2章 クリームソーダの娘(前編)
七月十八日、土曜日。
開店の日の朝、僕は四時半に目を覚ます。
正確には目を覚ましたのではない。眠っていなかった、と言うべきかもしれない。二時間眠っては起き、三十分眠っては起き、を繰り返しているうちに空が薄く青くなり始めた。布団から出てももう寝直すのは無理だった。
窓を開けると夜明けの京都の空気が和室にすっと入ってくる。湿度はあったけれど、まだ冷たかった。
一階に降り、とりあえず店の鍵を開け扉を全開にしてみる。
ベルが、カラン、と気持ちよく鳴る。
路地はまだ薄暗く、隣の家の壁が藍色から灰色にゆっくり色を変えていく。
サイフォンの前に立ち、一杯目のコーヒーを自分のために淹れてみる、と昨日よりは少し良かった。けれど、まだ薄い。
カウンターの椅子に座りそれを飲んだ。
頭の中では色々なことがいっぺんに動いていた。看板の「OPEN」の札はどこにあっただろう。エアコンは何度に設定しよう。お客が来たら、何を最初に言おう。お代をもらうとき、お釣りはどこから出そう。サイフォンを失敗したら、どうしよう。
一つずつ、対応していくしかなかった。
深く息を吸い、深く息を吐いた。
六時を過ぎ、外が明るくなってから本格的に店の準備を始める。近所のスーパーが七時に開く。そこで牛乳、卵、玉ねぎ、ピーマン、ベーコン、食パンを買ってきた。サンドイッチとナポリタンの材料。多すぎず、少なすぎず、その日の分だけを自分なりに考え購入を済ませる。
店に戻りそれらを冷蔵ショーケースに収め、バニラアイスのカップも念のため業務用の大きさのものを一日かけて開けるつもりで一つ入れておいた。
レシピノートをカウンターに置き、開いておく。基本メニューでもあるコーヒー、紅茶、クリームソーダ、ナポリタン、それぞれの場所に付箋を貼っておく。
「OPEN」の札は扉の内側の壁に立てかけてあり、木の小さな札で表に「OPEN」、裏に「CLOSED」と、白い塗料で手書きしてある。塗料はもうかなり剥げており、たぶん祖父が五十年か六十年前に自分で書いたものだろう。
七時半。
その札を扉の外側に出し、フックに吊るす。
「OPEN」
文字を外に向け、ベルがカランと鳴り扉が閉まった。カウンターの中に入り、ふう、と息を吐いた。
開店。
祖父の店が、もう一度、開いた。
一時間が経った。二時間が経った。誰も来ない。
最初の一時間はずっとカウンターの中で固まっていた。エプロンの紐をきっちり結びコーヒー豆の量を確認し、サイフォンに水を入れ、いつでもお客の注文に応えられるように、と構えていた。
二時間目になると僕はカウンターを出て店の中をぐるぐると歩き始めた。テーブルをもう一度拭き、椅子を整え、窓ガラスをもう一度磨き、レコードプレイヤーに針を落とそうとして、やめた。
三時間目には僕はもうカウンターの椅子に座り本を読んでいた。試験のレポートはもう書き終わっていたけれど続きを読んでいた。なんとなく、言葉のリズムが今の店の中の静けさに合っているように感じた。
路地を誰も通らなかった。
正確には何人かは通った。和菓子屋に行く近所の主婦らしき女性、自転車の高校生、宅配便のお兄さん。けれど、誰も、この路地の奥までは入ってこなかった。看板の小ささを考えればそれは仕方のないことだ。
お昼を過ぎ、僕はカウンターの中で自分のためにナポリタンを作る。
フライパンに油を引き、ベーコン、玉ねぎ、ピーマンを炒める。火が通ったら、茹でておいたパスタを加え、ケチャップを多めに入れよく混ぜる。最後に火を止め、粉チーズを振る。
レシピノートを横に開きその通りに作る。
一口食べてみる。と、まあ、それなりだった。
店で出せるかと言われると、まだ、ためらいがあった。でも、自分一人で食べる昼ごはんとしては十分だった。ケチャップの酸味が夏の昼間に少しありがたかった。僕はそれをカウンターの中で立ったまま食べていたけれど、外は、まだ、誰も通らなかった。
