『北海道・雪女の喫茶店』
北の空から、白い花びらのような雪が静かに舞い落ちていた。 石造りの古い倉庫群が立ち並ぶ運河沿いを、ガス燈の柔らかなオレンジ色の光が照らし出している。北海道・小樽。かつて北のウォール街と呼ばれ、海運で栄えたこの港町は、本格的な冬の到来を迎え、深い雪の底に沈み込もうとしていた。
「……湊。狐の毛皮は寒冷地仕様で非常に優れているのですが、いかんせん、白妙が普段身にまとっているのは現代日本の女子高生の象徴たるセーラー服です。防寒性能が圧倒的に足りません。そろそろ凍死して、後世に『小樽運河の氷漬け狐』として展示されてしまいます」
マフラーをぐるぐると巻き、耳あてまで装備した白妙が、湊のコートの裾を引っ張りながらガチガチと歯を鳴らした。 湊は手袋をした手で吐く息の白さを確認しながら、苦笑した。
「だからダウンジャケットを着ろって言ったのに、『狐のプライドと美学が許しません』って拒否したのはお前だろ。……まあいい、ちょうど調査の前に腹ごしらえをしたかったところだ」
「腹ごしらえ! その言葉を待っていました!」
げんきんなもので、白妙の頭頂部の毛束がピンと跳ね上がる。 二人が駆け込むように入ったのは、運河から一本路地を入った場所にある、地元民に愛されていそうな古びたラーメン店だった。
引き戸を開けると、強烈な豚骨と味噌の香ばしい匂いが、熱気と共に全身を包み込む。カウンター席に座り、湊が『特製味噌ラーメン』を、白妙が『バターコーン味噌ラーメン大盛り・チャーシュー追加』を注文した。
運ばれてきたどんぶりからは、もうもうと白い湯気が立ち昇っている。ラードの膜で蓋をされた熱々のスープを一口すすると、濃厚な味噌のコクとニンニクのパンチが、冷え切った内臓からじわじわと体温を蘇らせてくれた。中太の縮れ麺にスープがよく絡み、シャキシャキのモヤシの食感がたまらない。
「はふっ、ふーっ、ずずっ……! ん〜〜〜! 染み渡ります! これぞ北の大地の恵み! 寒さという最高のスパイスがあってこそ、この熱量が生み出されるのですね!」
白妙が目を輝かせ、無心で麺をすする。どんぶりの上に浮かんだ分厚いバターがじんわりと溶け出し、スープに黄金色のコクを加えていた。
「で、食後のデザートは?」
「当然、北海道特濃ミルクソフトクリームです!」
「お前の胃袋の温度調節機能はどうなってるんだ」
呆れつつも、湊は体の芯まで温まる感覚に息をついた。 今回の旅の目的は、千歳からの依頼だった。
『伝承の改変ってわけじゃないんだけど、小樽の近辺で奇妙な神隠しが頻発しているの。吹雪の夜に家を出た人間が、数日後にひょっこり戻ってくる。怪我はないんだけど、みんな一様に「夢のように幸せな喫茶店にいた」って証言するのよ。……妖の結界の可能性があるわ。調べてきてちょうだい』
神隠しに遭った人間たちは皆、過去の記憶に深く沈み込んだような虚ろな目をしているという。物理的な危害はないが、社会生活に支障をきたすため、放置するわけにはいかなかった。
「幸せな喫茶店、か……」
湊がどんぶりのスープを飲み干した頃、店の親父さんがカウンター越しに話しかけてきた。
「兄ちゃんたち、観光かい? こんな吹雪の日に出歩くもんじゃないよ。最近、この辺りじゃ『雪の夜にだけ開く店』の噂で持ちきりなんだから」
「……雪の夜にだけ開く店、ですか」
「ああ。路地裏に迷い込むと、ポツンと明かりの灯った古い喫茶店があるんだと。中に入っちまうと、自分の人生で『一番幸せだった時間』の夢を見せられて、二度と出てこられなくなる……ってな。まあ、現代版の雪女の怪談みたいなもんだ」
湊と白妙は顔を見合わせた。どうやら、噂の震源地は近い。
ラーメン店を出ると、雪はさらに激しさを増していた。風が唸りを上げ、数メートル先の視界も白い闇に覆われている。
「湊、なんだか変です。この雪、ただの自然現象じゃありません。強い妖気が混ざっています。それも、ひどく悲しくて、冷たい妖気……」
白妙が目を細め、狐の嗅覚で風を読んだ。
「あっちです。路地裏の、もっと奥……」
吹き溜まりを越え、入り組んだ古い商店街の裏手を進む。すると、白一色の視界の先に、ぽつりと暖色の明かりが浮かび上がった。 アンティーク調の木製のドア。窓からは、柔らかなランプの光が漏れている。軒先にぶら下がった木製の小さな看板には、雪に埋もれかけるように『喫茶 冬花』と彫られていた。
