『山形・暴虐の川蛟と二つの芋煮』
『第五話 山形・暴虐の川蛟と二つの芋煮』
抜けるような青空と、頬を刺すような冷たい風。 南国・沖縄の生暖かい空気から一転、湊と白妙の二人は、初冬の足音がはっきりと聞こえる東北の地、山形県へと降り立っていた。
遠くに見える蔵王連峰の頂はすでに薄っすらと雪化粧を施され、風に乗って運ばれてくる空気は、肺の奥まで凍てつくように澄み切っている。 市内を流れる馬見ヶ崎川の河川敷を歩きながら、湊は厚手のコートの襟を立てた。
「……ぶっくしゅ! さ、寒いです、湊……。沖縄の三十度近い気温から、いきなり一桁台の気温へ移動するのは、いかに優れた狐の妖である私と言えども、自律神経が悲鳴を上げます……!」
白妙はセーラー服の上に大きなダッフルコートを羽織り、さらに真っ白なマフラーで顔の半分をぐるぐると巻きにしていた。鼻の頭をうっすらと赤く染め、狐の耳をぺたんと伏せている姿は、さながら寒さに震える小動物である。
「お前が『早く山形に行きましょう! 芋煮が私を呼んでいます!』って急かしたんだろ。文句を言うな」
「文句ではありません、生命の危機を訴えているのです! このままでは凍死して、美しい毛皮だけが後世に残ってしまいます。早急に、体の芯から温まる熱量の高いエネルギー……すなわち『芋煮』の摂取を要求します!」
ぎゅるるる、と白妙のお腹が河川敷に響き渡る。湊はため息をつきながらも、スマホで事前に調べておいた郷土料理屋の地図を確認した。
「分かってるよ。事件の聞き込みも兼ねて、まずは腹ごしらえだ」
二人が足を運んだのは、市街地の路地裏に静かに暖簾を掲げる老舗の小料理屋『最上亭』だった。引き戸を開けると、醤油と砂糖が焦げたような甘辛い匂いと、牛肉の濃厚な香りが店内に満ちており、冷え切った二人の身体を瞬時に包み込んだ。
「いらっしゃい。おや、ずいぶん遠くから来たような顔をしているねえ」
割烹着姿の年配の女将が、温かいほうじ茶を出してくれた。
「ええ、少し南の方から。さっそくですが、山形名物の『芋煮』を二人前、お願いします。それと、ご飯も」 「あいよ。うちは内陸地方の『牛肉・醤油仕立て』だけど、いいかい?」
「はい、最高です!」
白妙がマフラーを外し、目をキラキラと輝かせて即答した。
ほどなくして、卓上のカセットコンロの上に、どっしりとした鉄鍋が運ばれてきた。ぐつぐつと煮え立つ濃い琥珀色のつゆ。その中には、ゴロリとした大ぶりの里芋、たっぷりの牛肉、味が染み込んだ平こんにゃく、そして斜め切りの長ネギがひしめき合っている。湯気と共に立ち昇る香りは、日本人であれば誰もが本能的に食欲を刺激される、甘辛く暴力的なまでの旨味の予感に満ちていた。
「いただきます!」
白妙が待ちきれない様子でお椀にたっぷりとよそい、まずはつゆをズズッとすする。
「んんんーっ! 醤油のキリッとした塩味を、砂糖と牛肉の脂の甘みがまろやかに包み込んでいます! そしてこの里芋……!」
白妙は熱々の里芋をハフハフと口に運ぶ。
「箸でスッと切れるほど柔らかいのに、煮崩れしていません。口に入れるとねっとりとした食感が広がり、中までしっかりと牛肉の旨味が染み込んで……これは、お米が無限に消えていく危険な食べ物です!」
白妙は宣言通り、芋煮と白飯を交互に猛烈な勢いで掻き込み始めた。湊も自分の椀に芋煮をよそい、一口食べる。 確かに美味い。寒さで強張っていた身体の細胞一つ一つに、熱と栄養が染み渡っていくのが分かる。里芋の土の香りと牛肉の力強さが、絶妙なバランスで鍋の中に調和していた。
「……女将さん。実は、少し聞きたいことがあって来たんです」
湊は箸を置き、カウンターの向こうで洗い物をしている女将に声をかけた。