午後になると雲が増えはじめる。天気予報では、午後から雨、と言っていた。先ほど母から来たLINEにも「ちゃんと傘持って」とも書いてあった。母はそういう人だ。
雨はまだ降っていなかった。けれど、空気は確かに少しずつ重くなっていた。
僕はカウンターの椅子に座り、レシピノートを改めて最初から読み始めてみる。
一ページ目。
『一九六九年 六月三日 開店』
次のページからメニューが始まる。
ブレンドコーヒー、アメリカン、カフェオレ。それぞれに几帳面な字で分量と手順が書かれている。
ところどころに走り書き。
『最初のお客、近所の文房具屋のおじいさん。アメリカン。』
『今日、サンドイッチの卵を切らした。明日は買い足す。』
『コーヒー、二杯目、上手くいった。お湯の落ち方が、よかった。』
祖父は丁寧に毎日のことを書き留めていた。失敗も、成功も、お客の感想も。
読み進めるうちに、ふと、目が止まる。
一九六九年の六月の二週目あたり。
『今日、若いお嬢さんが来た。クリームソーダを頼まれた。メニューにはないが簡単なので作って出してみた。喜ばれた。明日からメニューに入れることにする。』
そして、その次のページにクリームソーダの基本レシピが新しく書き加えられていた。
僕はノートをしばらく見ていた。
若いお嬢さん。
六月の二週目。
祖父が、二十二歳のとき。
もしかして——と思いかけて僕は首を振った。
そんなはずはない。たまたまだ。クリームソーダなんて誰でも頼む。
そう思おうとして少し時間が経ったころ、外で雷の音が聞こえてくる。遠い、けれど、はっきりした音。窓の外を見てみると空は急に暗くなっていく。
雨が降り始めたのは三時を少し過ぎた頃。最初は、ぽつ、ぽつ、と石畳に落ちる音だったが、それがすぐに、ざあ、と勢いを増した。京都の夏の雨は降り方が極端だった。降る、と決めたら、本気で降る。
路地の入り口を誰かが急ぎ足で通り過ぎていく。傘を持っていない人らしく頭の上に新聞をかざしていた。
僕はベルが鳴ったらいつでも立ち上がれるように本を膝に置き構えていた。が、ベルは鳴らなかった。
そりゃそうだ。こんな雨の中、看板も出ていない、見えない路地の奥の喫茶店にわざわざ来る人はいない。
雨は三十分くらい激しく降った。そして、ぱたりと止んだ。止んだ後の路地は磨いたばかりの石みたいにつやつや光っていた。空気は少しだけひんやりとしている。扉を開け、外に出てみる。雨上がりの空気を深く大きく吸ってみる。路地の石畳にはいくつかの小さな水たまり。そのうちの一つに雲の切れ間から漏れた光が白く映っていた。
僕はしばらくその光を見て、それから、店の中に戻る。ベルが、カランと鳴り、見渡してみても店内には誰もいなかった。
時刻は四時半を回っていた。もうすぐ、閉店の時間だ。祖父の店の閉店は夕方の五時。レシピノートの最初のページにそう書かれていた。
「夕方五時閉店。それ以降は店を磨く時間。」
今日は磨く時間はないかもしれない、と思った。誰も使わなかったテーブルを何度磨いても磨いた感じがしない。
僕はカウンターの中で最後のコーヒーを淹れていた。今日五杯目の自分のための練習用の一杯。お湯の温度九十二度、撹拌、三十秒。
お湯が下のフラスコにゆっくり落ちる。
そのとき。
カラン、と、ベルが鳴る。
顔を上げ視線を扉のところは向ける、と誰かが立っていた。夕方の雨上がりの光の中で最初、逆光もあってか僕にははっきり見えなかった。なにか、白いものが見えた。白い、何か。
一歩、店の中に入ってきて扉が後ろで閉まるとベルがもう一度、鳴った。
そして、その人の輪郭がはっきり見えた。
女の子だ。
背は僕より少し低い。細身。白いワンピース。麦わら帽子。帽子のつばが顔の上半分に薄い影を落としていた。
彼女は店の中をぐるりと見回し、それから僕の方を見て、麦わら帽子をゆっくり脱ぐ。中から黒髪が現れた。
