『京都・百鬼夜行の落とし物』
「……湊。新幹線という乗り物は、人間の発明した魔法の箱ですね。座っているだけで景色が後ろへ飛んでいき、しかも車内販売という名の食料供給システムまで完備されている。白妙は感動しました」
東海道新幹線の窓際席で、白妙は真剣な面持ちでそう言い放ち、手元の『特製幕の内弁当』の最後のおかずである厚焼き玉子をパクリと飲み込んだ。東京を出発してまだ一時間半。彼女の前の小さなテーブルには、すでに空になった駅弁の箱が二つと、アイスクリームの空きカップが一つ重なっている。
「お前な、いくら妖怪の胃袋が多層構造だと言っても限度があるだろ。これから京都に着いたら、また何か食べる気じゃないだろうな」
湊が呆れたようにため息をつきながら文庫本から目を上げると、白妙はピンと頭頂部の毛束を逆立てて胸を張った。
「愚問ですね。京都と言えば抹茶パフェ、みたらし団子、生八ツ橋、湯豆腐! 事件調査という重労働に備え、事前のカロリー摂取は不可欠です。千歳さんからの経費で落ちますよね?」
「落ちるわけないだろ。……というか、今回は『調査』ってほど大仰なものじゃないらしいぞ」
湊はスマートフォンに届いた千歳からのメッセージ画面を開いた。
『京都の境界管理局支部から応援要請。伝承の改変を伴う悪性のものではないけれど、一条通周辺の古い通りで、妖怪たちが毎夜何かを「探して」ウロウロしていて、地元の人間の間で「深夜の不気味な徘徊集団」として都市伝説化しつつある。話を聞いてきてちょうだい』
「要するに、妖怪たちの探し物を見つければ解決ってことだ」
「なるほど。つまり、パフェを食べている間に終わる簡単な仕事ですね!」
「お前の頭の中は糖分でできているのか」
窓の外には、夕暮れに染まる伊吹山のシルエットが流れていた。間もなく、列車は千年の都へと滑り込む。
夜の京都。 表通りの喧騒から一本裏路地に入ると、そこはまるで時間が昭和、あるいはもっと古い時代で止まったかのような静寂に包まれていた。 古い京町家が連なり、細い路地の奥には小さな祠がひっそりと佇んでいる。格子戸から漏れるオレンジ色の電灯が、石畳を濡らす夜露を照らしていた。
「……湊。あそこです。なんか、ゾロゾロいます」
白妙が暗がりを指さした。 一条通に近い、人通りの絶えた古い商店街の路地裏。そこに、本来ならば人間の目には見えないはずの者たちがひしめき合っていた。
頭に皿を乗せた河童、一本足の唐傘お化け、毛むくじゃらの野寺坊、そして顔の半分が大きな一つ目になっている小僧。様々な姿の妖たちが、地面に這いつくばったり、ゴミ箱の裏を覗き込んだりして、何かを必死に探している。
「おい、そっちの電柱の裏はどうだ!?」
「ダメでさぁ! 猫の干からびた煮干ししか落ちてねぇ!」
「大将に怒られちまうぞ! もっとよく探せ!」
まるで落としたコンタクトレンズを探す高校生のような必死さで、妖怪たちが右往左往している。湊は思わず苦笑し、彼らの中の一人、提灯お化けに声をかけた。
「こんばんは。こんな夜更けに、何をそんなに探してるんだ?」
突然の人間(と、狐妖)の問いかけに、妖怪たちはビクッと肩を揺らした。しかし、湊が敵意を持っていないこと、そして隣に白妙がいることに気づくと、提灯お化けは嘆くように赤い舌をだらりと垂らした。
「おお、人間の兄ちゃんか。いやな、俺たち一昨日の夜、久しぶりにこの辺りで『百鬼夜行』の行列をやったんだよ。人間たちに見つからねえように、ひっそりとな」
「百鬼夜行をひっそりやるってのも矛盾してる気がするが……それで?」
「行列が終わって点呼をとったらよぉ……一人足りねぇんだ! 行列の後ろの方をちょろちょろついてきてた『チビ』が、どっかではぐれちまったらしくてな!」
「チビ?」
「西陣の古い町家に住み着いてる、小さな座敷童子さ。あいつ、普段は家から一歩も出ねえくせに、一昨日は泣きそうな顔して俺たちの行列についてきたんだ。そのままどっか行っちまって……。このままじゃ迷子になっちまう!」
