『大阪・食い倒れの街と幻の化け狸』
山形の澄み切った冷気と静寂から数日後。湊と白妙の二人は、日本が誇る大都会にして「天下の台所」、大阪・道頓堀のど真ん中に立っていた。
見上げれば、巨大なカニの看板が足を動かし、極彩色のネオンサインが夕闇の迫る空をギラギラと照らしている。行き交う人々の熱気、あちこちから聞こえてくる威勢の良い関西弁。そして何より、通り全体を包み込む暴力的なまでの「食」の匂い。ソースが焦げる香ばしさ、油の弾ける音、濃厚な豚骨スープの湯気が、人間の根源的な食欲を容赦なく刺激してくる。
「……信じられません、湊! 右を向いても左を向いても、食べ物屋しかありません! たこ焼き、お好み焼き、串カツ、豚まん! ここはまさに、人類が到達した食の桃源郷です!」
白妙は両手に舟盛りのたこ焼きと、ソースがたっぷりかかった串カツを持ち、狐の耳をピコピコと激しく上下させていた。制服のセーラー服の襟元には早くも青海苔が飛んでいる。山形の蔵王温泉で「ご当地グルメの偏差値が最も高い県を割り出す」と宣言した彼女が、迷わず弾き出した答えがここ、大阪だったのだ。
「お前、山形で芋煮をたらふく食ったばかりだろうが……。まあ、確かにこの街のエネルギーは桁違いだがな」
湊は呆れながらも、手渡されたたこ焼きを一つ楊枝で刺し、口へ放り込んだ。 外はカリッと香ばしく、中はトロトロ。熱々の生地の中からプリプリの大きなタコが顔を出し、フルーティーな甘めのソースと鰹節の風味が鼻腔を抜けていく。確かに、非の打ち所がない美味さだ。
その時、湊のスマホがブルリと震え、イヤホン越しに千歳の凛とした声が響いた。
『観光を楽しんでいるところ悪いけれど、仕事の時間よ、朝倉さん。グルメ偏差値で大阪を選んだ白妙の直感は、ある意味で正解だったわ』
「千歳さん。何か事件か?」
『ええ。ここ一週間、道頓堀や千日前周辺の老舗飲食店で奇妙な現象が多発しているの。「提供された料理の味が、突然消える」という不可解な苦情よ』
「味が消える?」 湊は顔をしかめた。
『出汁を引いても、ソースをかけても、客の口に入った瞬間に無味乾燥な「ただの紙粘土」のような味に変わってしまうらしいの。そのせいで客は激怒し、店主たちはノイローゼ寸前。街全体に不満と怒りの負の感情が鬱積して、一触即発の暴動一歩手前よ』
千歳の声に、ただならぬ緊張感が混じる。
『現地の観測機器が、強大な妖気の渦を捉えているわ。人間の「食」への恨みを募らせた、相当古い妖の仕業よ。負の感情を吸い上げて、完全に悪鬼化するのも時間の問題ね。至急、原因を特定して解決してちょうだい』
「了解した。……白妙、食うのは後だ。仕事だぞ」
「むぐぐっ!? 味が消えるですって!? この食い倒れの街で、そんな神をも恐れぬ暴挙を働く悪霊がいるなんて……断じて許せません! 私の狐火で消し炭にしてやります!」
白妙は残りの串カツを一瞬で胃袋へ収めると、鼻息を荒くして臨戦態勢をとった。食への執着に関しては、この狐の右に出る者はいない。
二人が向かったのは、被害の報告が最も早く、そして頻繁に起きているという裏路地の老舗うどん店『浪花屋』だった。昭和の香りを色濃く残す木造の店舗。しかし、暖簾をくぐった店内の空気は重く、どんよりと沈み込んでいた。
「いらっしゃい……って、ごめんな。今日はもう店じまいや」
頭にタオルを巻いた初老の店主が、力なくカウンターを拭いていた。その表情には、深い疲労と絶望が張り付いている。
「店主さん、少しお話を聞かせてもらえませんか。料理の『味が消える』現象について調べている者です」
