『長崎・分断の霧と混ざり合うちゃんぽん』
異国情緒漂う石畳の坂道を、秋の潮風が吹き抜けていく。沖縄の南国の熱気、山形の凍てつく冷気、そして大阪のネオンの喧騒を経て、湊と白妙の二人が降り立ったのは、和・華・蘭(日本、中国、オランダ)の文化が交差する歴史の街、長崎だった。
「湊! 見てください、このカステラの黄金色の輝き! 底に敷き詰められたザラメのジャリッとした食感と、生地のふんわりとした甘さが、口の中で見事なワルツを踊っています!」
オランダ坂を歩きながら、白妙は片手に持った分厚いカステラを幸せそうに頬張っていた。洋館を背景に、白いセーラー服と揺れる狐の尾が、不思議とこの街の和洋折衷な風景に溶け込んでいる。
「お前、着いて早々デザートから入る奴があるか。まあ、長崎の砂糖文化の歴史は古いがな」
湊は呆れながらも、坂の上から長崎港を見下ろした。しかし、その視界は、本来の美しいすり鉢状の街並みとは程遠いものだった。 街の低い場所――港から市街地にかけて、どんよりとした乳白色の『濃霧』が、海と街を分断するように立ち込めていたのだ。
スマホから、千歳の緊迫した声が響く。
『……朝倉さん、見えるかしら。長崎の街を覆うあの異常な濃霧が』
「ああ。物理的な霧じゃないな。妖気の膜だ。山形や大阪で感じたものより、さらに規模が大きい」
『ええ。数日前から、長崎市の中心部がこの霧に包まれ、交通網は完全に麻痺。しかも恐ろしいことに、霧の中に入った人間同士が、互いの姿を認識できず『孤立』してしまうという不可解な現象が起きているの。音も声も届かない、完全な分断よ』
「分断……」
『局のデータべースによると、この強力な妖気は、かつて唐船の航海を守護し、長崎の街の発展を見守ってきた渡来の妖―『蒼龍』のものと推測されるわ。人間の何らかの思念に絶望し、街を丸ごと封鎖しようとしている。至急、原因の特定と解決をお願い』
「了解した。……白妙、カステラは飲み込め。霧の中へ入るぞ」 「むぐぐっ……ごっくん! はい! この美味しいカステラを作る街を霧に沈めるなど、食の神に対する冒涜です! 絶対に解決してみせます!」
白妙が口元を拭い、キリッと表情を引き締めた。
霧の立ち込める長崎新地中華街は、ゴーストタウンのように静まり返っていた。極彩色の門も、赤い提灯も、深い霧の底でぼんやりと滲んでいる。行き交うはずの観光客の姿はなく、たまにすれ違う人間も、まるで他者が見えていないかのように、うつろな目でスマホの画面だけを見つめて歩き去っていく。
「……気持ち悪いですね。人がいるのに、まるで誰もいないような孤独感を感じます」
白妙が狐火を小さく灯し、周囲を警戒しながら呟く。
「妖の力で、他者との繋がりを断ち切られているんだ。……まずは腹ごしらえと情報収集だ。あそこに入ろう」
湊が指差したのは、霧の中で唯一、微かな明かりを灯している古い中華料理店『海龍亭』だった。
カラン、とドアを開けると、店内には豚骨と鶏ガラを煮込んだ濃厚な香りが漂っていた。沖縄の澄んだカツオ出汁とも、山形の醤油ベースとも違う、力強くもまろやかな匂いだ。
「いらっしゃい……って、お客さん、この霧の中をよく来れたね」
厨房から出てきたのは、白いコックコートを着た恰幅の良い白髪の店主だった。
「少し外から来たもので。……店主さん、特製ちゃんぽんを二人前、お願いします」
「あいよ。こんな日は、温かいものを食べて元気を出すに限る」
中華鍋にラードが引かれ、豚肉、イカ、エビ、キャベツ、もやし、キクラゲ、そしてピンク色のかまぼこが強火で一気に炒められる。ジャーッ! という小気味よい音とともに、厨房から立ち昇る煙が食欲を激しく刺激する。そこへ白濁したスープが注がれ、独自の太麺と共に煮込まれていく。
ほどなくして、山盛りの具材が乗った熱々の『長崎ちゃんぽん』が運ばれてきた。
「いただきます!」
白妙が真っ先にスープをすする。
「んんんーっ! 豚骨の深いコクと鶏ガラの旨味! そこに海鮮の出汁と、野菜の甘みが溶け込んで……信じられないくらい複雑で、なのに一つにまとまっています!この太い麺がスープをたっぷり吸って、モチモチで最高です!」
湊も麺をすする。様々な具材の旨味がスープの中で渾然一体となり、圧倒的な調和を生み出していた。