強面な妖怪たちが、揃いも揃って小さな座敷童子を心配している姿はどこか滑稽で、同時に温かかった。
「なるほど。なら、俺たちも探すのを手伝おう。白妙、鼻は利くか?」
「お任せを。……くんくん。古い埃と、ほんのり甘いお香の匂い……あっちです!」
白妙が指さしたのは、商店街の端にある、古く寂れたお寺の裏手だった。
湊たちが薄暗い境内を抜け、本堂の裏側に回ると、縁の下の暗がりに小さな影がうずくまっていた。 赤い市松模様の着物を着た、おかっぱ頭の少女。年の頃は人間で言えば五、六歳といったところだろうか。膝を抱え、しくしくと肩を震わせて泣いている。
「……おい、君。こんなところで何をしてるんだ?」
湊がしゃがみ込んで優しく声をかけると、座敷童子はビクッと顔を上げ、大きな瞳からポロポロと涙をこぼした。
「……帰りたく、ない……」
「百鬼夜行の連中が心配して探してたぞ。迷子になったんじゃないのか?」
「ちがうもん……うちから、自分で出てきたんだもん……」
座敷童子――小鞠と名乗ったその妖は、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「うちが住んでたお家、明日、壊されちゃうんや……」
小鞠が住み着いていたのは、西陣にある築八十年を超える古い町家だった。何世代にもわたってその家の家族を見守り、時にはちょっとした悪戯をして笑い合ってきた。 しかし先月、その家にたった一人で住んでいた「おばあちゃん」が亡くなった。 残された家は老朽化が激しく、東京で暮らしている孫娘が相続し、明日には解体業者を入れて取り壊し、更地にして売却することになったというのだ。
「土地妖や家憑きの妖は、自分の居場所がなくなれば、その存在が保てなくなる。……うち、お家と一緒に消えてしまうんが怖くて、百鬼夜行についていって、遠くへ逃げようと思ったんや。でも……」
小鞠は小さな手で目をこすった。
「やっぱり、あのお家から離れたくない……。おばあちゃんがおらんくなっても、あのお家が好きなんや……」
湊は、小鞠の小さな頭をそっと撫でた。 古い家が消えていくのは、現代の日本において避けられない現実だ。妖が実在するこの国でも、人間社会の移り変わりを止めることはできない。だが、何もかもを失うわけではないはずだ。
「……小鞠。その家に行ってみよう。君が残る方法が、何かあるかもしれない」
「……ほんま?」
「ああ。白妙、百鬼夜行の連中に『見つけた』と伝えてきてくれ。俺たちは先に行ってる」
小鞠に案内されて辿り着いたのは、西陣の細い路地の奥にある、立派な虫籠窓を備えた京町家だった。しかし、長年人の手が入っていなかったのか、外壁は崩れかけ、瓦も歪んでいる。
玄関の引き戸は半開きになっており、中から段ボール箱を抱えた若い女性が出てきた。スーツ姿の上にエプロンをつけた彼女が、この家の相続人である孫娘の「美沙」だった。
「ふう……埃っぽい。今日中に遺品の仕分けを終わらせないと、明日の解体に間に合わないわ」
美沙は疲れた様子でため息をつき、庭先に置かれた縁台に腰を下ろした。手には、コンビニで買ったおにぎりと、タッパーに入った自家製の「ぬか漬け」が握られている。
湊は、「通りすがりの古物商」と偽って美沙に声をかけた。
「こんばんは。夜分遅くにすみません。古いお宅のようですが、解体されるんですか? もしよければ、不要な古い道具などがあれば買い取らせていただきたいのですが」
美沙は驚きつつも、警戒を解いて苦笑した。
「ええ、明日には壊します。骨董品と呼べるようなものはもうほとんど処分しましたけど……。この家、古くて隙間風はひどいし、冬は凍えるように寒くて。私が子供の頃はよく遊びに来てたんですけどね。おばあちゃんが亡くなって、もう誰も住まないから、マンション用地として売ることにしたんです」
美沙の言葉に、湊の足元に隠れていた小鞠が悲しそうに着物の裾をギュッと握りしめた。
「思い出の詰まった家を取り壊すのは、寂しくありませんか?」
