鍵と、止まった時間(後半)
鍵が回ると軽い、けれど、少し抵抗のある音がした。カチリ、と乾いた音。息を吸い扉を押す、と上のベルが、カラン、カラン、と鳴る。
外から差し込む昼の光が店内の埃の粒をゆっくり浮かび上がらせ床に細い帯のように落ち、奥の方まで届かず途中で薄くなっている。空気はしっとりと少し重く、閉ざされていた空間が長い眠りから覚めるときの、あの匂いが香る。古い木、紙と、かすかにコーヒーの残り香。扉を後ろ手で閉める。と、ベルがもう一度鳴り、それから店の中が静かになった。店は思っていたよりもずっと小さかった。子供の頃の記憶ではもっと広い場所だったような気がしていたけれど、改めて入ってみると十四席ほどの小さな喫茶店。四人がけのテーブルが二つ、二人がけが三つ、そして奥にカウンターが五席。それだけ。
壁は漆喰で所々に古い映画のポスターとジャズのLPジャケットが飾ってあり、床は焦げ茶色の板張りで入り口のあたりは長年人が歩いて擦り減り少し白っぽくなっている。
奥のカウンターの内側にサイフォンが三本ガラスの上のフラスコが少し曇った状態で並んでいる。その隣に古いけれどたぶんまだ使えるエスプレッソマシン。冷蔵ショーケース。シンク。製氷機。どれもピカピカではないが丁寧に置かれていた。
そして、入り口から一番遠い道側の窓際に小さなテーブルが一つ。
二人がけ。古い木の椅子。
窓には少し歪んだアンティークガラスが嵌まっていて、そこから差し込む光がテーブルの上に淡い四角を作っていた。
僕はその光をしばらく見ていた。
なぜ、と聞かれても答えられないけれど、その席だけが店の中で少し違う場所にあるように見えた。
光のかげん、というのだろうか。
ノートの一行が頭をかすめた。
『窓際の席。光のかげんがあの夏のままで止まっている。』
ふと、視線を上げる。と、
カウンターの奥、漆喰の壁に古い柱時計が掛かっている。丸い文字盤、黒いローマ数字。長針と短針。
三時十七分。
僕は何気なく自分のスマホで時刻を確かめる。十二時十五分。柱時計は確かに止まっていた。
祖父は店の最後の日まで毎朝この時計のネジを巻いていたはずだ。少なくとも僕の知る祖父はそういう人だった。それなのに止まっている。亡くなってからネジを巻く人がいなくなって止まったのだろう。
そう思おうとした。
けれど、もう一度文字盤を見るとなぜかその時刻にはそれだけではない何かがあるような気がした。
三時十七分。
特別な時刻だろうか。よくわからない。中途半端な数字。日常のどこかにふと顔を出す何の意味もない時間。
僕はもう一度、見上げたけれど時計は何も答えなかった。
——————
奥の階段を上ると二階は住居スペースだった。急で狭く軋む木の階段。一段ずつ上るたび家全体が小さく揺れる感じがした。
二階の正面に六畳の和室。畳は古く踏むと少しずつ沈む感触があり、押し入れと小さな仏壇。お線香の匂いがまだ残っていた。
和室の左手、奥に進むと四畳半の納戸。段ボール箱が積み重ねられ、古いレコードプレイヤー、レコードの束、束ねた手紙、写真の入った封筒。何十年分かの祖父の生活が雑然とけれど、どこかきちんとしまわれていた。
そして、納戸のさらに奥の扉を開ける。と、そこがサンルームであった。三畳ほどの小さなガラス張りの部屋。天井もガラス、両側面もガラス、奥の壁の上半分もガラス。古いラタンの椅子と丸い木のテーブル。テーブルの上に空っぽのコーヒーカップが一つ伏せて置いてあった。
僕は椅子に座ってみる。ガラスは少し曇っていて外の景色は輪郭がぼやけて見えた。空が見え、隣の家の屋根瓦が見え、電線にとまった鳥の影。それからぼんやりと京都の市街地。
祖父はたぶんここで時々、コーヒーを飲んでいたんだろう、と思った。
店の喧騒(と言うほどの喧騒もなかっただろうけれど)を離れ、二階の小さなサンルームで一人コーヒーを飲んでいる祖父。背が高く痩せた白いシャツの祖父。