「美味いですね。……ところで店主さん、この霧について何か知っていますか?」
湊が尋ねると、店主は悲しそうに目を伏せた。
「……昔から、この街の調和が乱れると、海から『龍神様』が現れて、街を霧で戒めるという言い伝えがあってね。……きっと、今の長崎の空気に、龍神様が愛想を尽かしたんだ」 「調和が乱れる、ですか」
「ああ。最近の人間は、自分と違う考えの者や、外から来た者を、すぐにネットで叩き、排斥しようとする。世代間の対立、外国人観光客との些細なトラブルからの差別的な暴言……。かつてこの街は、海を越えてきたいろんな国の人間を受け入れ、混ざり合い、『和華蘭』という独自の美しい文化を築いてきた。なのに今は、誰もが自分の殻に閉じこもり、他者を拒絶しとる」
店主は、湊たちが食べているちゃんぽんのどんぶりを指差した。
「ちゃんぽんの語源は、諸説あるが『異なるものを混ぜ合わせる』という意味もある。明治の頃、うちの先代たちが、貧しい異国の留学生に、安くて腹一杯になる栄養満点の飯を食わせたい……その一心で、あり合わせの具材を一つの鍋で煮込んだのが始まりさ。他者を労わり、違いを受け入れる『優しさの結晶』なんだよ」
湊は、どんぶりの底に残ったスープを見つめた。 沖縄では「自然への感謝」が忘れられ、山形では「川への祈り」が、大阪では「職人への敬意」が忘れられていた。 そしてこの長崎で忘れられようとしているのは、「他者を受け入れ、混ざり合うことへの寛容さ」だ。
「店主さん、このちゃんぽんを、もう一杯作ってくれませんか。テイクアウトで」
湊の言葉に、店主は驚きつつも、静かに頷いた。
長崎港、出島跡地付近。 海面は分厚い霧に覆われ、対岸の造船所のクレーンすら見えない。 湊と白妙が岸壁に立つと、海そのものが怒っているかのように、低く重い地鳴りが響き始めた。
「湊、来ます! 海の底から、とてつもない質量の妖気が……!」
白妙が狐火を全身に纏い、臨戦態勢をとる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
海面が大きく割れ、霧を切り裂いて巨大な水柱が上がった。 その中から姿を現したのは、全長数十メートルに及ぶ、美しくも恐ろしい『蒼龍』だった。 エメラルドグリーンの鱗は濡れて妖しく光り、鹿のような角、鋭い眼光は黄金色に燃えている。その長い髭が揺れるたびに、空中にバチバチと青白い稲妻が走った。
『……人間カ。コノ深イ孤立ノ霧ノ中ヲ、ヨクゾ歩イテ来タモノダ……』
脳内を直接揺らすような、荘厳で底冷えする声。
「あんたが長崎の街を封鎖している蒼龍だな。霧を晴らしてくれ。これじゃあ、人々が完全に孤立してしまう」
湊が叫ぶと、蒼龍は悲鳴のような咆哮を上げた。
『ソレデイイノダ! 人間ハ今ヤ、己ト異ナル者ヲ憎ミ、排除シ、傷ツケ合ウバカリダ! カツテ様々ナ文化ガ手ヲ取リ合イ、混ザリ合ッテイタコノ美シイ街ノ心ハ、モウ死ンダ!』
蒼龍が天空に向かって吠えると、雷雲が渦を巻き、無数の雷撃が岸壁に向かって降り注いだ。
「させませんっ! 狐火・大障壁!」
白妙が九つの尾の幻影を広げ、強大な青い炎のドームを展開する。雷撃と炎が激突し、凄まじい衝撃波が霧を吹き飛ばす。
『愚カナ妖狐ヨ、ナゼ人間ニ肩入レスル! ヤツラハイツカ、我ラ妖モ「異物」トシテ排除スルダロウ! 交ワルベキデハナイノダ!』 「私は、湊と一緒にいろんなものを食べてきました! 違う土地の、違う料理。どれも美味しくて、そこにはいつも、誰かを想う人間の温かい心がありました! 私は、そんな人間が大好きです!」
白妙の純粋な叫びに、蒼龍の動きが一瞬鈍る。その隙を突いて、湊は岸壁の先端へと走り出た。手には、『海龍亭』で作ってもらったばかりの、熱々の特製ちゃんぽんが入った岡持ちを提げている。
「蒼龍! 街の人間が『混ざり合うこと』を忘れたと言うなら……あんた自身が、この味を確かめてみろ!」
湊は岡持ちからどんぶりを取り出し、箸で麺と具材を高く持ち上げた。 豚骨と海鮮が混ざり合った、鮮烈で芳醇な香りが、潮風に乗って蒼龍の鼻先へと届く。
『……コノ匂イハ……』
「海から来たイカやエビ、山で育ったキャベツや豚肉。別々の場所で生まれ、全く違う性質を持った具材たちが、一つの鍋で煮込まれることで、単体では絶対に届かない『極上の旨味』を生み出している。……これが、長崎の答えだろ!」