湊が尋ねると、美沙はタッパーのぬか漬けを見つめながら少し目を伏せた。
「……寂しいですよ。でも、私にはこの家を維持できません。おばあちゃんの思い出は、私の中に残っていればそれでいいんです。……ただ、これだけは、どうしようか迷っていて」
美沙はタッパーに入ったキュウリと茄子のぬか漬けを指さした。
「おばあちゃんが、何十年も毎日手入れしていた『ぬか床』です。おばあちゃんが亡くなる直前までかき混ぜていたもので……これだけは捨てられなくて、東京の私のマンションに持って帰ろうか迷ってるんです。でも、一人暮らしの私に手入れができるか……」
湊は、そのタッパーから微かに漂う、発酵した糠の香りと、目に見えない「記憶の波動」を感じ取った。
「あの……失礼ですが、そのぬか漬け、一切れいただいてもよろしいですか?」
「え? ええ、構いませんけど……しょっぱいですよ?」
湊はタッパーから茄子のぬか漬けを一つまみ取り、口に運んだ。 熟成された糠の深い酸味と、絶妙な塩加減、そして茄子の甘みが口の中に広がる。それと同時に――湊の特殊能力『記憶の味』が発動した。
視界がブレ、現在の情景がセピア色に塗り替わっていく。
『――美沙ちゃん、こっち来なさい。台所は冷えるえ』
冬の夜。すきま風が入り込む古い台所。 分厚い半纏を着たおばあちゃんが、小さな丸い「ちゃぶ台」の上に、湯気を立てる白味噌の豚汁と、この茄子のぬか漬けを並べている。
『おばあちゃん、このお家、さむーい!』
小学生の美沙が、ストーブの前に縮こまっている。
『ほんまやなぁ。でもな、このちゃぶ台の下に足を入れたら、温かいんやで。ほら、一緒にご飯食べよ』
ちゃぶ台を挟んで、おばあちゃんと美沙が向かい合う。 そこにはもう一人――ちゃぶ台の横にちょこんと座り、二人の笑顔を見つめながら、ニコニコと笑っている小鞠の姿があった。
『美味しい! おばあちゃんのぬか漬け、一番好き!』
『そうかそうか。美沙ちゃんが大人になっても、この味はずっとここで待ってるさかいな』
ちゃぶ台には、長年使い込まれたことでついた無数の傷や、熱い湯呑みを置いた丸い染みが残っている。その傷の一つ一つが、この家族が囲んできた温かい時間の証だった。
――ビジョンがふっと途切れる。
湊はゆっくりと目を開けた。口の中には、まだ温かい家族の記憶の味が残っていた。
「……美味しいです。本当に、優しい味がする」
湊が静かに告げると、美沙は少しだけ照れたように笑った。
「ありがとうございます。おばあちゃんの自慢の味でしたから」
「美沙さん。……おばあちゃんが大切にしていたのは、この大きくて寒い『家』そのものだったのでしょうか?」
湊の問いかけに、美沙はきょとんとした。
「え?」
「家は人が住むための箱です。でも、思い出が宿るのは箱そのものじゃない。家族が身を寄せ合い、顔を突き合わせて笑い合った『場所』です。……例えば、あの台所の隅に置かれている、丸いちゃぶ台とか」
湊が指さした先、解体を待つガラクタの中に、あのビジョンで見た古いちゃぶ台が立てかけられていた。脚は折りたたまれ、天板には無数の傷がついている。
美沙はハッとして、そのちゃぶ台を見つめた。
「あれは……私が小さい頃、いつもおばあちゃんと一緒にご飯を食べていた机……」
「美沙さんが幼い頃、寒い冬の夜に、あのちゃぶ台を囲んで白味噌の豚汁とぬか漬けを食べた。あの机の下だけは、とても温かかったんじゃないですか?」
美沙の瞳が大きく見開かれ、やがてじわりと涙が滲んだ。
「……どうして、それを。……そうです。この家は寒かったけど、あのちゃぶ台の周りだけは、いつも温かくて……おばあちゃんの匂いがして……」
美沙は立ち上がり、ガラクタの山からちゃぶ台を引きずり出した。天板の傷を指でなぞると、忘れていた記憶が鮮明に蘇ってくる。
「私、家を壊すことに罪悪感があって……でも残すこともできなくて。全部捨ててしまおうとしていました。でも、全部捨てる必要なんてなかったんだ。おばあちゃんとの思い出は、この小さな机に全部染み込んでいたのに」
