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『まほろば巡礼録 ―妖と人の喫茶旅―』  作者: 花曇り


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1/13

『誰もいない交差点』

「喫茶まほろば」

築70年以上。

木製のカウンター。

古い振り子時計。

レコード。

クリームソーダ。

ナポリタン。

プリン。

昔ながらのブレンドコーヒー。

そして、

人間にも妖にも人気の店。

 チクタクと、真鍮の振り子時計が穏やかな刻みを刻んでいた。

築七十年を超える木造建築の店内には、長年かけて壁や柱に染みついた珈琲豆の香ばしい匂いと、ほのかに甘い香草の香りが満ちている。飴色に磨き上げられたカウンター越しに、朝倉湊はネルドリップのフィルターを慎重に持ち上げた。細く落とした湯が黒い地層をゆっくりと膨らませ、一滴、また一滴とガラスのサーバーへ落ちていく。

「湊ー、白妙のプリンアラモードはまだですかー? 脳の糖分が底をついて、狐の耳が萎びそうですー」

 カウンターの端で、白いセーラー服の上にエプロンをつけた少女――白妙が、頬骨をカウンターの木目に押し当てながら不満げに声をあげた。見た目は十六歳ほどの可憐な少女だが、時折ぴんと跳ね上がる頭頂部の毛束と、怒ったときに覗く妖しい瞳の光が、彼女が人ならざる白狐の妖であることを物語っている。

「今珈琲を淹れてるんだから待ちなさい。それに白妙、一時間前にも常連のおばあちゃんから貰った焼き芋を丸ごと一つ食べてただろ」

「それはそれ、これは別腹です! 妖怪の胃袋は人間が思うより多層構造になっているのですよ。特に甘味専用の層は無制限です」

「なんだその都合のいい解釈は」

 湊が苦笑しながら答えたその時、カランコロンと、入口の重厚なドアベルが涼やかな音を立てた。

 雨の降り始めた夜の空気を纏って入ってきたのは、仕立てのいいスラックススーツにトレンチコートを羽織った黒髪の女性だった。凛とした眉とスマートな眼鏡の奥の瞳は知的で、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。神崎千歳――表向きは文化財研究者、しかしてその正体は、政府機関「境界管理局」の調査員である。

「こんばんは、朝倉さん。相変わらず落ち着く良いお店ね」

「いらっしゃい、千歳さん。雨、酷くなってきた?」

「ええ、少しね。……白妙ちゃん、そんなに露骨に嫌そうな顔をしないで頂戴」

 千歳が苦笑すると、白妙はプイッと横を向いてカウンターの陰に隠れた。

「ちとせさんが来るときは、だいたい厄介な仕事のときです。白妙は今日、プリンアラモードを食べて平和に眠る予定だったのです」

「ふふ、ごめんなさいね。でも、あながち間違いでもないわ」

 千歳はカウンターの丸椅子に滑り込むと、整った顔立ちを少し真剣なものに変えた。湊は淹れ立てのブレンド珈琲を温めたカップに注ぎ、彼女の前に静かに置く。

「……で、今度はどんな事件だ? 東京のど真ん中で妖籍未登録の怪異でも出たか?」

「それなら警察と共生法の部署で処理できるわ。今回のは、少し毛色が違うの……都市伝説化した『伝承の改変』の兆候かもしれない」

 千歳はバッグから一枚の古びた地図と、何枚かの資料写真をスライドさせてカウンターに広げた。

「舞台は、ここから電車で三十分ほどの場所にある、都内の再開発地区……旧・新橋通り交差点。深夜零時になると、誰もいないはずの交差点の真ん中に『赤い傘をさした女』が現れるという噂を知ってる?」

「ああ」

 湊は思い返すように顎を触った。

「SNSや怪談系動画で最近よく見かけるな。『振り返ると連れていかれる』だの『赤い傘の女と目を合わせると消される』だの言われているやつか」

「世間では単なる現代の怪異、あるいは幽霊だと思われているわ。けれど、管理局の観測器が明確な『物妖』の波長を捉えたの。……でも、妙なのよ」

 千歳は珈琲に一口口をつけ、息を吐いた。

「過去の記録を調べても、その交差点で惨死した女性の記録も、恨みを残して死んだ人間の記録もない。なのに、ここ数ヶ月で急速に噂が広まり、都市伝説としての『性格』が変質し始めているの。最初はただ『雨の日に立つ女』だった噂が、今では『人間を連れ去る悪霊』として語られ始めている」