湊が身分証の代わりとなる管理局のバッジを見せると、店主は目を見張り、やがて堰を切ったように語り始めた。
「……信じてもらえるか分からんが、ホンマなんや。うちの命である『昆布と鰹の合わせ出汁』。毎朝四時から仕込んどる自慢の味やのに、客に出した途端、『味がせえへん! 色のついたお湯やないか!』って怒鳴られるんや。ワシが自分で味見しても、確かに味がすっぽり抜け落ちとる……。これじゃ、商売あがったりや」
「店主さん、その出汁、まだ残っていますか? 俺に一口飲ませてください」
「残っとるけど……ホンマに味なんかせえへんで?」
店主は怪訝な顔をしながらも、小鉢に温かい出汁を注いで出してくれた。黄金色に透き通った、美しい出汁。見た目には何の異常もない。 湊は小鉢を手に取り、目を閉じて一気に飲み干した。
『記憶の味』。
瞬間、湊の意識が深い水底へと潜っていくような感覚に陥った。通常ならば、この出汁を作った店主の苦労や、昆布の育った海の記憶が流れ込んでくるはずだ。しかし、今回は違った。
『……愚カナ人間ドモメ……』
ノイズまじりの、低くしゃがれた声が脳内に直接響く。視界に映し出されたのは、コンクリートに埋め立てられた小さな祠。無数のスマートフォン。食べ物を撮影するだけで残していく人々。そして、化学調味料で誤魔化された大量生産の粗悪な食事。
『……味ナド分カッテイナイノダ、今ノ人間ハ……。見栄バカリ張ッテ、食ベ物ヘノ感謝モ、作リ手ヘノ敬意モ忘レ去ッタ……。ナラバ、味覚ナド不要デアル……!!』
圧倒的な怒りと、悲哀。 ドクン、と心臓が跳ね、湊は現実世界へと強く引き戻された。
「……っ!」
「湊! 大丈夫ですか!?」
白妙が駆け寄る。湊は額に滲んだ汗を拭い、息を整えた。
「……妖の強い妨害念波が仕込まれていた。だが、正体は分かった。この街の『食』の根本に対する強烈な怒りだ。……店主さん、この近くに、最近取り壊された古い祠や神社はありませんか?」
「祠……? ああ、そういや先月、商店街の裏にあった古いお稲荷さんか狸か分からん小さな祠が、新しいビルを建てるために取り壊されたなあ……」
「それです。行こう、白妙」
商店街の裏手。新しい商業ビルの建設予定地となっているその空き地は、夜の闇に沈み、周囲のネオンの光も届かない異質な空間となっていた。
「……湊。凄まじい妖気です。沖縄の海坊主、山形の川蛟に匹敵する……いえ、大都会の負の感情を吸っている分、タチが悪いかもしれません」
白妙がセーラー服の袖を捲り上げ、十本の指先に青白い狐火を顕現させた。周囲の気温がスッと下がる。
「出てこい! 姿を隠しても無駄だ!」
湊が空き地の中央に向かって叫ぶと、空間がぐにゃりと歪んだ。
どろん、と紫色の煙が立ち上り、周囲の空気が重圧で軋む。 現れたのは、見上げるほど巨大な――毛むくじゃらの『大狸』だった。 頭には破れた笠を被り、右手にはボロボロの徳利、左手には巨大な大福帳を持っている。しかしその目は血走っており、本来の愛嬌ある姿は見る影もなく、全身から怨念の瘴気を立ち昇らせていた。
『……狐ノ小娘ト、人間カ……。ワシノ邪魔ヲスル気カ……』
大狸の腹に響く声が、空き地のフェンスをビリビリと震わせる。
「あんたが、道頓堀の料理から味を奪っていた犯人か。なぜこんなことをする!」
湊の問いに、大狸はカッと目を見開いた。
『ナゼダト!? 笑ワセルナ! 昔ノ大阪ノ商人タチハナ、食ベ物ヲ粗末ニセンカッタ! 昆布ノ一枚、鰹節ノ一欠片ニモ感謝シ、見事ナ出汁ヲ引イテ客ヲモテナシタ! それが『始末』と『粋』の心ヤ!』