「光の好きな人やったから」
そんな言葉が、ふと、頭の中で浮かんだ。
誰の言葉だろう。聞いたことはない。でも、なぜか、そんな声が聞こえた気がした。
しばらく、ぼんやりと外を見ていた。
——————
その日の夜、僕は二階の和室で祖父が使っていた布団を敷く。少し黴の匂いがした為、ベランダに干してから室内に戻したものだ。七月十四日の京都の夜は思ったよりも暑くなく、日が落ちるとわずかに風が立ち、窓を開けると湿気を含んだ夜気が緩く流れ込んできた。
蝉はまだ本格的には鳴いていない。けれど、遠くでヒグラシのような声が、一つ、二つ。
僕は布団の上に座りリュックから本を一冊出す。学校の課題で読んでいる途中の逆ソクラテス。けれど、文字を追っても頭に入ってこない。代わりにいろいろなものが頭の中で並んでいた。
止まった柱時計。窓際の席の光。サイフォンの曇ったガラス。レシピノート。朝顔の押し花。ちなつさんへ。
どれも、断片だった。
僕にはまだそれらを繋ぐ糸が見えなかった。
僕は繋ぎたいのかどうかもよくわからなかった。
スマホが鳴り液晶を見ると母から着信がある。
「悠人?ちゃんと着いた?」
「うん、着いたよ。今、二階で布団敷いた」
「ご飯は?」
「近くでちょっと食べた」
「そう。ちゃんと食べないとね」
母の声はいつも通り明るかった。けれど、その明るさの奥に少し迷いがあるように聞こえた。
「悠人」
「うん?」
「あのね、お母さん、ちょっと——思い出したことがあって」
「なに?」
母は少し躊躇った後、
「おじいちゃん、亡くなる前にね、最後の方、よく寝言を言ってたの。病院で寝ながら」
「うん」
「うわごとって言うのかな。意識がぼんやりしてるときに、誰かの名前を呼んでたのよ」
悠人は布団の上で姿勢を変え、問う。
「誰?」
「それがね、おばあちゃんの名前じゃないの」
少しの沈黙の後、
「ちなつ、って聞こえた」
——レシピノートの最後のページ。ちなつさんへ。あの一行が頭の中ではっきり浮かぶ。
「それ、誰の名前か知ってる?」
「ううん、知らない。だから、不思議で。お父さんに聞いても、知らない、って言うし」
「うん」
「もしかしたら、おじいちゃんの古いお友達かしらね。男の人かもしれないし。寝言だからはっきりは、分からないんだけど」
母は軽く言った。けれど、その「軽く」の裏側に本当はもう少し気になっているという響きを僕は聞き取った。
「サンルームに何かそういう痕跡があったら教えてね」
「うん、わかった」
「気にしなくていいわよ。ただの寝言かもしれないし」
「うん」
電話を切り、僕はしばらくスマホを手に持ったまま座っていた。
——ちなつ。
祖父が人生の最後に呼んだ名前。レシピノートの最後のページに書かれた名前。
祖母の名前ではなく、母の名前でもなく、僕の知らない、誰かの名前。
リュックからレシピノートを取り出し最後のページを開いた。
『夏のクリームソーダ』
『ちなつさんへ』
万年筆の文字。「ちなつさんへ」の「ち」の字がほかの字よりわずかに線が震えている。
ずっと胸の奥にためていた何かが、ペン先から紙にしみ出したかのように。
僕はノートを閉じ、窓を開け放した二階の和室に京都の夜の音が薄く満ちていた。
——————
翌朝、七月十五日。
悠人は六時に目を覚ます。いつもなら七時半まで眠るのだけれど和室の障子から差し込む光が思ったよりも早くから明るかった。窓を開ける、ともう蝉がはっきりと鳴き始めていた。昨日の夜とはまるで違う音量だった。
一階に降り、店の中を点検する、と掃除しなければならないのは明らかだった。テーブルの上にも椅子の座面にも薄い埃の膜が積もっている。サイフォンのフラスコの中はもう何ヶ月も洗われていなく、冷蔵ショーケースは開けると空っぽでほのかに金属の匂いがした。製氷機のスイッチも切られており、内部は乾いていた。近所のホームセンターで雑巾、洗剤、ゴム手袋、それから新しいスポンジを買った。和菓子屋「みわ庵」の前を通ると店先で水を撒いていた女性が悠人を見てふと手を止めた。
