は瓦解し、玄鉄盾騎士団は完全に勢い付き、戦場は掃討戦へと移行していた。
その時。
屍馬の異様な足音と、甘く腐った死臭が夜明け前の空気を重くした。
「クククク、まさか古竜を手懐けたとはな……守護者」
闇の中から、ローブに身を包んだ異形が六本足の馬に跨り現れた。
長身だが背が丸く、まるで身の丈を持て余しているような。
フードの奥に顔は見えない。
あるのは、爛々と光る二つの目だけ。
「お前が総大将か」
「魔王軍四大将軍が一人、死天使アズリエルである」
アズリエルは、俺をゆっくりと眺め回した。
「魔王様は大層怯えておられてな。どれ、お前という人間がどんなものか読ませてもらう」
骨の指が錫杖の宝珠に触れた瞬間、俺の頭の中に何かが滑り込んだ。
白い蛍光灯。血の滴るカウンター。
男の後頭部が床に叩きつけられる鈍い音。
さくらの顔が恐怖に歪む。
「……っ」
奥歯を噛みしめた。逃げない。ただ耐える。
アズリエルの赤い目が、嬉しげに細まる。
「……ククク、なるほど、そういう『物語』か」
アズリエルはゆっくりと馬で近づいてきた。
「……快楽殺人者」
「お前はただ、殺したかったから殺しただけだ」
「強盗から幼馴染を守った?口実にすぎない」
「あの夜、男の後頭部を床に叩きつけた瞬間……お前は心の奥底では歓喜した」
アズリエルの声が、徐々に甘く、哀れむような響きに変わる。
「哀れな人殺し。お前は『守るため』『仕方がなかった』という偽りの物語で、自分を塗りつぶしている」
「何故強くなりたかったか?それお前が自分の手で人を殺したかったから。ただそれだけのこと」
「……どうだ?今、ここで私も殺してみたくはないか?」
「さあ、思い出せ、獣の快楽を。お前はこちら側の人間だ」
俺は静かに息を吐いた。
「……ああ、そうだな」
「俺は本当は人殺しがしたくて、あの瞬間、ようやく願いが叶ったのかもな」
アズリエルの目が、わずかに勝ち誇ったように細まる。
「だがその快楽、俺にはもう必要ない」
「一度で十分だ」
その言葉を切っ掛けに、俺は踏み込んだ。
地面が爆ぜ、腐った手が無数に這い上がる。
湿った肉が擦れ合う音、甘酸っぱい腐臭が一気に濃くなった。
十体、二十体、三十体。腐った肉が擦れ合う、湿った音。
虚ろな目が、俺を取り囲んだ。
「お前の拳は私には届かん」
アズリエルは軍馬で後退しながら、錫杖を構えた。
俺は構えを低く落とした。
一体ずつ相手にしていては囲まれる。
屍兵が腕を振るった瞬間、俺はその腕を取った。
柔術の体落とし。
屍兵の体重を利用して、後続の二体に叩きつける。
鈍い衝突音。三体が絡まって転倒した。
右から来た屍兵の突進を、腰を落として潜り抜ける。
そのまま背後に回り、首を掴んで前方に投げた。
飛んだ屍兵が、密集した仲間ごと薙ぎ倒す。
倒れた屍兵がまた立ち上がろうとする。
その首を踏みつけ、次の標的へ。
屍兵は痛みを感じない。疲れない。
だが、動きは鈍い。
生前の肉体の記憶だけで動く操り人形だ。
関節がある。重心がある。
ならば、投げられる。
俺は屍兵の群れの中を、柔術の動きだけで泳ぎ続けた。
掴む、崩す、投げる。掴む、崩す、投げる。
リズムを作れば、数は関係ない。
アズリエルの屍馬の前脚に、下段回し蹴りを叩き込む。
骨が砕ける乾いた音と共に、六本足の異形が横倒しになった。アズリエルが落馬する。
俺はアズリエルの顔に拳を突きつけた。
「もう届く」
次の瞬間、アズリエルが指を鳴らした。
闇の中から、白いローブの影が現れた。
概念魔導士。