「こんな場所に喫茶店なんて……どう見ても怪異の結界ですね」
「ああ。気を引き締めろよ」
湊は手袋を外し、真鍮のドアノブを回した。 カラン、と澄んだベルの音が鳴り響く。
店内は、外の猛吹雪が嘘のように静かで、じんわりと暖かかった。 中央に置かれたレトロなダルマストーブが赤い火を燃やし、パチパチと薪の爆ぜる音がしている。蓄音機からは、ゆったりとした古いジャズが流れていた。 壁にはセピア色の写真がいくつか飾られ、使い込まれた飴色のカウンターが奥へと伸びている。
席には、三人の客がいた。しかし、異常だった。サラリーマン風の男、老婦人、そして若い女性。彼らは皆、テーブルの上のカップを見つめたまま、微動だにしない。その顔には、まるで甘い夢を見ているような、恍惚とした満面の笑みが張り付いていた。
「……いらっしゃいませ」
鈴を転がすような、冷たくも美しい声が響いた。カウンターの奥から現れたのは、透き通るように白い肌と、腰まで届く銀色の長い髪を持つ女性だった。純白のエプロンドレスを身に纏い、その瞳は氷河のように深い青色をしている。 一目見て分かる。人ではない。――雪女だ。
「雪の夜に、よくお越しくださいました。どうぞ、お好きな席へ」
雪女は静かに微笑み、窓際の席を指し示した。
湊と白妙は警戒を解かぬまま席につく。 テーブルの上には、手書きの小さなメニュー表が置かれていた。
『ホットミルク』 『シナモントースト』 『雪見あんみつ』 『ココア』
メニューはたった四つだけだった。珈琲も紅茶もない。
「ご注文は、お決まりですか?」
雪女が静かに尋ねる。
「……じゃあ、俺はホットミルクを」
「わ、白妙はシナモントーストとココアをお願いします!」
白妙が元気よく注文すると、雪女は「かしこまりました」と優しく微笑み、カウンターの奥で手際よく準備を始めた。
「おい白妙、結界の中で出されたものを呑気に食べる気か?」
湊が小声で窘めると、白妙は真剣な顔で小声で返した。
「メニューに食べ物があるのに頼まないのは、飲食店に対する最大の侮辱です! それに、相手の手札を見るには、まず受けて立つのが妖の礼儀というものです!」
「食欲を正当化してるだけだろ……」
しばらくして、甘くスパイシーな香りが店内を漂い始めた。雪女がトレイに乗せて運んできたのは、分厚い食パンにたっぷりのバターとシナモンシュガーを乗せてこんがりと焼き上げたシナモントースト。そして、湯気を立てるホットミルクとココアだった。
「どうぞ、冷めないうちに」
白妙は目を輝かせ、シナモントーストを両手で持ち上げて大きな口でかじりついた。
「サクッ……じゅわぁ……っ! ん〜〜〜! バターの塩気とシナモンの甘い香りが、分厚いパン生地の奥まで染み込んでいて……最高、です……」
白妙の表情が、ぱぁぁっと明るく輝いた。しかし、次の瞬間。白妙の狐の耳がだらりと下がり、その大きな瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ……お母様……お父様……。白妙、ずっと、この山で一緒に……。お揚げ、美味しいです……あったかい……ずっと、ここに、います……」
白妙の焦点がぼやけ、虚空に向かって手を伸ばし始めた。周囲の客たちと同じように、自分の人生の中で最も幸せだった過去の幻影に囚われてしまったのだ。
「白妙!」
湊は身を乗り出したが、雪女が静かにそれを制した。
「ご安心ください。彼女は今、何よりも幸福な時間の中にいます。誰にも傷つけられず、失う恐怖もない、永遠の安らぎの中に」
「あんたが、この客たちを過去に閉じ込めているのか」
「私はただ、彼らが望むものを提供しているだけです。外の世界は寒く、残酷で、大切なものはいつか必ず指の間からこぼれ落ちてしまう。ならば、一番幸せだった瞬間の記憶の中で、永遠に眠り続ける方が、ずっと幸せではありませんか?」
雪女の深い青の瞳には、氷のような哀しみが湛えられていた。湊はテーブルの上のホットミルクを見つめた。 湯気を立てる純白の液体。
湊は、そのマグカップを両手で包み込み、ゆっくりと口へ運んだ。 優しい牛乳の甘みが、冷えた喉を通っていく。