「最近、馬見ヶ崎川や最上川の河川敷で、芋煮会をしているグループが『謎の水柱』や『泥の塊』に襲われて、鍋を台無しにされる事件が相次いでいると聞きました。何かご存知ですか?」
女将の手が、ピタリと止まった。彼女はふう、と重いため息をつき、手を布巾で拭いながら湊たちの方へ向き直った。
「……あんたら、警察かい? いや、違うね。その目……ただの観光客じゃない」
「ええ、まあ。ちょっとした『揉め事』を解決する専門家、とでも思ってください」
女将は店内の他の客がいないことを確認すると、声をひそめて語り始めた。
「……最近の若い連中や観光客は、芋煮会をただのバーベキューかどんちゃん騒ぎの場だと勘違いしてるんだよ。ゴミは川に捨てていく、直火で河川敷を焦がす、酒を飲んで大騒ぎする……。川の神様が、怒るのも無理はないさね」
「川の神様……ですか」
「ああ。昔から最上川の流域には『川蛟』という水神様が住んでいるという言い伝えがあってね。普段は川の安全を守り、豊かな水をもたらしてくれる恵みの神だ。でも、川を汚し、礼儀を知らない者には、恐ろしい鉄槌を下すと言われている」
女将は遠い目をして、ぐつぐつと煮える鉄鍋を見つめた。
「そもそも、芋煮のルーツを知ってるかい? 江戸時代、最上川は『舟運』の要衝だった。京や大坂へ紅花を運び、向こうから雛人形や古着を持ち帰る。その船頭たちが、荷待ちの間に河川敷で石を積み、里芋と、京から持ち帰った『棒鱈』を一緒に煮て食べたのが、芋煮の始まりだと言われているんだ」
「里芋と、棒鱈……。今の牛肉とは違うんですね」
と白妙が小首を傾げる。
「ああ。牛肉を使うようになったのは昭和に入ってからさ。昔の船頭たちは、厳しい寒さと川の危険と隣り合わせの中で、命を繋ぐために鍋を囲んだ。そして、鍋の最初の一杯は必ず川に流し、川蛟様に『航海の安全』を祈願したんだよ。……今はもう、舟運の船頭なんて誰もいない。川蛟様を拝む者も、供物を捧げる者もいなくなっちまった」
湊はスマホを取り出し、沖縄の事件の際に千歳が言っていた言葉を思い出した。
『人間への怨念を募らせて、完全に悪鬼に変貌しかけている古い妖の噂も入ってきているの』
「……忘れ去られ、居場所を失った神が、ただ川を汚すだけの現代人に怒り、悪鬼になりかけている……」
湊の呟きに、女将は深く頷いた。
「このままじゃ、あの水柱や泥の嫌がらせだけじゃ済まなくなる。川蛟様が完全に『荒神』になっちまえば、大雨を降らせ、川を氾濫させ、街を飲み込む大水害が起きるかもしれない……」
湊は決意を固め、女将の目を見据えた。
「女将さん。俺に、その『昔の芋煮』を作ってくれませんか。里芋と、棒鱈を使った、船頭たちが食べていた芋煮を」
「作れなくはないが……どうする気だい?」
「神様の怒りを鎮めるには、昔の『記憶』を思い出してもらうしかないんです」
その日の深夜。馬見ヶ崎川の河川敷は、不気味なほどの静寂に包まれていた。月は分厚い雲に隠れ、冷たい風が川面を撫で、ヒュルヒュルと泣くような音を立てている。
湊と白妙は、河川敷の中央に陣取り、カセットコンロの上に小さな鉄鍋を置いていた。鍋の中では、女将が特別に作ってくれた『船頭の芋煮』が静かに湯気を立てている。現代の牛肉の代わりに、干物を戻した『棒鱈』が使われ、きのこや里芋と共に、素朴だが非常に奥深い魚介の出汁の香りを放っていた。
「……湊。来ます。尋常じゃない気配です。これは……沖縄の海坊主とは違う。完全に『殺意』と『憎悪』に染まっています……!」