奴らが何かを詠唱した次の瞬間、俺の足元の地面が消えた。
概念魔術。
この世界の理を書き換える魔術。
「存在しなかったことになる」虚空が、俺の足場を奪った。
俺は即座に跳んだ。
虚空が広がる前に、前方へ。
着地した瞬間、今度は右側の空気が爆発した。
衝撃波が脇腹を叩く。肋骨が軋む音がした。
「ぐっ……!」
呼吸が乱れる。
アズリエルが錫杖を連続して振るう。
足元。右。左。頭上。
空間そのものが武器になっていた。
俺は動き続けた。
動きながら考えた。
錫杖を振るたびに見える、アズリエルの重心のぶれ。
杖を突くタイミングで、左足に体重が乗り、傾く。
詠唱の瞬間、顎が上がる。
見えた。
アズリエルが次の大術式を唱え始めた瞬間、俺は真っ直ぐに踏み込んだ。
空白が展開されるより、俺の足が速かった。
間合いに入った。
アズリエルが錫杖を振り下ろす。
俺は右腕の回し受けで、錫杖の軌道を螺旋に逸らす。
そのまま左の縦拳をアズリエルの胸骨に叩き込んだ。
「——っ!」
アズリエルの長身が、大きくよろめいた。
俺の中で、小宇宙が爆発する。
「あああああ!!!!」
「【門番の鉄槌・五連穿孔】!!!!!」
音を置き去りにした俺の拳が、一瞬で『金的』『水月』『壇中』『廉泉』『人中』の急所を貫いた。
遅れて、肉を抉る爆発音と衝撃波。
「お……あ……」
アズリエルの長身が、その場でくの字に折れた。
膝が地面につく。
錫杖が、乾いた音を立てて転がった。
俺は息を整えながら、うずくまるアズリエルを見下ろした。
「……殺してみろって?」
低く、静かに言った。
「どうやらその必要はなさそうだな」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、笑い声が漏れた。
苦しそうな、しかしどこか愉快そうな笑い声だった。
「……ク、クク……強いな」
「……一度で十分、か」
骨の指が、ゆっくりと錫杖を探り当てた。
「では……私も、最後に一度だけ」
「魔王様は、お前ら人間の物語を侮るなと仰った」
「ならば、その物語を消してしまえばどうかな?」
刹那。
さくらの顔が、滲んだ。
守護者としてこの世界に降り立った記憶が、薄くなる。
村人たちと畑を耕した日々が、遠くなる。
古竜の炎を受け流した感触が、消えかける。
優しい目をした黒髪の皇女の笑顔が。
遠い目をした金髪の騎士の横顔が。
俺は誰だ。
俺は何のためにここに立っている。
「……っ!」
足がぐらついた。
膝をつきそうになった。
アズリエルが踏み込んできた。
錫杖が、俺の側頭部を打った。
城壁の石畳に叩きつけられた。
視界が歪む。
「どうだ、守護者よ」
アズリエルが上から俺を見下ろしていた。
「まだお前はお前で居続けられているかな?」
俺は地面に手をつき、激しく胃液を吐き出した。
さくらの顔が、もう輪郭しかわからない。
だが、消えなかった。
「……ふざけるな」
アズリエルも一層の気迫を込めてくる。
俺は立ち上がった。
辛い過去も、全部俺の一部だ。
奥歯が砕けそうになるほど噛み締める。
「……絶対に消させない」
俺はアズリエルを強く睨みつけた。
しばらくその状態が続いた。
そして。
びくん、と。
アズリエルの骨の手が、痙攣するように震えた。
アズリエルの錫杖は地面へ滑り落ち、宝珠が割れた。
———
気がつくと俺は、アリアに肩で支えられていた。
「遅くなった」
アズリエルは地面に膝をついたまま動かなかった。
フードの奥の赤い目が、俺とアリアを見上げた。
「……忌々しい」
長い沈黙の後、掠れた声が漏れた。




