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『まほろば巡礼録 ―妖と人の喫茶旅―』  作者: 花曇り


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『第四話 沖縄・海坊主とソーキそば』

 南国の風は、初冬の十一月であってもなお、ぬるりと湿った潮の香りを孕んでいた。 青く澄み渡る空の下、ガジュマルの大きな葉が風にそよぎ、赤瓦の屋根の上に鎮座するシーサーが、抜けるような青空を見上げている。

「……湊。北海道の氷点下から飛行機でわずか数時間、ここは完全に別の惑星です。白妙の狐毛皮が『南国の温湿度調整モード』に対応しきれず、熱中症になりそうです。至急、冷却用の水分と糖分の補給を要求します」

 首にかけたタオルで汗を拭いながら、白妙がひらひらとセーラー服の襟元を煽った。 先ほど那覇空港に到着したばかりの二人は、色鮮やかなハイビスカスが咲き誇る一般道の歩道を歩いていた。

「急激な気候の変化には参るが、お前はただ冷たいものが食べたいだけだろ。……まあ、ちょうど目当ての店に着いたがな」

 湊が足を止めたのは、糸満の漁港にほど近い、路地裏にぽつりと佇む古い食堂だった。トタン屋根の軒先には『浜の家食堂』と掠れた文字で書かれた暖簾が揺れている。

店内に入ると、大きな扇風機がブーンと首を振っており、鰹節と豚骨を長時間煮込んだ香ばしく甘やかな出汁の匂いが、鼻腔をくすぐった。

「いらっしゃい!」

 日焼けした笑顔が眩しい店主のおばあが、氷の浮かぶお茶を運んでくる。 注文したのは、もちろんこの土地のソウルフード――『ソーキそば』だ。

 運ばれてきたどんぶりには、黄金色に透き通ったスープ、平打ちの太麺、そしてどんぶりを覆い隠さんばかりの大きな「本ソーキ」と「軟骨ソーキ」がゴロッと乗っている。かまぼこのピンク色と、小ネギの緑が目にも鮮やかだ。

「いただきます!」

 白妙がさっそくレンゲでスープをすくい、口へ運ぶ。

「んんん……っ! カツオ出汁のあっさりとした旨味の後に、豚骨の深いコクが追いかけてきます! そしてこのソーキ……軟骨までプルプルに煮込まれていて、お口の中でとろけますー!」

 卓上の「コーレーグース(島とうがらしを泡盛に漬けた調味料)」を数滴垂らすと、ピリッとした辛みと芳醇な酒の香りが加わり、スープの味がキュッと引き締まる。

 湊も麺をすする。力強い歯ごたえの麺にスープが良く絡み、暑さで少し重くなっていた身体に、すうっと精気が満ちていくのが分かった。

「で、千歳さんからの依頼はなんだって?」

 白妙がソーキの骨を器用に外しながら尋ねた。

 湊はスマホの画面を表示する。

『糸満の漁港で、ここ一週間ほど出港しようとする漁船が「巨大な海の影」に阻まれて沖に出られない事態が相次いでいるの。怪我人や船の破損事故は起きていないけれど、漁師たちが「化け物の仕業だ」「ダイナマイトで吹き飛ばしてやる」と騒ぎ立てて、一触即発の状態よ。現地で穏便に解決してちょうだい』

「巨大な海の影……海坊主、か」

 湊はどんぶりのスープを見つめた。 かつて海とともに生きてきた人々が、畏怖し、同時に敬ってきた海の妖。それがなぜ今、漁師たちの船を止めているのか。

 食堂を出て、徒歩数分。潮の匂いが一段と濃くなる糸満漁港へと向かうと、そこには異様な熱気が充満していた。

「今日も出られねぇだと!? ふざけるな! 今日の競りに間に合わなかったら、どれだけの損害になると思ってんだ!」

「あの真っ黒い影だ! 船の底を抱え込むみたいに持ち上げて、びくとも動かなくしやがる!」

「やっぱり爆竹かダイナマイトを海に投げ込むしかない! 妖怪だかなんだか知らんが、俺たちの邪魔をするなら容赦しねぇぞ!」

 日焼けした若い漁師たちが、堤防の上で怒号を飛び交わせている。彼らの足元には、最新のソナー機器や、大量の漁獲を目的とした大型の網が積み上げられていた。

 その喧騒から少し離れた日陰で、一本の古びた煙管をくわえ、静かに海を見つめている老人がいた。白いヒゲを蓄え、深く刻まれたシワを持つ老漁師――『安次嶺のおじい』だった。