白妙が臨戦態勢をとり、その十本の指先に青白い『狐火』を灯した。彼女の普段ののんびりとした瞳が、鋭い妖狐のそれに変わる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如、川の水面が大きく隆起した。 大量の泥とヘドロを巻き込みながら、水柱が竜巻のように天へと立ち昇る。 その濁流の中から姿を現したのは、全長十メートルを超える巨大な水竜――いや、泥と汚水で全身を覆われた醜悪な怪物『川蛟』だった。
かつては清らかな水神だったであろうその姿は、人間の捨てたゴミや泥にまみれ、二つの瞳は血のように赤く濁りきっている。
『ギョオォォォォォォォォッ!!』
鼓膜を破らんばかりの咆哮とともに、川蛟の周囲の水が数十本の鋭い『水の槍』へと変わり、湊たちへ向かって一斉に射出された。
「させませんっ!」
白妙が前に飛び出し、両手から狐火を放つ。青白い炎の壁が水の槍を相殺し、大量の水蒸気がジュワァァッと立ち込めた。
「湊! この妖、完全に理性を失っています! 話し合いが通じる状態ではありません!」
「分かってる! だが、ここで倒してしまえば、川の守り神が消えることになる。俺が『記憶』を読み取って、こいつの意識に直接語りかける!」
湊は飛沫を浴びながら、コンロの上の鉄鍋から、お椀に『船頭の芋煮』をよそった。
『汚スナ……ワガ川ヲ……汚スナァァァッ!!』
川蛟が巨大な尾を振り上げ、河川敷の石を砕きながら湊へと襲いかかる。白妙が狐火を纏った蹴りで尾の軌道をわずかに逸らし、轟音とともに湊のすぐ隣の地面が抉り取られた。
「湊、早く!」
「ああ!」
湊は、熱々の棒鱈と里芋を箸で掴み、一気に口へ放り込んだ。 そして、目を閉じ、能力を発動する。
『記憶の味』。
瞬間、湊の意識は深い泥の底から、澄み切った清流へと引き上げられていった。
視界に広がったのは、江戸時代の最上川。 雪が舞い散る厳しい寒さの中、何隻もの木造の川舟が岸に係留されている。 粗末な蓑を被った船頭たちが、川原で身を寄せ合い、焚き火を起こして大きな鍋を煮込んでいた。
『おーい、京から持ってきた棒鱈、ええ出汁が出とるぞ』
『里芋もホクホクだ。これで今夜も凍えずに済む』
厳しい労働と、いつ命を落とすか分からない川の激流。彼らの顔には深いシワが刻まれ、手はあかぎれでひび割れている。だが、鍋を囲むその表情は、誰もが朗らかで、温かな笑顔に満ちていた。
船頭の長らしき老人が、木の器に芋煮をよそい、静かに川岸へと歩み寄る。
『川蛟様。今日も無事に舟を進めることができました。どうか、この先も我らをお守りくだされ』
老人が芋煮を川へ流す。すると、澄んだ川の底から、透き通るような美しい水色の鱗を持った水竜が静かに顔を出し、供物の芋煮を美味しそうに飲み込んだ。竜は船頭たちへ向かって穏やかに目を細め、再び水底へと帰っていく。
人間は川を畏れ、敬い、鍋を分け合った。 ――神は人間を慈しみ、その命の営みを見守った。
そこには、互いを必要とし合う、確かな『絆』があったのだ。
「……思い出したか、あんたの本当の役目を」
湊は目を見開き、意識の共有を通じて、暴れ狂う川蛟の精神の中枢へと語りかけた。
『……!!』
川蛟の動きが、空中でピタリと止まる。赤く濁っていた瞳に、一瞬だけ、かつての清らかな水色の光が蘇った。
「時代は変わった。船頭たちはいなくなり、あんたに祈りを捧げる者もいなくなった。川は汚れ、あんたは孤独と怒りの中で、自分が何のためにこの川にいるのか、分からなくなっていたんだな」
湊は鍋ごと持ち上げ、川蛟の目の前へと掲げた。
「だが、味は残っている。あの船頭たちが、あんたの安全を祈って流した『芋煮』の味は、こうして今の人間にも受け継がれてるんだ。あんたは、独りじゃない」
『……アァ……』
川蛟の口から、悲鳴のような、しかしどこか安堵したような声が漏れた。全身を覆っていたヘドロや泥が、ポロポロと剥がれ落ちていく。 白妙が静かに狐火を収め、その光景を見守った。
