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『まほろば巡礼録 ―妖と人の喫茶旅―』  作者: 花曇り


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8/13

『香川・八十八の遍路路と讃岐うどんの約束』

 瀬戸内海を跨ぐ巨大な橋を渡り、視界がパッと開けた。 車窓の外には、穏やかな波間に浮かぶ緑豊かな島々と、お椀を伏せたような特有の丸い山々―讃岐富士が、澄み渡る秋空の下にその優美なシルエットを現していた。

 長崎での「分断の霧」の事件を吹き飛ばすような、温かな瀬戸内の日差し。四国・香川県への上陸である。

「……湊! 見てください、あの看板も、あの看板も、全部『うどん』と書いてあります! 信号機よりうどん屋の数が多いというのは都市伝説だと思っていましたが、あながち嘘ではありませんよ! 白妙の『うどんメーター』が振り切れそうです!」

 特急列車のシートで、白妙は窓にペタリと額を押し付け、目を爛々と輝かせていた。長崎から移動する間、車内販売の柑橘ジュースとカステラの残りを平らげたばかりだというのに、彼女の胃袋には「讃岐うどん専用の巨大なスペース」が既に開けられているらしい。

「お前な、香川に着く前からそんなに力むな。讃岐うどんは手軽に見えて奥が深いんだ。セルフ店、製麺所系、一般的な一般店……それぞれに出汁のこだわりや麺のコシがある」

「知っています! いりこ出汁の清涼なる旨味に、噛めば噛むほど押し返してくる小麦の弾力! そしてセルフ店での天ぷらのセレクトバトル! 白妙は既に完璧なシミュレーションを終えています!」

 白妙がふんすと鼻息を荒くして胸を張ると、セーラー服の肩からひょっこりと覗く狐の耳がぴこぴこと跳ねた。 湊は苦笑しつつ、ポケットの中で静かに振動したスマホを耳に当てた。千歳からの定時連絡である。

『……ふふ、相変わらず賑やかそうね、朝倉さん。長崎の蒼龍の事件は本部の間でも話題になっているわ。まさか「ちゃんぽん」で古代の龍神の涙を誘うなんて、あなたたちくらいのものよ』

「千歳さん。お褒めに預かって光栄だよ。……で、四国での目的地はどこだ? 高松か?」

『ええ。高松市郊外……屋島から白峰にかけての巡礼道周辺よ。四国八十八ヶ所の札所を巡る「お遍路さん」や観光客たちの間で、数日前から不可解な現象が発生しているの』

 千歳の声が、いつものように知的なトーンの奥でスッと引き締まった。

『遍路道を歩いている人々が、どれだけ進んでも同じ景色をぐるぐると歩かされ、目的の札所に辿り着けない――いわゆる「遍路の迷い道」現象よ。単なる狸の化かし合いなら可愛いものだけど、今回は様子が違うの。迷い込んだ人々が、強い精神的疲労と「孤独感」を訴えて倒れ込んでいるの』

「精神的疲労……。長崎の『分断』と似たような症状か?」

『根底にあるものは同じかもしれないわね。四国には古くから「お接待」という美しい文化があるでしょう? 巡礼者はお大師様(弘法大師・空海)の化身とし、見知らぬ旅人に食べ物や宿、温かいお茶を提供する無償の善意……。けれど、現代の高速化された観光や、効率主義の中で、その「お接待の心」や歩き遍路の記憶が急速に風化しているの』

 千歳はため息交ちに続けた。

『その巡礼道の風化に絶望した、四国の巡礼路を守る古妖――『遍路狸』の長が、巡礼道そのものを幻影の迷宮に変えて閉じ込めようとしているのよ。……手遅れになる前に、彼らの頑なな心を解きほぐして頂戴』 「了解した。まずは現場の近くで、腹ごしらえと聞き込みだな」