美沙はちゃぶ台を抱きしめるようにして、涙を拭った。
「……このちゃぶ台と、ぬか床。これだけは、絶対に東京の家に持っていきます。私の新しい家で、私がぬか床を守って、このちゃぶ台でご飯を食べます」
その言葉を聞いた瞬間。 湊の足元にいた小鞠の身体が、ふわりと淡い光に包まれた。
「……小鞠?」
「湊さん……うち、消えへん。このちゃぶ台があれば……うちはまだ、美沙ちゃんと一緒にいられる!」
座敷童子は、家という「建物」に縛られていたのではなかった。家族が共有した「温かい記憶」に縛られていたのだ。その記憶の象徴であるちゃぶ台が受け継がれる限り、彼女の帰る場所は失われない。
「よかったな、小鞠」
湊が微笑むと、小鞠はちゃぶ台のそばへ駆け寄り、美沙の足元で嬉しそうに飛び跳ねた。美沙には小鞠の姿は見えていないはずだが、なぜか美沙は足元を優しく見つめ、「なんだか、急に足元が温かくなった気がする」と小さく笑った。
路地の入り口から、様子を見守っていた百鬼夜行の妖怪たちが、安堵の声を上げるのが聞こえた。
「なんだ、帰る場所があるなら早く言えってんだ!」
「チビのやつ、また一つ目の家(新しいマンション)で悪戯しやがるなこりゃ!」
妖怪たちはガハハと笑いながら、夜の闇の中へ溶けるように消えていった。
翌朝。
京都の中心部、烏丸通りに近い老舗の純喫茶。 赤いビロードのソファに、重厚なステンドグラスの窓。クラシック音楽が静かに流れる店内で、湊と千歳、そして白妙の三人がモーニングセットを囲んでいた。
「なるほどね。土地や建物に縛られた妖でも、その中核となる『記憶の依り代』を移動させれば、共に引っ越すことができる。伝承の改変ではなく、単なる家憑き妖の引っ越し騒動だったというわけね」
千歳は分厚いタマゴサンドを上品に口に運びながら、納得したように頷いた。
「ああ。美沙さんは今朝、ちゃぶ台とぬか床をトラックに積み込んで東京へ帰っていったよ。小鞠も嬉しそうに荷台のちゃぶ台の上に座ってた」
湊が淹れ立てのブレンド珈琲をすすりながら答える。
「妖怪も現代の住宅事情に合わせて適応していくのね。ワンルームマンションに住む座敷童子……案外、新しい都市伝説になるかもしれないわ」
千歳がふふっと笑った。
「それにしても」
と湊は隣を見た。
「白妙、お前……」
白妙の前には、分厚いタマゴサンドの皿が空になり、さらにナポリタンの大盛り、そして食後の巨大な抹茶パフェが堂々と鎮座していた。彼女はパフェの頂上にある白玉に食らいつきながら、至福の表情を浮かべている。
「んふ〜! 京都の抹茶は苦味と甘味のバランスが絶妙です! 座敷童子ちゃんも無事にお引越しできたし、事件解決後の糖分は最高ですね!」
「お前、昨日の夜は何の役にも立ってなかっただろうが」
「鼻を利かせたじゃないですか! 立派な労働です!」
白妙が胸を張ると、頭頂部の毛束がピンと跳ねた。 湊は苦笑し、窓の外を見た。
歴史ある京都の街並みにも、新しいビルやマンションが次々と建っていく。景色は変わり、古いものは消えていく。 けれど、そこに込められた誰かの思い出や、温かい記憶の味は、形を変えて確かに受け継がれていく。妖怪たちもまた、その記憶と共に人間社会の片隅で、しぶとく、そして逞しく生きているのだ。
「……さてと。じゃあ、ぼちぼち東京の『まほろば』に帰るか」
湊がカップを置くと、白妙が抹茶アイスで口の周りを緑色にしながら抗議の声を上げた。
「ええっ!? まだ生八ツ橋も湯豆腐も食べてませんよ! 湊、今度は観光です! 観光して帰るんですー!」
「お前はもう十二分に京都を味わっただろ。帰るぞ」
「千歳さん! 湊が横暴です!」
「ふふ、仲が良いわね。領収書はちゃんと切っておいてあげるから、好きなだけ食べていきなさいな」
秋晴れの京都の空の下、喫茶店の静かな空間に、三人の穏やかな笑い声が溶けていった。
昔話は、終わらない。
こうして誰かが形を変えて受け継ぎ、思い出していく限り、今日も日本のどこかで、ひっそりと続いているのだ。