『……人間ヨ……ワタシハ……』
「昔の芋煮は、思い出したな。じゃあ、これも食ってみてくれ。……今の人間が愛している、新しい時代の芋煮だ」
湊は、女将にもう一つ作ってもらっていたタッパーを取り出した。それは、昼間に食べた『牛肉と醤油ベースの芋煮』だった。それを川面へと放り投げる。
泥が剥がれ落ち、本来の美しい水色の鱗を取り戻した川蛟は、長い首を伸ばして、その新しい芋煮をパクリと飲み込んだ。
……数秒の静寂。
やがて、川蛟の眼が、カッと見開かれた。
『……美味イ……! ナンダコレハ……! 棒鱈トハ違ウ、コノ力強イ脂ノ旨味……! 醤油ノ甘味……! 今ノ人間ハ、コンナニ美味イモノヲ食ッテイルノカ!?』
川蛟の放つテレパシーが、湊と白妙の脳内に直接響き渡る。先ほどまでの怨念など微塵も感じられない、純粋な驚きと喜びに満ちた声だった。
「ふふん! そうでしょう、そうでしょう! 現代の食文化の進化を舐めてもらっては困ります!」
白妙がなぜか自分のことのように胸を張り、ドヤ顔で言い放つ。
「時代が変わっても、河川敷で鍋を囲んで、みんなで美味い美味いって笑い合う人間の姿は、江戸時代から何も変わってないんだよ」
湊が静かに微笑むと、川蛟は大きく頷くように、長い首を縦に振った。
『……忘レテイタ。私ハ、怒リニ呑マレテ……アノ笑顔ヲ守ルノガ、私ノ役目ダッタコトヲ。……人間ヨ。味ヲ思イ出サセテクレテ、礼ヲ言ウ。モウ、川ヲ荒ラスコトハシナイ』
川蛟は天に向かって高く嘶くと、月明かりを浴びてキラキラと輝く水飛沫を上げながら、深い川の底へとゆっくりと沈んでいった。 荒れ狂っていた川面は、嘘のように穏やかなせせらぎを取り戻し、冷たい秋の風だけが通り抜けていく。
「……終わったな」
湊が安堵の息を吐きながら鍋を片付けていると、白妙が猛ダッシュで近づいてきた。
「湊! 私、戦ってお腹がペコペコです! 残っている昔の芋煮と、新しい芋煮の合いがけを要求します!」
「お前、さっきから食ってばっかりじゃないか……まあ、いいか。今回はよくやったしな」 「やったー!」
冷え込む深夜の河川敷で、人間と狐の妖が、一つの鍋をつついている。 川底からは、その様子を優しく見守るような、微かな水の波動が感じられた。
翌日。山形市郊外の、蔵王温泉。 強酸性の硫黄泉でしっかりと体を温めた湊は、浴衣姿で宿の縁側に腰を下ろしていた。 目の前には、白く染まった山々と、赤や黄色に色づく紅葉のコントラストが広がっている。
「……ふう、生き返るな」
温泉上がりのサイダーを飲んでいると、部屋の中から白妙がバタバタと駆け寄ってきた。手には、宿の売店で買ってきたと思われる『玉こんにゃく』の串が何本も握られている。
「湊! 報告書の送信終わりました! 千歳さんも『悪鬼化を食い止めた上に、現代の味まで布教するなんて、相変わらず規格外ね』と呆れ半分、褒め半分でしたよ!」
白妙は玉こんにゃくをモキュモキュと頬張りながら、湊の隣に座った。
「そうか。……にしても、悪鬼化しかけた妖か。やっぱり、人間の忘却が妖たちの生存環境を急激に悪化させているのは間違いない」
「そうですね。でも、湊がいれば大丈夫です! 私たちが全国を回って、美味しいものを食べて、記憶を呼び覚ませばいいんですから!」
白妙の屈託のない笑顔に、湊は自然と頬を緩めた。どんなに重い使命であっても、この食いしん坊の相棒がいれば、悲壮感とは無縁でいられる。
「さて、次はどこへ行こうか」
「はい! 今から私が日本地図を広げて、ご当地グルメの偏差値が最も高い県を割り出しますので、少々お待ちください!」
秋の深まる東北の空の下。
人と妖の記憶を繋ぐ、終わりのない『喫茶旅』は、今日も温かな食事の香りと共に続いていく。