「あら」
三十代くらいの女性だった。藍色の作務衣に白い前掛け。柔らかい、けれど元気のある声。
「あんた、もしかしてサンルームの——」
「あ、はい、孫の悠人です」
「ああ、やっぱり!」
女性はにっこりと親しげに微笑んでくる。
「みわ庵の三輪です。マスターようお話ししてはりましたよ。東京の理学部の孫が、って」
祖父が僕の話をしていたとは知らなかった。
「店、開けはるんですか?」
「あ、ええ、夏の間だけ——一ヶ月くらいだけなんですけど」
「そうですか。ご無理ない範囲で、ね。あ、これ、よかったら」
三輪は店の中に一度引っ込んですぐに小さな包みを持って戻ってくる。
「豆大福ね。マスター、好きやったんですよ」
「あ、すみません、お代を」
「ええんよ、いらんわ。お悔やみ申し上げます、ってこと」
三輪はそう言うと、もう一度笑った。笑うと、目尻が少しだけ下がり柔らかい笑い方だった。
「困ったら、いつでも来てよ。隣の隣のお隣やし」
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、豆大福の包みはまだほんのり温かかった。
——————
店に戻り本格的に掃除を始める。窓を全部開け、扉も開け、風を通す。雑巾を絞りテーブルから順番に拭いていく。一つ目、二つ目、三つ目。汗が額から滴って雑巾の上に落ち、それを拭き取る。蝉の声が開け放した扉の向こうから休みなく流れ込んでくる。最後に窓際の二人がけのテーブル。ほかのテーブルと特に変わったところはない。古い木の天板、丸みを帯びた角、年月を経て少しずつ色の濃くなったコーヒーのリング。雑巾でテーブルの上を拭き、テーブルの角を拭いていると指先に何か小さな引っかかりを感じた。角の端、下から覗き込まないと見えないような場所に小さな彫り込みのような線の跡があった。
悠人はかがみ込んで見てみる、と
「ち」
そう読めなくもないし、ただの傷にも見える小さな書き込み。鉛筆だろうか、それとも、爪か何か硬いもので刻みつけたのか。色は薄く年月で擦り減ってもう少し時間が経てば完全に消えてしまいそうな控えめな印。
しばらくそれを見た後、雑巾でその上をぐるりと拭いた。特に何か考えたわけではなく、ただ、テーブルを拭く流れの中でそこも拭いた。それだけ。
「ち」の字はすぐには消えなかった。けれど少し、薄くなった気がした。悠人は気にせず次の場所に移った。
そのときの僕はそれが何かの始まりかもしれない。なんてまだ知らなかった。
——————
七月十六日。
朝から雨が降っていた。京都の梅雨明けはもう少し先らしい。湿気の重い空気が雨と一緒に降りてくるようだった。
悠人はカウンターの内側に立ち、サイフォンの前にいた。ネルのフィルターと目の細かい金網のドリッパー、コーヒーミル、計量カップ、それから、祖父の使っていた小さな木のスプーン。すべてレシピノートに書かれている通りの道具を店の中で探し出して揃えた。
コーヒー豆は近所の老舗の珈琲店「春乃珈琲」で買ってきた。レシピノートに「春乃のブレンド、深煎り。ハウスブレンドが基本」と書かれていた為、そのまま店主に伝え量り、包んでもらった。
ノートを開く。
『ブレンドコーヒー(基本)』
『一杯あたり 豆十二グラム。中挽き。お湯の温度九十二度。下のフラスコ二百ミリリットル。火を入れ、湯が上がってからコーヒー粉を入れ軽く撹拌。三十秒。火を止め、お湯が落ちるのを待つ。落ちきったら、ネルを外しすぐ提供。』
———簡単なはずだった。
ノートの通りに豆を計り、ミルで挽き、水をフラスコに入れサイフォンを組み立てアルコールランプに火をつけた。
お湯が沸き上がるまでに思ったより時間がかかった。
沸騰し始めお湯が上のフラスコに上がりかけたとき、粉を入れた。
撹拌、軽く三回。