湊は、自らちゃんぽんのスープを飲み込み、目を閉じた。
『記憶の味』、最大出力。
湊の意識を媒介として、ちゃんぽんに込められた歴史の記憶が、蒼龍の精神へと怒涛のように流れ込む。
視界に広がるのは、明治時代の長崎。 言葉も通じない、金もない異国の留学生たち。彼らを見かねた中華料理店の主人が、ありったけの具材を鍋に放り込み、汗を流しながら一杯のどんぶりを作り上げる。
『さあ、食え! 腹が減ってちゃ、異国の地で踏ん張れねえだろうが!』
『謝々……! 美味イ、本当ニ美味イ……!』
異なる国の者同士が、一杯の熱いスープを通じて心を通わせる瞬間。さらに記憶は遡る。出島で西洋の知識に目を輝かせる若者たち、唐船から降り立つ商人たちを笑顔で迎える町民たち。誰もが「違い」を恐れず、むしろ面白がり、受け入れ、新しいものを生み出してきた、この街の生命のきらめき。
『……アァ……』
蒼龍の黄金色の瞳から、雷の光が消え、静かな涙が海へとこぼれ落ちた。
「今は少し、人間たちも余裕をなくして、画面の中の言葉だけで傷つけ合っているかもしれない。でも、このちゃんぽんが食べ継がれている限り、この街の根底にある『和華蘭の心』は、絶対に死んじゃいない」
湊の言葉に、蒼龍は長い首をゆっくりと下げ、どんぶりの前へと顔を近づけた。ズズッ……と、スープの香りを深く吸い込む。
『……思イ出シタ。私ガコノ街ヲ愛シタノハ……コノ、全テヲ包ミ込ムヨウナ、温カク、騒ガシイ『混ザリ合イ』ガアッタカラダ……』
蒼龍の全身から発せられていた冷たい妖気が、春の陽気のように暖かな波動へと変わっていく。 それと同時に、街を覆い尽くしていた乳白色の濃霧が、嘘のようにスゥッと晴れていった。
『……人間ノ子ヨ、妖狐ヨ。礼ヲ言ウ。私ハモウ一度、深イ海ノ底カラ、コノ街ガ作リ出ス新シイ『味』ヲ見守ルトシヨウ……』
蒼龍は静かに海面へと身を翻し、美しい水飛沫を上げて、長崎の海深くへと帰っていった。 霧が完全に晴れた長崎港には、西の空を赤く染める美しい夕日が差し込み、水面を黄金色に輝かせていた。
「ふう……終わりましたね、湊!」
白妙が狐火をしまい、背伸びをした。
「ああ。今回も、ギリギリのところで間に合ったな」
街の方からは、車のクラクションの音や、観光客たちの明るい笑い声が再び聞こえ始めていた。霧が晴れ、人々は再び他者との繋がりを取り戻したのだ。
「湊ぉー、私、狐火を全開で使ったので、ちゃんぽんのカロリーを完全に消費してしまいました! というわけで……角煮まん! そしてデザートに、長崎名物ミルクセーキを要求します!」
「お前は本当に……。まあ、今回は大活躍だったからな、奢ってやるよ」
「やったー! 湊、大好きです!」
白妙は満面の笑みで、湊の背中をバシバシと叩いた。
その時、湊のスマホが鳴った。
『お疲れ様、朝倉さん、白妙。見事に霧を晴らしてくれたわね』
「千歳さん。長崎の蒼龍は、海へ帰ったよ。当分は静かに見守ってくれるはずだ」
『ええ、レーダーの妖気も完全に正常値に戻ったわ。……沖縄、山形、大阪、そして長崎。あなたたちの「食を通じた対話」が、各地の伝承を確実に繋ぎ止めているわ』
千歳の声は、どこか安堵したように優しかった。
『でも、旅はまだまだ続くわよ。次は海を渡って、四国へ向かってもらうわ。古い巡礼の歴史を持つあの土地もまた、妖たちの複雑な想いが渦巻いているの』
「四国か。……分かった、明日には出発する」
通話を切ると、白妙がすでにスマホで何かを検索して目を輝かせていた。
「四国! ということは、香川で讃岐うどん巡りをして、高知でカツオのタタキを塩とニンニクで食べて、愛媛でみかんを箱買いして、徳島で徳島ラーメンに生卵を落とすんですね! 忙しくなりますよ、湊!」
「……お前の頭の中は、本当に食い物しかないのか」
呆れる湊をよそに、白妙は夕暮れのオランダ坂をウキウキと駆け上がっていく。
海を越え、異なるものが混ざり合い、新しい味を生み出してきた長崎の街。
人と妖が共に生きる未来もまた、そうして少しずつ、混ざり合いながら作られていくのだろう。
ちゃんぽんの温かな余韻を胸に、二人の『記憶を取り戻す喫茶旅』は、次なる舞台・四国へと続いていくのだった。