「言われなくても、うどん屋に直行です!」

 白妙が元気よく割り込んできた声を拾い、電話の向こうで千歳が楽しそうに笑った。

 高松駅から琴電に乗り換え、のんびりとした田園風景を抜けて辿り着いたのは、屋島の麓にある古びた製麺所スタイルのうどん店『讃岐庵』だった。

 のれんをくぐると、店内にはセルフ方式特有の活気が満ちていた。大きな釜から立ち昇る白い湯気と、麺を茹で上げる「ザッ、ザッ」という網の音。そして何より、店内いっぱいに広がる、香ばしく透き通った『いりこ出汁』の甘やかな香りが、鼻腔を幸福に満たしてくれる。

「いらっしゃい! うどんは何にする? 温かいの? 冷たいの?」

 ねじり鉢巻をした骨太の店主が、手際よく麺を丼に滑り込ませながら声をかけてきた。

「『かけうどん』の小と大、それと天ぷらをいただきます」

「はいよ! おダシとネギ、天かすはあちらのタンクからセルフでどうぞ!」

 湊と白妙は、受け取った丼を手にセルフコーナーへ向かう。 ズラリと並んだ黄金色の天ぷら―巨大なちくわ天、半熟玉子天、金時芋の天ぷら。白妙は迷うことなく、丼の上にちくわ天と半熟玉子天のダブル乗せを敢行し、蛇口のようなタンクから黄金色のいりこ出汁をなみなみと注ぎ込んだ。

「いただきます!」

 セーラー服の袖を捲り上げ、白妙がまずは出汁を一口すする。

「んふぁぁぁぁ……っ! 染み渡ります……! 長崎のちゃんぽんの濃厚な豚骨スープとは対極にある、どこまでも澄み切った、けれど深みの強烈ないりこの旨味! 雑味が一切なく、出汁の旨味が五臓六腑へじわぁぁっと染み込んでいきます!」

 白妙は間髪入れず、極太の麺をズズッと勢いよくすすり上げた。

「んんっ……! このコシ! 表面はツルツルと滑らかなのに、噛み締めるとムチッと弾力があり、小麦の甘みが口いっぱいに弾けます! 揚げたてのちくわ天の衣が出汁を吸って、じゅわっと溢れ出すこの幸福感……讃岐うどん、恐るべしです!」

 湊も丼を持ち上げ、出汁をすする。雑味の微塵もない、黄金色の出汁。伊吹島産の厳選されたいりこを贅沢に使い、昆布と薄口醤油で整えられたその味は、シンプルでありながら、誤魔化しの効かない職人のプライドが詰まっていた。

「美味いな……。店主さん、この出汁、本当に素晴らしいですね」

 湊が声をかけると、店主は汗を拭いながらニカッと笑った。

「おう、ありがとよ! うちの出汁は毎朝三時から仕込んでるからの。……しかし、お兄さんたち、これから巡礼かい? 菅笠や白衣を着とらんようだが」

「いえ、観光と、少し探し物で。……実は、この先の八栗や屋島の遍路道で、お遍路さんが迷子になる事件が増えていると聞きました」

 店主の表情が、少しだけ陰りを帯びた。

「……ああ、噂になっとるな。車やバスで一瞬で通り過ぎる観光客が増えて、歩いて旅をするお遍路さんが減った。昔はこの店でも、歩きお遍路さんには『お接待』として、うどんを一杯無料で振る舞ったり、温かいお茶を出したりしたものだが……最近は『見知らぬ人から貰うのは不気味だ』と拒否されることも増えてなぁ」

 店主は寂しそうに湯気立つ釜を見つめた。

「お接待はな、ただの無料サービスやない。『ようこそ四国へ、無事に旅を終えられますように』という、旅人と地元の人間を繋ぐ『心の交わし合い』なんや。それを受け取る側も、差し出す側も忘れてしまった。遍路道を守ってきた古くからの狸の神様が悲しむのも、無理はないかもしれん」

 湊は手の中の丼の温もりを感じながら、静かに頷いた。 四国の巡礼道で失われつつあるもの。それは「他者への見返りを求めない好意」と、歩んできた「道のりの記憶」そのものだ。