 湊がおじいに歩み寄り、静かに声をかける。

「おじい、あの影のこと……何か知ってるんですか?」

 おじいは煙管からふうっと白い煙を吐き出し、ゆっくりと湊たちを振り返った。その眼光は、若い漁師たちとは異なり、どこか海の深淵を見通すような静けさを湛えている。

「……あんたら、本土から来たね。……あの影はな、『海坊主』さあ。海の神様の使いだ」

「海坊主……やっぱり。でも、どうして船を沈めるわけでもなく、止めているだけなんですか?」

 おじいは寂しそうに目を細め、海面に漂うプラスチックごみや、沖合を行き交うエンジン音のけたたましい船を見つめた。

「怒っとるわけじゃない。哀しんどるのさあ。……昔の糸満の漁師はな、出港する前には必ず『ウガン』をしたもんだ。海に塩と泡盛を撒き、ウチカビを焚いて、海神様と海坊主へ感謝を捧げた。『今日もお命を少し分けていただきます』とな」

 おじいは力強く地面を叩いた。

「だが、今の若い奴らはどうだ? ソナーで魚を根こそぎ獲り尽くし、海への感謝も一礼も忘れ、ただ『金儲けの現場』としか思っとらん。海坊主はな、船を沈めたいんじゃない。『感謝の心を忘れた船は、海へ出る資格がない』と、通せんぼをしとるのさあ」

「感謝の欠如……それが、事件の原因か」

 現代化と効率化の波の中で、人間が海に対する「敬意」と「記憶」を失ってしまった。その結果、海を守る存在だった海坊主が、人間にとっての「邪魔な怪異」として扱われ始めている。

「……おじい。昔の『ウガン』を、俺たちに教えてくれませんか」

 湊の言葉に、おじいは驚いたように目を丸くした。

 夜二十時。月明かりが漆黒の海面に一筋の銀色の道を創り出していた。港の灯りは消え、波が堤防を洗う「ザザーン、ザザーン」という重厚な音だけが響いている。

 湊、白妙、そして安次嶺のおじいの三人は、港の端にある小さな木造船の甲板に立っていた。

「……湊。来ます。海の底から、とてつもなく巨大な気配が……」

 白妙がセーラー服の袖を握りしめ、身構えた。

 ズズズズ……ッ!

 突如、静かだった海面が大きく盛り上がり、船のすぐ目と鼻の先で潮が噴き出した。 月光を背にして現れたのは、船をも飲み込むほどの巨大な丸い頭部。全身が濡れた漆黒の液体でできているかのように怪しく光り、その中央には、爛々と黄金色に輝く二つの大きな目が開いている。

 海坊主。

 ゴーッ……と、風が吹き荒れ、海の深層から響くような重低音の声が、湊たちの鼓膜を震わせた。

『……去れ……。海を敬わぬ者どもに……この海を渡る資格はない……』

 その声には、怒り以上に、何百年も人間を見守ってきた者の「落胆」と「孤独」が滲み出ていた。

「待ってくれ!」

 湊は船の先端へ進み出ると、足元に用意した大きな平皿を掲げた。

 皿の上に置かれているのは、先ほど『浜の家食堂』のおばあとおじいに協力してもらい、出来立ての温かいスープとソーキを盛り付けた特製の『ソーキそば』。そして、洗米と、粗塩、そして泡盛を入れた小さな竹筒だった。