「人間が噂を面白おかしく改変して、それが本物の妖の性質を歪めている……ってことか?」

「ええ。このまま噂の毒が強まれば、本来は無害だったはずの妖が、本当に人間を害する『悪鬼』に変貌してしまう恐れがあるわ。……朝倉さん、力を貸してほしいの」

 湊は静かに手元を見た。自分の掌。一見すると何の変哲もない手だが、湊には生まれつき不思議な力があった。料理や古い道具に刻まれた「記憶」を、味覚や嗅覚を通じて断片的に読み取ることができる能力。

「……分かった。とりあえず、その交差点に行ってみよう」

「わーい! つまり事件解決のあかつきには、出張特別手当として高級洋菓子店のプリンアラモードが奢られるわけですね!」

 白妙が急に身を乗り出して目を輝かせた。湊は溜息をつきながら、白妙の頭をぽんぽんと叩いた。

「事件が無事に解決したらな。行くぞ、白妙」

 深夜二十三時四十五分。

 かつて商店街として栄えていたというその交差点は、今や巨大な高層ビル群と片側三車線の近代的なアスファルト道路に飲み込まれていた。街灯の白いLED光が冷たく濡れた路面を照らし、深夜の雨が静かに降り注いでいる。

「……ここですね。変な匂いがします」

白妙がセーラー服の袖から小さな鼻を覗かせ、くんくんと空気を嗅いだ。

「妖怪の気配か?」

「いいえ。寂しくて、湿っぽくて、古い紙と雨の匂いです。あくどい悪霊の臭いじゃありません」

 湊と千歳は顔を見合わせた。時刻は間もなく午前零時を迎える。

 チチチ……と千歳の持っていた測定器が小さな電子音を鳴らした瞬間、交差点の横断歩道の真ん中に、ぽつりと「それ」が現れた。

 朱色の、昔ながらの油紙でできた蛇の目傘。 それを差して立っているのは、昭和の着物の上に羽織を引っかけた、小柄な女性のシルエットだった。雨の中に揺らめくその姿は、都市伝説で語られるようなおどろおどろしい怨念の塊には見えなかった。ただ、じっと……どこか遠くを、信号の赤と青が交互に明滅する虚無の空間を見つめている。

「……あれが、『赤い傘の女』……」

 千歳が静かに身構え、護符を取り出そうとしたその時、傘の陰からくぐもった、少女のような声が響いた。

「……違います」

「え?」

 朱色の傘がゆっくりと持ち上がり、影の中から姿を現したのは、透き通るような肌をした女性――ではなく、傘の柄の部分が目鼻のように歪み、先端が細い口のようになった、古風な「傘の付喪神」だった。

 付喪神は、困惑したように傘をパタパタと開閉させながら、どこか憤慨したような声をあげた。

「幽霊じゃありません! 私は傘です! 連れていったりもしません! 失礼な噂を流さないでいただきたい!」

 思わず拍子抜けした湊は、白妙と顔を見合わせた。白妙は呆れたように肩をすくめている。

「な、なんだ……やっぱり悪霊じゃないじゃないか。君は一体、ここで何をしているんだ?」

 湊が雨の中を一歩踏み出し、穏やかな声で尋ねると、傘の付喪神はしゅん……と朱色の傘を窄めた。

「私は……待っているのです。あの方を。……でも、いくら待っても帰ってこられないのです。街の景色がすっかり変わってしまって……私、道に迷ってしまって……」

「あの方?」

 千歳が手帳を開きながら歩み寄る。「あなたを所有していた人間のこと?」

「はい……。五十年以上前、ここには『鈴蘭通り』という温かい商店街がありました。私の持ち主は、そこで小さな和菓子屋を営んでいたお母さんです」

 付喪神の語る声には、雨の音に混じってどこか懐かしい響きがあった。

「お母さんは、雨の日になると必ず私を広げて、この交差点まで走っていったのです。小学校から帰ってくる、大好きな娘さんを迎えに行くために。『風邪をひかないように』って、温かいバスタオルと、私が差す朱色の影の下で、二人は笑いながら歩いていきました」