ノートには「軽く撹拌」と書いてあった。けれど、軽く、というのがどのくらいの強さなのか僕にはまだわからなかった。三回まわし止めた。
三十秒。
スマホのタイマーを見ながら待つ。お湯と粉が上のフラスコの中でふつふつと小さな対話をしている。香りが立ち上ると、良い匂いだ、と微笑んでしまう。
火を止め、しばらくするとお湯が下のフラスコにゆっくりと落ちていく。最後の一滴が落ち、ネルとフィルターを外しカップに注ぎ、一口、飲んでみた。
———薄かった。ものすごく、薄かった。
これは、コーヒーというよりコーヒー味のお湯だった。僕はカップを置き少し立ち尽くした。
ノートをもう一度開き、豆十二グラム。書いてある通りにした。お湯の温度九十二度。これも計った。撹拌、軽く。たぶん、それも合っている。
どこが違うのか分からなかった。
ノートをめくると、次のページに祖父の小さな走り書きがあった。
『お湯が上がってからの呼吸が大事。早すぎても、遅すぎてもだめ。』
——呼吸、と書いてあった。
呼吸って何を呼吸するのだろう。もう一度、最初からやり直す。二杯目は最初より少し濃かった。けれど、それでも店で出せるような味ではなかった。
三杯目は苦すぎ舌が痺れた。撹拌を四回にしてみると、苦味だけが立った。四杯目はまた薄くなった。
サイフォンを片付けカウンターの椅子に腰を下ろす。
外では、雨が、静かに降り続けていた。
ノートに書かれていることは、すべて再現できるはずだった。分量、温度、時間、すべて。
けれど、何かが、足りなかった。
祖父が「呼吸」と呼んだ何か。たぶん、それはノートには書き切れない何かだった。何十年もカウンターの中に立ち続けた人間にしか分からない何か。
つまり、僕には、まだ、ない何かだった。しばらく、カップを見ていた。そして、ふと、思った。
——これを、誰かに、出すのか?
一ヶ月後、客が来たとして、この味で、出すのか?
店を続けるというのは、レシピを再現することとは、たぶん、違うのだろう。
悠人はようやくそのことに気づきかけていた。
——————
夕方になり雨が一度だけ激しくなった。路地の石畳が白く跳ねるくらいの雨だった。長くは続かなく、三十分ほどで雨は弱くなりすぐにやんだ。雨上がりの京都は空気が綺麗だ。店の扉を開け、外を見ると石畳に水たまりができており、そこに夕暮れの空が小さく映っていた。
空はまだ完全には晴れていなかったけれど雲の切れ間からオレンジ色の光が、薄く、漏れ出ていた。しばらく見た後、店の中に戻るとカウンターの上で四杯目のコーヒーがもう冷めていた。それを口に運ぶと、やっぱり、まだ、薄かった。けれど、なぜか捨てる気にはならなかった。
祖父が何十年もかけて積み重ねた何かに、僕は今、ようやく最初の一歩を踏み込みかけている。一歩目は、ぜんぶ、失敗するに決まっている。冷めたコーヒーを、ゆっくり、最後まで、飲んだ。
——————
七月十七日。祇園祭、前祭の山鉾巡行の日。
朝のニュースで四条通の中継が映っていた。長刀鉾の稚児がしめ縄を切る場面。アナウンサーが「いよいよ夏本番」と言っていた。
悠人は店にいて巡行は見に行かなかった。烏丸御池から四条までは歩いてもすぐの距離だった。けれど、人混みに行く気力がなかった。
代わりに僕は店の中で開店の準備をしていた。
メニューを、手書きで、紙に書き写し、レシピノートの最初の方に書いてある店の基本メニュー。ブレンドコーヒー、アメリカン、カフェオレ、エスプレッソ、紅茶、ミルクティー、レモンスカッシュ、メロンソーダ、コーラ、オレンジジュース、トマトジュース。それから、フード類はナポリタン、サンドイッチ(ハム、卵、ツナ)、トースト、プリン、ホットケーキ、レアチーズケーキ。
——クリームソーダは、なかった。
子供の頃、祖父に出してもらった記憶があるのに基本メニューには入っていなかった。
ノートを最後までめくってもクリームソーダのレシピは最後のあたりにぽつんと一つだけ書かれていた。「クリームソーダ。基本のメロンソーダにバニラアイスを浮かべ、さくらんぼを一つ」。それだけ。