 ふわりと、夜の潮風に乗って、鰹節の香ばしい出汁と、煮込まれた豚肉の濃厚な甘い香りが海面へと広がっていく。

『……これは……?』

 海坊主の大きな黄金の目が、不審そうに皿を見下ろした。

「俺に、一口食わせてくれ」

 湊は箸を取り、ソーキそばの軟骨ソーキを一口かじり、スープをすすった。

 『記憶の味』。

 じわ、と意識が海の奥深くへと引き込まれていく。

 視界に広がるのは、五十年以上前の糸満の海。 小さな木造のサバニに乗った漁師たちが、嵐の前の静けさの中で、海に向かって手を合わせている。

『海神様、海坊主様。今日も豊かな恵みをありがとうございます。無事に家族のもとへ帰れますように』

 漁師たちは、自分たちの弁当であるソーキそばから肉の一切れを切り分け、泡盛と共に海へそっと注ぐ。海面下から、それを優しく見守る大きな影。 漁師が魚を獲りすぎないよう見張り、海に感謝する者には大漁の兆しを教え、嵐が来れば波を抑えて港へ送り返す。

 人間と海坊主の間には、言葉はなくとも、確かな「感謝と敬意の絆」が存在していた。

 ビジョンが弾ける。

 湊は目を開け、海坊主の巨大な瞳をまっすぐに見つめた。

「……あんたは、祟りたいわけじゃないんだな。昔みたいに、人間が海に感謝して、共に出航していたあの頃の『絆』を……忘れられたくないだけなんだろ」

 海坊主の光る目が、かすかに揺れた。

「おじい!お願いします!」

 湊が叫ぶと、おじいが甲板の先頭に立ち、ウチカビに火をつけた。ゆらゆらと立ち昇る煙と共に、おじいは朗々とした声で、古い沖縄の言葉で海へ祈りを捧げ始めた。

「ニニフチ、海神様、海坊主様。海からの恵みで、我ら人間は命を繋いでまいりました。愚かな者どもが感謝を忘れ、ご無礼を働いたことをお許しくだされ……!」

 おじいは竹筒の泡盛を海に注ぎ、粗塩を撒いた。すると、港の堤防のあちこちから、ぽつり、ぽつりと人影が現れた。

 昼間、爆破だ何だと騒いでいた若い漁師たちだった。彼らは、おじいの祈る姿と、海の真ん中にそびえ立つ神々しくも悲しげな海坊主の姿を見て、言葉を失っていた。

「……俺たち、海をただの仕事場だと……魚を獲るだけの場所だと思ってた……」

 一人の若い漁師が、頭を垂れた。

「じいちゃんたちがいつも言ってた『海拝み』を……ダサい迷信だって切り捨ててた……」

 若い漁師たちが一人、また一人と、堤防の上に膝をつき、海に向かって静かに手を合わせ始めた。

「海坊主様……すみませんでした! これからは、出港する前に必ず海に一礼します! だから……また俺たちを、海へ出させてください!」

 若者たちの真摯な声が、夜の港に響き渡る。

 海坊主は、じっと彼らを見つめていた。やがて、湊が捧げたソーキそばから漂う出汁の湯気が、ふわりと海坊主の影の中に吸い込まれていった。

 ゴォォォォ……

 海坊主の口元が、わずかに緩んだように見えた。

『……よい味だ。カツオの出汁が、昔よりもずっと深くなっている……』

 重低音の声に、先ほどまでの刺々しさは微塵もなかった。そこにあるのは、豊かな海そのもののような、温かく深い包容力だった。

『……感謝の心を忘れるな。海は与えもするが、奪いもする。海を敬う者のみを……私は守ろう』

 ザバーン……!