 付喪神は、自分の柄を慈しむようにさすった。

「お母さんが亡くなり、娘さんも大人になって遠くへ引っ越し、私は古い蔵の隅で長く眠っていました。けれど……数ヶ月前、工事の振動で蔵が壊れ、私は目を覚ましたのです。お母さんとのあの温かい時間を思い出して、もう一度あの娘さんに傘を差しだしたくて、ここへ来ました。……なのに」

 付喪神は悲しそうに周囲のビル群を見上げた。

「商店街も、和菓子屋も、雨宿りをした喫茶店も……全部なくなっていました。道路は広くなり、看板も変わり、自分がどこに立っているのかさえ分からなくなってしまったのです。……そうしてたたずんでいるうちに、通りかかる人間たちが私を見て『おばけだ』『連れていかれる』と怖がるようになりました。恐ろしい噂が私にまとわりついて、体が重くて……動き出せなくなってしまったのです」

「忘却、か……」

 千歳が重い溜息をついた。

「人間が街を塗り替え、過去の記憶を忘れていく。残された道具の妖は、行き場を失って都市伝説という誤った枠組みに閉じ込められてしまう……まさに、伝承の変質事故ね」

「……待ってくれ」

 湊はふと、付喪神の言葉の中に引っかかるもの感じた。

「君はさっき、『雨宿りをした喫茶店』と言ったな?」

「ええ……。雨が激しい日は、学校帰りの娘さんとお母さんは、交差点の角にあった喫茶店に入って、雨が止むのを待っていたのです。そこで二人で、一杯の……緑色の甘くて冷たい飲み物を分け合って飲んでいました。とても嬉しそうに、楽しそうに……」

 緑色の甘くて冷たい飲み物。

 湊の脳裏に、一つのイメージが鮮明に浮かび上がった。

「千歳さん、このあたりの昔の地図や写真は残ってるか?」

「ええ、管理局のデータベースに昭和四十年代の周辺構造図があるわ。ちょっと待って……」

 千歳がタブレット端末を操作し、古いモノクロ写真を画面に映し出した。そこには、現在の無機質な高層ビル群とは全く異なる、賑やかな商店街の姿があった。軒を連ねるアーケード、軒先の提灯、そして交差点の角に佇む小さな木造の店舗。看板には『純喫茶 ドリフレ』と書かれている。

「これだ……」

 湊は付喪神に向かって静かに語りかけた。

「君の思い出の場所は、完全に消えたわけじゃない。姿を変えて、別の記憶として残っているはずだ。……白妙、千歳さん、一度『まほろば』に戻ろう。俺に、準備をさせてくれ」

 深夜一時の『喫茶まほろば』。

 湊は厨房に立ち、細心の注意を払いながら作業を進めていた。

 背の高いレトロなチューリップグラスの底に、鮮やかなエメラルドグリーンのメロンシロップを注ぐ。そこに、細かな泡を立てないよう静かに氷を滑り込ませ、キンキンに冷えた強炭酸水をゆっくりと注ぎ込む。緑色の美しいグラデーションがグラスの中に広がっていく。

 仕上げに、丸くくり抜いた濃厚なバニラアイスクリームをそっと浮かべ、その頂前に真ん丸な真っ赤なチェリーを一つ、ちょんと添えた。

 ――昭和の純喫茶の象徴、クリームソーダ。

 湊は完成したグラスを静かにカウンターに置いた。そして、目を閉じ、自らの掌をグラスの側面にそっとあてる。

 能力『記憶の味』。

 じわ、と意識が深く沈み込んでいく。

 視界が眩い緑色の光に包まれ、雨の音が遠く聞こえてきた。

『―ほら、おいで。寒かったでしょう―』

 かすれた、けれど底抜けに優しい女性の声。

『―わあ、クリームソーダ! お母さん、アイスのところ、半分ちょうだい!―』

『―はいはい。焦らないで、チェリーは一番最後に食べるのよ―』

 カラコロと氷が鳴る音。雨の日の鬱屈を吹き飛ばすような、幼い少女の弾けた笑顔。メロンソーダの爽快な甘さと、バニラアイスのまろやかな濃密さ。そして、それらを包み込むような、母親の温かい濡れた着物の匂いと、油紙の傘から漂う和の香り。