「……店主さん。もしよかったら、その『お接待のうどん』を一つ、持ち帰りで包んでもらえませんか。つゆと麺を分けて」

「え? ああ、構わんが……誰に差し出す気だい?」

「この遍路道で、ずっと迷っている『古い旅人』にです」

 薄暮が迫る屋島の古道。 立ち並ぶ老杉の木立の隙間から、鬱蒼とした紫色の「霧」が流れていた。 鳥居をくぐり、石段を上っていくと、周囲の雰囲気がガラリと変わる。風の音が消え、鳥のさえずりも途絶え、まるで世界の果てに置かれたかのような静寂が支配していた。

「……湊。空間が歪んでいます。ここから先は、完全に妖の結界の中です」

 白妙がセーラー服のマフラーを外し、鋭い眼光で杉の木の幹を見上げた。

 カツン、カツン、カツン……。

 暗闇の奥から、木心を突く『金剛杖』の音が響いてきた。 霧の奥から姿を現したのは、真っ白な白衣を身に纏い、菅笠を深々と被った、異様なほど大きな人物――いや、人ではない。

 菅笠の陰から覗くのは、太く立派な白いヒゲと、鋭い光を放つ二つの瞳。 その背後には、無数の狸の幻影が揺らめいていた。 四国の遍路道を千年にわたって見守ってきた古妖――『遍路狸の長・赤頭』であった。

『……去れ……。お接待の心を忘れ、歩む苦しみも知らぬ者どもよ……。この聖なる道に入る資格はない……』

 赤頭が金剛杖を地面に突くと、ドンッ! と重厚な衝撃波が伝わり、周囲の杉の木々が激しく揺れた。

「赤頭! 巡礼者を迷い道に閉じ込めるのはやめろ! これじゃあ、人々はますます遍路道から遠ざかってしまう!」

 湊が叫ぶと、赤頭は哀しみと怒りの混ざった声で喝破した。

『遠ざかるなら、それで良い! 今の人間は、車で通り過ぎ、スマホを眺め、スタンプラリーのように札所を消化するだけだ! 歩き疲れた旅人に「お茶をどうぞ」と差し出す温かい手も、それに「ありがとうございます」と頭を下げる感謝の心も、全て消え失せた!』

 赤頭の背後の幻影が一斉に化け火を散らし、遍路道全体がぐるぐると渦を巻き始めた。

『この道は、弘法大師様が結んだ人間と妖の「絆の道」であった! 心が失われた道など、もはや幻影として闇に沈むが良い!!』

 激しい突風とともに、巨大な岩石のような幻影が湊たちへ向かって押し寄せてくる。

「白妙!」

「任せてください! 狐火・九尾円陣!」

 白妙が跳躍し、九つの尾の狐火を円状に展開して岩石の幻影を砕き散らした。青白い炎の粉塵がパラパラと舞い落ちる。

「私の相棒の言葉を聞きなさい、狸の親分! 確かに世の中は変わりましたが、変わらないものだってあるのです!」

『黙れ、狐! お前たちに何がわかる!!』

 赤頭が金剛杖を振り上げ、更なる大技を繰り出そうとしたその瞬間―。

 ふわり、と。 夜の冷気の中に、温かい「いりこ出汁」の香ばしい匂いが漂った。

 湊が岡持ちから取り出し、湯気を立てて差し出したのは、先ほどの『讃岐庵』の店主が心を込めて作った、『お接待のかけうどん』だった。

『……コノ匂イハ……』

 赤頭の手が、ぴたりと止まった。

「食ってみてくれ。昔から変わらない、この讃岐の土地が育てた味だ」

 湊は出汁を一口飲み、目を閉じた。

 『記憶の味』。

 湊の意識を回路として、出汁に刻まれた何百年もの「お接待の記憶」が、赤頭の精神へとダイレクトに流れ込んでいく。

 ……雨の降る、寒い遍路道。 足の裏に豆を作り、疲れ果てて膝をつく一人の若い遍路。 そこへ、貧しい身なりをした地元の老夫婦が、笑顔で駆け寄ってくる。

『これ、お遍路さん。温かいうどんが茹で上がったよ。食べて行きなされ』

『え……ですが、私にはお払いできるお金が……』

『何を言いますやら! お遍路さんは「お大師様」の分身だ。お金なんていりませんよ。無事に旅を続けられることだけが、私らの願いです』

 湯気を立てる素朴なうどんを、震える手で受け取る若者。 一口食べた瞬間、出汁の温もりと善意が身体に染み渡り、ボロボロと涙をこぼす。

『ありがとう……ありがとうございます……!』

 それを見守る、木の陰の小さな狸たち。見返りを求めないもてなし(お接待)と、それに対する深い感謝。 その温かな感情の交流こそが、四国の巡礼道を千年間支え続けてきた、本当の「魔法」だったのだ。