『記憶の味』。
視界が白く染まり、別の時間が流れ込んできた。しかし、そこに映し出されたのは、湊自身の過去の記憶ではなかった。料理を作った雪女自身の、料理に込められた強烈な『記憶』だった。
『――いらっしゃい。外は寒かっただろう』
暖かなバリトンの声。ビジョンの中の喫茶店は、今の幻影の店と全く同じ造りだった。しかし、カウンターの中に立っているのは雪女ではなく、エプロンをつけた白髪交じりの初老の人間――マスターだった。
マスターの隣には、今の雪女が立っている。人間の姿に偽装しているのか、黒髪で、穏やかな笑顔を浮かべて、甲斐甲斐しくマスターを手伝っている。 二人の間には、穏やかで、深い愛情が流れていた。 吹雪の夜、店に駆け込んでくる客たちに、マスターは温かい珈琲やシナモントーストを振る舞う。
『マスターのシナモントーストは、いつ食っても元気が出るよ』
『ははっ。明日の仕事も頑張れよ』
しかし、人間の時間は残酷だ。ビジョンの季節が何度か巡るうち、マスターは病に倒れ、ベッドの上にいた。 雪女は本来の銀髪と白い肌に戻り、ベッドの傍らでポロポロと氷の涙を流している。
『泣かないでくれ、雪花。……俺は、お前と出会えて、一緒にあの店に立てて、本当に幸せだった』
『いや……いかないで。私を置いていかないで……!』
『お前は、ずっと笑っていてくれ。俺がいなくなっても……外の世界がどんなに寒くても……前を向いて歩いてくれ』
マスターの温かい手が、雪女の頬を撫で、やがて力なく落ちた。
――ビジョンが、吹き飛んだ。
湊が目を開けると、雪女が悲しそうに湊を見つめていた。
「人間の時間は短すぎます。彼がいなくなったこの世界は、私にとっては寒すぎる。だから、私はこの店と、彼と過ごした一番幸せだった時間を、氷で凍らせたのです。彼との思い出を、絶対に失わないように。……あなたも、思い出の中に沈みなさい。外の寒さを忘れさせてあげます」
店内の空気が急激に冷え込み、壁や窓ガラスに霜が張り始めた。白妙はまだ、虚空を見つめて涙を流しながら笑っている。
湊は、マグカップをコトリとテーブルに置いた。
「……あんたのホットミルクは、優しくて、本当に美味しい」
湊はゆっくりと立ち上がり、雪女の目を見た。
「だけど、何か一つ足りない。あんたが過去に囚われているせいで、一番大切な『味』が欠落している」
「……欠落している? 私の思い出が、不完全だとでも言うのですか」
雪女の眼差しが鋭くなり、店内の冷気が一段と増した。
「ああ。思い出の中だけで生きることは、彼が望んだことじゃない」
湊はコートのポケットから、黒い布で包まれた小さなポーチを取り出した。中に入っていたのは、旅行用のコンパクトな手挽きミルと、折りたたみ式のドリッパー、そして小さなタッパーに入った珈琲豆だった。祖母の代から『喫茶まほろば』で使っている、特製のブレンド豆。
湊はカウンターへ歩み寄り、ストーブの上のヤカンからお湯を拝借した。 ガリガリと豆を挽く音が、静かな店内に響く。香ばしく、深い苦味を予感させる珈琲の香りが、凍りついた空気をゆっくりと溶かしていく。
「あんたの夫は、過去に閉じこもるためにこの喫茶店を開いていたんじゃない」
湊はペーパーフィルターに粉を入れ、慎重に湯を落とし始めた。プクプクと粉が膨らみ、濃厚な琥珀色の液体がサーバーに滴り落ちる。
「雪の夜に、吹雪に震えながら駆け込んでくる客たち。あんたの夫は、そんな客たちを温かいシナモントーストと珈琲で出迎えた。……なぜだか分かるか? それは、客をこの店に留めるためじゃない。体を温め、一息つかせたら……また明日の朝、冷たい外の世界へ『送り出す』ためだ」
湊は淹れ立ての珈琲をカップに注ぎ、雪女の前にスッと差し出した。
「喫茶店は、人生の終点じゃない。雨宿りや雪宿りをして、また歩き出すための『中継地点』だ。……あんたの夫が最後に言ったはずだ。『前を向いて歩いてくれ』と」
雪女は、目の前に差し出された珈琲の湯気を見つめ、ハッとしたように目を見開いた。 黒く澄んだ液体から立ち昇る香ばしい匂い。それは、彼女が何十年も前に、愛する夫と共に毎日嗅いでいた、彼そのものの香りだった。
「思い出は、凍らせて保存するものじゃない。自分の中で温め続けて、これからの寒い世界を歩いていくための『燃料』にするものだ」