 大きな水柱を立てて、海坊主の巨大な影が海の底へと帰っていく。後に残された海面は、まるで鏡のように平穏を取り戻し、月光を美しく反射していた。

「……通れる! 船が動くぞ!」

 若い漁師たちが歓声を上げ、おじいに駆け寄って抱き合った。

 白妙が安堵の息を漏らし、湊の隣でふにゃりとへたり込んだ。

「ふう……一時はどうなることかと思いましたが、海坊主様も美味しいソーキそばには抗えなかったようですね」

「食い物の力というより、人間の『感謝の記憶』が戻ったからさ」

 湊は静かに海を見つめた。妖怪を倒すのではない。忘れられかけた大切な『心』を思い出すこと。それこそが、この旅の本当の意味なのだと、改めて実感していた。

 事件が解決したその夜、糸満の港では急遽、大がかりな『海辺の宴』が開催された。

 浜辺には炭火が起こされ、獲れたての新鮮な魚介類やアグー豚が焼かれ、大きな鍋ではおばあたちが作った特製ソーキそばが湯気を立てている。三線の涼やかな音が響き渡り、地元の若者も老人も、そしてどこからともなく集まってきたキジムナーやウミウシの妖たちも交ざり合って、みんなで酒を汲み交わし、踊り明かしていた。

「さあさあ、内地のお兄さんもお姉さんも! カチャーシー踊るよー!」

 おばあに手を取られ、湊も無理やり輪の中に引きずり込まれた。

「湊ー!白妙はソーキの三回目のおかわりを確保しました!沖縄の海は最高ですねー!」

 白妙は両手にソーキの骨を持ちながら、三線のリズムに合わせてノリノリで踊っている。妖と人間が境界を越えて笑顔を交わすその光景は、まさにこの国が目指した『共生』の理想の姿そのものだった。

 翌日の夕刻。 那覇の国際通りから一本入った古い路地裏。 赤瓦の屋根とシーサーが印象的な、小さな喫茶店『カフェ・ブーゲンビリア』。

 湊と白妙は、店内を通り抜ける南国の風を感じながら、名物の『ぶくぶく茶』と、氷の上にたっぷりあずきと練乳が乗った『沖縄ぜんざい』を楽しんでいた。

 スマホから、千歳の呆れたような声が流れる。

『報告書読んだわよ、朝倉さん。海坊主と漁師たちが一緒にソーキそばを食べて宴会したんですって? 管理局の歴史上、そんなほのぼのした解決法は前例がないわ』

「形はどうあれ、平和に解決したんだからいいだろ。漁師たちもこれからは毎日出港前に『ウガン』をするって言ってるよ」

『ええ、本当にありがとう。……でも、朝倉さん』

 千歳のトーンが、少しだけ真面目なものに変わった。

『全国で起きている「伝承の改変」……その背景にある「人間の忘却」。今回のように温かい解決ばかりなら良いけれど、中には人間への怨念を募らせて、完全に悪鬼に変貌しかけている古い妖の噂も入ってきているの。……次は、山形の方へ向かってほしいわ』

「山形か。……分かった。準備ができたら向かうよ」

 通話を切り、湊は冷たいぜんざいを一口口に含んだ。あずきの優しい甘さと、かき氷の冷たさが疲れた体に染み渡る。

「湊、山形と言えば『芋煮』ですね! 醤油ベースの牛肉芋煮か、味噌ベースの豚肉芋煮か……今から悩んで夜も眠れません!」

 白妙がぜんざいの団子を頬張りながら、目を輝かせている。

「お前はどこに行っても胃袋のことばかりだな」

「当然です! 土地の記憶は料理に宿る! 料理を食べることは、その土地を愛することと同義なのです!」

 白妙が胸を張ると、頭頂部の毛束が誇らしげにピンと立った。

 湊は苦笑し、店の窓から見える夕焼け空を見上げた。橙色と紫色の美しいグラデーションに染まる南国の空。

 人は忘れ、街は変わり、時代は進んでいく。 けれど、誰かがその味を、その記憶を覚えている限り、妖たちもまた、人間と共にこの時代を生きていけるのだ。

「……また来ような」

 湊が呟くと、白妙はぜんざいのシロップを綺麗に舐めとり、ニシシと八重歯を見せて笑った。

「はい! 今度は、観光です!」

 波の音と三線の余韻を背に受けて、彼らの「記憶を取り戻す喫茶旅」は、北の果て、山形へと続いていくのだった。

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