大狸は巨大な足で地面を踏み鳴らした。
『ダガ今ノ人間ハドウダ! 安ケリャエエ、早ケリャエエ、写真ニ撮ッテ映エレバソレデエエ! 食ベ残シハ平気デ捨テ、祠モ壊シテ平気ナ顔ヲシトル! アンナ連中ニ、美味イモンヲ食ウ資格ナドナイワァァッ!!』
大狸が左手の大福帳を振り下ろす。それが巨大な突風となり、瓦礫を巻き込んで湊たちへ襲いかかった。
「させませんっ! 狐火・障壁!」
白妙が前に飛び出し、青白い炎の壁を展開して突風を相殺する。
「狸の妖怪風情が、人間の食に文句をつけるなど百年早いです! 現代の食文化は、それはそれで進化しているのですよ!」
『フン! 山育チノ野狐ニ、天下ノ台所ノ歴史ガ分カッテタマルカ!』
狐と狸。古来より化け比べで競い合ってきた両者の妖気が激突し、周囲の空間が火花を散らす。
「待て! 二人とも!」
湊は障壁の後ろから叫んだ。
「あんたの怒りはもっともだ。だが、この街の料理人たちが、全員『心』を忘れたわけじゃない! あの『浪花屋』の店主は、毎朝四時に起きて、本気で出汁を引いている。あんたが味を奪うのは、その心まで踏みにじる行為だ!」
『黙レ! 証拠ガアルカ! 人間ノ底ノ浅イ言葉ナド信ジンゾ!』
「なら、味で証明してやる。……白妙、時間を稼げ! 俺は浪花屋へ戻って、『記憶の味』を作ってくる!」
「ええっ!? 私一人でこの巨大な毛玉と戦うのですか!? ま、まあいいでしょう、狐のプライドにかけて、ここは持ち堪えてみせます!」
白妙が狐火を乱れ撃ちにし、大狸の視界を塞ぐ。 その隙に、湊は空き地を飛び出し、全速力で浪花屋へと走った。
息を切らして浪花屋に戻った湊は、店主に頭を下げた。
「店主さん、お願いだ。あんたの全力の出汁で、『きつねうどん』と『たぬきそば』を作ってくれ!」
「兄ちゃん、一体何があったんや……? 味はせんのに」
「俺には分かるんだ。あんたの出汁に込められた、手抜きのない『真心』が。妖の幻覚なんか吹き飛ばすくらいの、最高の一杯を作ってくれ!」
湊の真剣な眼差しに、店主は一瞬戸惑ったが、やがて顔つきを「商人」のそれへと変えた。
「……分かった。ワシの五十年の職人魂、全部ぶち込んたるわ!」
店主は厨房に入り、最高級の利尻昆布と、血合い抜きの本枯節を使って、再び一から出汁を引き始めた。 甘く煮込んだ大きなお揚げと、大阪特有の「たぬき」。 店主の手さばきには一切の迷いがなく、ただ客に「美味い」と言ってもらいたいという、純粋な祈りのような情熱が込められていた。
十五分後。 湊が空き地へ戻ると、白妙は肩で息をし、セーラー服を少し焦がしながらも、見事に大狸の攻撃を防ぎきっていた。
「み、湊ぉ……遅いです! もう少しでキツネの丸焼きになるところでしたよ……!」
「よくやった。下がってろ!」
湊は、両手に持った岡持ちから、熱々の『きつねうどん』と『たぬきそば』を取り出し、大狸の目の前へと掲げた。
「これを食ってみろ! 今の大阪の職人が作った、本気の味だ!」
琥珀色の出汁から立ち昇る、昆布の豊潤な香りと、鰹の力強い旨味の香り。それに、甘辛く煮上げられた油揚げの匂いが混ざり合い、夜の空き地に満ちていく。
『……コ、ノ……匂イハ……』
大狸の動きが止まる。 湊は箸を取り、まず自ら『たぬきそば』の出汁をすする。
『記憶の味』、最大出力。
湊の意識を通じて、浪花屋の店主の記憶が、強引に大狸の精神へと流し込まれる。
毎朝暗いうちから起き出し、水にこだわる姿。 少しでも良い昆布を求めて市場を歩き回る姿。 客の「美味しかったわ、おおきに」という一言のために、赤字覚悟で出汁を引き続ける姿。