雪女の震える手が、珈琲カップを包み込んだ。 一口、口に含む。 深い苦味の奥にある、確かな甘みと温もり。 彼女の脳裏に、かつて夫が常連客の背中をポンと叩き、「また明日な!」と笑顔で見送っていた光景が鮮明に蘇った。
「ああ……」
雪女の目から、本物の涙が溢れ出した。氷の涙ではない。彼女自身の心の奥底から溶け出した、温かい涙だった。
「私は……彼が遺してくれた一番大切なものを……忘れていた……」
彼女の涙がカウンターに落ちた瞬間、パキィン……と、店内の空間に罅が入る音がした。 幻影として凍結されていた『過去の時間』が、限界を迎えて崩壊を始めたのだ。
壁のセピア色の写真が色を失い、ストーブの火が消え、アンティークの家具が雪のようにサラサラと崩れていく。 それと同時に、幻影に囚われていた客たちの目から光が戻り、「あれ……俺、ここで何をして……?」と我に返り始めた。
「ハッ!?」
白妙もビクッと肩を震わせ、我に返った。
「し、白妙としたことが、食欲に負けて過去の誘惑に囚われるなんて一生の不覚……! シナモントーストの魔力、恐るべしです!」
幻の喫茶店は、猛吹雪の吹きすさぶ元の寂れた路地裏の空き地へと戻っていた。 雪女は、雪が舞う暗闇の中で、深々と湊に向かって頭を下げた。
「……ありがとう、旅のマスター。あなたの珈琲の苦味が、私を夢から覚ましてくれました」
雪女の顔には、もう悲壮感はなかった。憑き物が落ちたような、清々しい微笑みが浮かんでいた。
「これから、どうするんだ?」
「……北の山へ帰ります。彼との思い出はもう凍らせません。私の胸の中で、ずっと温かく灯し続けて生きていきます。……いつか、私が本当に彼のもとへ旅立つ日まで」
雪女の体が、ふわりと雪の結晶となって風に舞い上がった。美しい銀色の光の粒子が、小樽の夜空へと吸い込まれるように消えていく。残されたのは、ただ静かに降り積もる新雪だけだった。
神隠しに遭っていた客たちも、「夢を見ていたようだ」とつぶやきながら、それぞれの家路へと向かっていった。
「終わったな」
湊が息を吐くと、白妙が横でぐうう……とお腹を鳴らした。
「湊……事件は解決しましたが、シナモントーストもココアも幻と一緒に消えてしまいました。白妙の胃袋は現在、絶望的なマイナス成長を記録しています」
「さっき大盛りのバターコーン味噌ラーメンを食べただろ」
「あれは二時間前の記憶です! 思い出にすがるのはよくないと、湊がたった今証明したではありませんか!」
「そういう意味じゃねえよ……」
翌朝。 すっきりと晴れ渡った小樽運河のほとり。 湊と白妙は、実在する地元の古い喫茶店で、厚切りのトーストとゆで卵のモーニングセットを頼んでいた。
湊のスマートフォンから、千歳の明るい声が漏れ聞こえる。
『神隠し事件の解決、確認したわ。雪女の結界だったのね。ご苦労様、朝倉さん』
「ああ。伝承の改変ってわけじゃなかったが、放置すれば厄介なことになっていたかもしれない。これで小樽の雪の夜も、ただの寒い冬に戻るさ」
『ええ。領収書は後で回してちょうだい。気をつけて帰ってくるのよ』
通話を切ると、目の前で白妙が厚切りトーストにたっぷりとイチゴジャムを塗りたくり、大口を開けてかじりついていた。
「んん〜! やはり現実の物理的な炭水化物こそが至高です! 思い出の中のシナモントーストも美味でしたが、今この瞬間のジャムトーストに全力で向かい合うことこそ、生きるということですね!」 「都合よく俺の言葉を解釈するな」
湊は呆れながらも、自分の前に置かれた珈琲カップを手に取った。窓の外では、雪化粧をした運河沿いの倉庫群が、朝の陽光を受けてキラキラと輝いている。
人は誰しも、過去の幸せな記憶にすがりたくなる時がある。だが、時は止まらない。 美味しい料理を食べて、温かい珈琲を飲んで、人はまた新しい一日へと歩き出すのだ。
「……さて。腹を満たしたら、帰るか。東京の『まほろば』に」
「はい! 帰ったら、お土産に買ったルタオのチーズケーキで二回目のモーニングですね!」
「だから食い過ぎだっての」
北の町の小さな喫茶店に、いつもの二人のやり取りが穏やかに響いていた。
温かい思い出を胸に、彼らの喫茶旅は、また次の町へと続いていく。