 親子の記憶。かけがえのない、雨の日の幸福な時間。

「……見えたよ」

 湊が目を開けると、白妙と千歳が息を呑んで自分を見つめていた。

「湊、何か分かったのですか?」

「ああ。あの傘の付喪神が探していたのは、単なる『道』じゃない。お母さんと娘が分け合った、あの温かい『時間』そのものだ。街が変わってしまって、自分が何のためにそこにいるのかを見失っていたんだ」

 湊はトレイの上にクリームソーダを載せ、布巾でグラスの結露を丁寧に拭き取った。

「千歳さん、もう一度あの交差点へ行こう。……今度は、お客様として彼女を迎えるために」

 午前二時。雨は依然として降り続いていた。

 濡れたアスファルトの真ん中で、朱色の傘の付喪神は、今にも消えてしまいそうな薄い存在感で佇んでいた。噂の毒が回り始めているのか、その輪郭が歪み、黒い影のような気配がうごめき始めている。

「……もう、ダメです……。私、自分が誰なのかも……何を探していたのかも……分からなくなって……」

「忘れるな!」

 湊の力強い声が、雨音を切り裂いた。

 湊、白妙、千歳が傘を差し、交差点の中央へ歩み寄る。湊の手には、小さな盆に載せられたガラスのグラスがあった。

「朝倉さん……?」

 湊は付喪神の目の前にそっと歩み寄ると、雨を避けるように自分の傘を傾け、盆の上のクリームソーダを差し出した。

「君が探していたのは、これだろう?」

 暗闇の交差点で、エメラルドグリーンの液体と真っ赤なチェリーが、街灯の光を受けて宝石のように輝いた。

「あ……ああっ……!」

 付喪神の柄の目が、大きく見開かれた。

「これは……あの店の……お母さんと娘さんが、いつも飲んでいた……」

「飲んでみてくれ。……いや、思い出してくれ。君の中にずっとあった、あの温かい記憶を」

 付喪神は吸い寄せられるように、細い口をグラスに近づけた。ストローを通じて、あるいは気配を通じて、緑色のソーダとバニラアイスの混ざり合う香りが、付喪神の全身を駆け巡る。

 その瞬間、交差点の雨音が一瞬だけ消え去った。

 昭和の商店街の喧騒。雨の日の喫茶店のジャズ。カラフルなビニール傘と、朱色の油紙傘。

『お母さん、雨の日って好き。だって、お母さんがお迎えに来てくれるし、クリームソーダが飲めるから』 『ふふ、そうね。雨の日は、特別な日だものね』

 記憶の濁流が、付喪神を蝕んでいた都市伝説の悪意を、綺麗に洗い流していく。黒い影は瞬く間に消え去り、朱色の油紙の傘は、まるで出来立てのように艶やかな光沢を取り戻していった。

「……思い出しました……」

 付喪神の声から、悲壮感が消えていた。そこにあるのは、穏やかで清々しい、満たされた響きだった。

「私は……お母さんの愛情から生まれた傘。あの温かい思い出がある限り、私はどこにいても、あの二人の傘でいられたんだ……。街が変わっても、大切な記憶は、私の中にずっと残っていたんですね……」