そしてその下にもう一つ別のレシピ。
『夏のクリームソーダ』
ちなつさんへ。
僕はそのページをもう一度、よく読んだ。
『ラムネシロップ、ライムジュース、ソーダ水、バニラアイス。レモンの皮を細く削って散らす。グラスの底に銀色の小さなビー玉を一つ入れる。海の見えない京都で海を出してあげたかった。』
———海の見えない京都で海を出してあげたかった。
祖父の字はそこだけほかのレシピと違っていた。
ほかのページは定規で線を引いたようなまっすぐで几帳面な字。けれどこのページの文字は少しだけ丸かった。少しだけ、優しかった。
ちなつ、という人は海の見える土地に馴染みのあった人だったのだろうか。
それとも京都という街の閉ざされた感じがその人を息苦しくさせていたのだろうか。
僕にはわからなかった。
祖父は、もういない。聞くことは、できない。
僕はそのページをそっと閉じた。
——————
夕方になり店の中をもう一度見回した。テーブルはすべて拭いた。椅子も床も窓ガラスも内側だけだが拭いた。サイフォンは洗い磨いた。冷蔵ショーケースにはケーキを並べる代わりに自分用のスポーツドリンクと明日のためのバニラアイスを一つだけ入れておいた。
カウンターにはレシピノートを置いた。
いつでも開ける場所に。
外はもう夕暮れだった。祇園祭の囃子の音が遠くからかすかに聞こえてきた。チキコンコン、コンチキチン。お囃子の独特のリズムが京都の夏の空に薄く漂っていた。
僕は窓際の席に座ってみる。二人がけのテーブル。古い木の椅子。アンティークガラスの窓越しに路地の石畳が見えた。誰も歩いていない。今日もまだ誰も。
夕暮れの光がテーブルの上に淡い四角を作っていた。
僕はその光に手を入れてみた。自分の手の甲がその光の中で少しだけ暖かくなった。
「光のかげんが、あの夏のままで、止まっている」
祖父の言葉を口に出して言ってみる。声に出してみると、何かが、分かるかと思った。でも、何もわからない。ただ、その光だけがテーブルの上に変わらずあった。
止まった柱時計が目に入った。
三時十七分。
僕は立ち上がりカウンターの方へ行き柱時計を見上げた。ガラスの蓋を開け、ネジ巻きの場所を確認する。古い真鍮の鍵穴。きっと、ここに鍵を差して回せばまた動き出すはずだった。
レシピノートと一緒に渡されたあの真鍮の鍵。
もしかしたら、扉の鍵だけでなく、これにも合うかもしれなかった。
僕はリュックの中から鍵を出して試してみる、と入らなかった。形が合わない。少しほっとした。
自分でもなぜほっとしたのかよく分からなかった。
ただ、なぜかこの時計を、今、動かしてはいけないような気がした。
三時十七分のままで、しばらく、置いておこう、と思い、ガラスの蓋をそっと閉めた。
夜、二階のサンルームに上がる。ラタンの椅子に座り、伏せられたコーヒーカップをひっくり返しテーブルの上に置き見てみるとカップの中は空だった。
しばらく、その空のカップを見ていた。
明日、ここを開ける。
一階のサンルームを。祖父の店を。
誰が来るだろうか。
来なくてもいいような気がした。
誰も来ない一日を僕はただ待つ。それでも、いい気がした。
コーヒーはまだ薄い。クリームソーダはまだ作ったことがない。ナポリタンも、ホットケーキも、自信がない。
でも、扉を開けることはできる。
ベルを鳴らすことはできる。
光を入れることはできる。
ガラス越しに京都の夜空が見えた。
月は出ていなく、雲の向こうで、たぶん、隠れていた。
もう一度考えてしまう。明日、誰か来るだろうか。
まあ、来なくても来てもどっちでもいい気がした。何度同じことを考えているんだろう。そんな自分が面白くつい、微笑んでしまう。
「よし」
空のカップを伏せ、和室に降り、布団に入る、と蝉の声はもう止んでいた。夜の京都が深く静かに感じる。