そして、それらの情熱は、大狸がかつて愛した江戸時代の大阪商人たちが持っていた「商いへの矜持」と、何一つ変わっていなかった。 時代が変わり、街の景色がネオンに覆われようとも、一杯の器に込める『もてなしの心』は、この街の根底で静かに、だが力強く脈打っていたのだ。
『……アァ……』
大狸の赤く濁っていた瞳から、涙のような大粒の雫がこぼれ落ちた。
「あんたが守ってきたもんは、消えちゃいない。祠がなくなっても、この街の『味』の中に、あんたへの感謝は生きているんだ」
大狸は巨大な手を伸ばし、きつねうどんとたぬきそばの器を、そっと持ち上げた。 ズズッ、と音を立ててすする。
『……美味イ……。出汁ガ、よう効イトル……。昔ノ商人タチノ味ト、同ジヤ……いや、それ以上に、洗練されとる……』
大狸の全身を覆っていた怨念の紫色の煙が、朝霧が晴れるようにスウッと消えていく。 巨大だった体はみるみるうちに縮み、やがて湊たちの背丈ほどの、少し腹の出た愛嬌のある古狸の姿へと戻った。
『……ワシの負けや。狐の嬢ちゃん、あんたの言う通り、今の人間も捨てたもんやないな』
「ふふん! 狐と人間の絆を舐めないでください!……でも、そのお出汁の香り、本当に美味しそうです……じゅるり」
白妙がよだれを拭う。
狸は人の良さそうな笑顔を浮かべ、笠を深く被り直した。
『おおきに、兄ちゃん。ワシは少し、見くびりすぎとったわ。この街の食は、まだまだ大丈夫や。祠のことはもうええ。ワシはこの街の匂いと一緒に、どこぞの路地裏で生きさせてもらうわ』
ぽんっ、と腹を叩くと、狸の姿は夜風に溶けるようにして消え去った。同時に、道頓堀の街の方角から
「味が戻ったで!」
「めっちゃ美味い!」
という人々の歓声が、遠く響いてきた。
翌日。 すっかり活気を取り戻した道頓堀。 湊と白妙は、再び『浪花屋』のカウンターに座っていた。
「ホンマに、おおきにな! 昨日から急に出汁の味が戻って、お客さんも大喜びや! これ、サービスやで!」
満面の笑みの店主が、大盛りのきつねうどんを二人の前に置く。
「ありがとうございます! いただきます!」
白妙は両手を合わせ、顔の大きさほどある巨大な油揚げに食らいついた。
「んんんーっ! 甘いおつゆがジュワッと口いっぱいに広がって、最高です! 昆布のお出汁も、心の底からホッとしますねー!」
幸せそうにうどんをすする白妙を見ながら、湊も出汁を一口飲む。 昨日よりもずっと、温かく、優しい味がした。
スマホから千歳の声が届く。
『報告ご苦労様。大阪の妖力異常は完全に消滅したわ。狸の妖も、人間に害をなすことはもうないでしょう。……朝倉さん、これで沖縄、山形、大阪と、悪鬼化しかけた妖を「食の記憶」で救ったことになるわね』
「ああ。時間はかかるかもしれないが、このやり方で間違ってないはずだ」
『ええ、期待しているわ。……次は、少し西へ向かってもらうわよ。歴史の古い街ほど、抱えている闇も深いの。準備ができたら連絡をちょうだい』
通話が切れ、湊は空になった器を置いた。
「白妙、次は西だそうだ。行くぞ」
「西ですか! ということは、広島でお好み焼きか、福岡で明太子もつ鍋か、はたまた長崎でちゃんぽんか……! 夢が広がりますね、湊!」
白妙は最後の一滴まで出汁を飲み干し、満面の笑みで立ち上がった。
ネオンの消えた昼間の大阪もまた、商人たちの活気と食欲に満ち溢れている。
人と妖が、同じ空の下で共に在るために。
一杯の記憶を求めて、湊と白妙の「喫茶旅」は、さらなる西の地へと続いていくのだった。