 付喪神の体が、小さく柔らかな橙色の光に包まれ始める。

「……ありがとう、若いマスター。素晴らしい『記憶の味』でした。私……やっと、道が見つかりました」

「どこへ行くんだ?」

 湊が尋ねると、付喪神は晴れやかに微笑むような仕草を見せた。

「あの子……今はもう、おばあちゃんになったあの娘さんのところへ帰ります。遠い地方の街ですが、今の私なら、迷わずに歩いていけそうですから」

 朱色の傘は、ふわぐと空へ舞い上がった。雨空の中を、まるで一輪の花が風に乗るように、夜の闇の彼方へと優雅に飛んでいく。

 その去り際、かすかな声が届いた。

『――ありがとうございました。美味しいクリームソーダを……ごちそうさまでした』

 光が夜空に溶け込み、後には静かな雨音だけが残された。

 千歳が手にしていた測定器の電子音が止まる。画面の数値は完全に正常値を示していた。

「……都市伝説『赤い傘の女』の消滅を確認。……いいえ、怪異が、元の『思い出の付喪神』に戻って還っていったのね」

 千歳は深く息を吐き、眼鏡の位置を直すと、湊に向かって笑いかけた。

「見事な解決だったわ、朝倉さん。料理の記憶で妖の自我を取り戻させるなんて、あなたにしかできない芸当ね」

「俺はただ、あいつが一番食べたかったものを作っただけさ」

 湊は空になったグラスを愛おしそうに見つめた。

 その横で、白妙がぷくーっと頬を膨らませて湊の袖を引っ張った。

「湊! 人の感動的な思い出に立ち会って満足している場合ではありません! 事件は解決しました! 約束の! 糖分です!」

「分かってるよ。店に戻ったら、特大のプリンアラモードを作ってやるから」

「本当ですか! やったー! バニラアイスは二個載せでお願いしますね!」

 元気を取り戻した白妙が、雨の歩道をぴょんぴょんと跳ねるように走り出した。湊はその背中を追いかけながら、千歳と共に歩き出す。

「千歳さんも、戻ったら何か食べていくか?」

「ええ、喜んで。……でも、朝倉さん。今回の『伝承の改変』、単なる自然発生じゃないかもしれないわ」

 千歳の声が、少しだけ低くなった。

「全国で、同じように『土地の記憶』が書き換えられ、妖たちが存在の危機に瀕している現象が報告されているの。京都、北海道、沖縄……全国各地で、何かが起きてる」

「……全国で?」

「ええ。だから、これからもあなたの力が必要になるわ。全国の美味を訪ね歩く、ちょっとおかしな調査旅になるかもしれないけれど……付き合ってくれるかしら?」

 湊は一瞬足を止め、夜空を見上げた。降り続いていた雨が少しずつ弱まり、雲の隙間からかすかに星の光が覗いている。

「……いいぜ。昔話は、終わった話じゃないんだろ。誰かが覚えている限り、どこかで続いている。……だったら、俺がそれを食って、思い出させてやるよ」

「頼もしいことね。……あ、白妙ちゃん、一人で走っていくと転ぶわよ!」

「転びませんー! 白妙は狐ですから足腰は完璧……きゃわっ!?」

 派手な水しぶきの音と共に、白妙の見事な転倒劇が夜の街に響いた。湊と千歳は顔を見合わせ、同時に吹き出した。

 翌朝。

 『喫茶まほろば』の暖簾が風に揺れていた。

 昨夜の雨が嘘のように澄み渡った秋晴れの空。商店街には仕込みをする魚屋の威勢のいい声が響き、登校中の高校生たちが笑い合いながら通り過ぎていく。

 ガラガラとドアが開き、常連のおじいさんが店に入ってきた。

「マスター、いつものブレンド。それと……今日はなんだか無性にクリームソーダが飲みたくなったんだが、あるかい?」

「はい、喜んで。すぐにお作りしますね」

 カウンターの奥で、湊が朗らかに答える。

 白妙はカウンターの端で、約束通り作ってもらった特大プリンアラモードのバニラアイスを幸せそうに頬張りながら、尻尾(人間には見えないが)を機嫌良く振っていた。

「……ふう。やっぱり事件解決の後の甘味は格別ですねぇ」

「さっき朝食を食べたばかりだろうが」

 湊が呆れながらグラスに氷を入れると、白妙はニシシと八重歯を見せて笑った。

「湊、次はどこへ行くのですか?」

「千歳さんからの連絡待ちだが……京都とか、北の方かもしれないな」

「おお! 京都なら生八ツ橋! 北ならソフトクリームと鮭カマです! 楽しみですねぇ!」

「お前は観光気分だな……」

 湊は苦笑しつつ、丁寧に淹れた珈琲の香りを胸一杯に吸い込んだ。

 世界は劇的には変わらない。 警察が走り回るわけでも、ヒーローが世界を救うわけでもない。 けれど、消えかけていた一つの記憶が救われ、今日も誰かがこの店で温かい珈琲を飲み、昔話を語り始める。

「……また来ような」

 湊が小さく呟くと、白妙はプリンの上のチェリーを口に放り込みながら、当然のようにうなずいた。

「もちろんです。……今度は、観光です!」

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