 ―ビジョンが、ゆっくりとけていく。

 赤頭の菅笠から、ぽたりと雫が落ちた。

『……うむ……。いりこの出汁が……昔と変わらず、温かいな……』

 赤頭の咆哮から角が取れ、穏やかな老人の声へと戻っていく。

「店主さんは言ってたよ。『お接待はただの無料サービスじゃない。旅人と地元の人間を繋ぐ心なんだ』って。車で巡る人も、車内でその温かさに感謝している。形が変わっても、この土地に流れるお接待の精神は、死んじゃいないんだ」

 湊の言葉に、赤頭は静かに頭を下げ、出汁を最後まで愛おしそうに飲み干した。

『……そうか。ワシが焦るあまり、人間の「変わらぬ心」が見えなくなっていたのかもしれんな……』

 赤頭が金剛杖でトントンと地面を叩くと、遍路道を覆っていた紫色の幻影の霧が、朝靄のようにサラサラと消え去っていった。 月明かりが杉の木立を照らし出し、遠くから静かな虫の音が戻ってくる。

『朝倉湊と言ったな。……お前の「記憶の味」の見事さ、感服した。四国の巡礼道は、これからも旅人を温かく迎え入れよう』

 赤頭と狸たちの幻影は、夜風に溶けるようにして静かに消えていった。

 翌朝。 快晴の高松港。瀬戸内海の青い海原を、フェリーや小型船が行き交っている。

 港のベンチで、白妙は『うどんハシゴ旅』の三軒目となる冷やしぶっかけうどんを、ズズッと豪快にすすっていた。

「ん〜〜〜! 冷やしにすると、麺のコシがさらに際立ちますね! 讃岐うどんは温・冷どちらも隙がありません!」

「お前、昨日の夜も夜食にうどんを食べてただろ……」

 湊が呆れていると、スマホから千歳の弾んだ声が響いた。

『お見事ね、朝倉さん! 屋島周辺の「遍路の迷い道」現象は完全に消滅したわ。赤頭たち遍路狸も、再び巡礼者の守護者として穏やかに見守ってくれているみたい』

「ああ。形式が変わっても、お接待の心が残っていると分かって納得してくれたよ」

『ええ、本当にありがとう。……沖縄、山形、大阪、長崎、そして四国。あなたたちの旅が、日本各地の失われかけた絆を、少しずつ繋ぎ直しているわ』

 千歳は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。

『……朝倉さん。次はいよいよ、核心に近づくかもしれないわ。北陸……金沢に向かってほしいの』

「金沢?」

『ええ。加賀百万石の歴史を持つあの街で、古くからの「物妖」たちの祭典―付喪神たちの異変が起きているわ。準備ができたら出発してちょうだい』

「了解した。金沢だな」

 通話を切り、湊が海を見つめていると、白妙が最後の一滴まで汁を飲み干して、ニシシと八重歯を見せて笑った。

「金沢! 金沢と言えば、治部煮、金箔ソフトクリーム、近江町市場の海鮮丼、そして和菓子です! 北陸のグルメ攻勢に、白妙の胃袋が鳴り止みません!」 「お前は本当にどこへ行ってもブレないな」

 湊は苦笑し、空になった丼を片付けた。

 見知らぬ旅人へ差し出される、一杯の温かいうどん。

 形が変わっても、時代が流れても、人と人、人と妖を繋ぐ「お接待の心」は、この四国の風の中に確かに生き続けている。

 温かな出汁の余韻を胸に、二人の『記憶を取り戻す喫茶旅』は、次なる雪と伝統の街・金沢へと続いていくのだった。

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