セミロングの後ろで一つに緩く束ねた髪。日に焼けていない白い肌。少し大きめの瞳。年齢はよく分からなかった。十九歳くらいかもしれないし、もう少し上かもしれない。けれど、僕と同年代に近い、というのはなんとなく分かった。
彼女は僕の方を見て軽く頭を下げてくる。
「こんにちは」
低くも高くもない、落ち着いた声だった。
「あ、いらっしゃいませ」
僕は慌ててカウンターから出ようとしてエプロンの紐に手を引っ掛けた。何でもなさそうな顔をしながら、それを直しもう一度立った。
「お好きな席にどうぞ」
彼女は、ふっと、小さく笑った。そして迷う様子もなくまっすぐ店の中を歩いていった。
奥のテーブルでもなく、カウンターでもなく、入り口の二人がけでもなかった。
窓際の席へ。
一番遠い道側の二人がけのテーブル。夕方の光が淡い四角を作っている、あの場所。彼女はその席に自然と座った。迷う気配はまったくなく、初めて来た店で何種類かの席の中から一つを選ぶときの、あの一瞬の躊躇いが、彼女にはなかった。
まるで、何百回も座ったことのある席にまた座る、という感じだった。
僕はその様子をカウンターの中から見ていた。
彼女は麦わら帽子を隣の椅子に置き、それから、テーブルの上に手を置き、しばらく、ぼうっとしているように見えた。
窓の外を見ているわけでもなく、テーブルを見ているわけでもなかった。ただ、その光の中に、いた。
僕はメニューを持ちテーブルに向かう。手書きで紙に書き写したメニュー。今朝、急いで作った、頼りないやつ。
「メニュー、こちらです」
僕はそれをテーブルの上に置いた。彼女は顔を上げ、メニューに目を落とした。
一秒、二秒。
それから、顔を上げ、僕を見た。
「あの」
「はい」
「クリームソーダ、ありますか」
僕は一瞬、答えに詰まった。
メニューには書いていなかった。レシピノートには書いてあった。けれど、今日のメニュー表には写していなかった。
「ええと、メニューには、ないんですが」
「あら」
彼女は少し首をかしげ、
「ノートにはありますよ」
ノート、と、彼女は言った。
僕はカウンターの上に開いて置いてあるレシピノートを目の端で確認した。そこから、彼女の席までは距離がある。ノートの中身は見えないはずだ。
「ノート、ですか」
僕は聞き返してしまう。
彼女は、にこ、と笑った。
「マスターのノート。あそこにありますでしょう。基本メニューの最後の方にクリームソーダのレシピ書いてありましたよね」
僕は何も答えられなかった。確かにクリームソーダのレシピはノートの最後の方に書かれていた。けれど、それを初めて来たお客さんがなぜ知っているのか。
僕は思わず聞いてしまった。
「あの、もしかして、前に、この店に……」
「ええ、まあ」
彼女はそれだけ言ってまた少し笑った。
「マスターにはお世話になりました」
マスター、と彼女は言った。
祖父のことだ。
「祖父を、ご存知だったんですか」
「ええ、よく」
当たり前のことのように彼女は言った。
当たり前のように言うので、僕はそれ以上、突っ込んで聞けなくなった。祖父は生前たくさんのお客さんと関わっていたはずだ。常連の若い女の子の一人や二人いてもおかしくない。
それでも、何か、引っかかるものはあった。けれど、その「引っかかり」を初対面の彼女に対して追及する勇気は僕にはなかった。
「では、クリームソーダ、作ります」
「お願いします」
彼女は軽く頭を下げ、僕はカウンターに戻った。
クリームソーダを僕は人生で一度も作ったことがなかった。ノートを開き必死に作り方を確認する。
『クリームソーダ。メロンシロップ三十ミリリットル。ソーダ水二百ミリリットル。バニラアイス、大さじ二杯ほど。さくらんぼ一つ。グラスは長身のものを使う。』
シンプルだった。店の冷蔵庫にはメロンシロップの瓶があった。半分くらい残っており、賞味期限を確認すると、ぎりぎりまだ大丈夫。ソーダ水はペットボトルで未開封のものを買い置きしておいた。バニラアイスは今日のために用意した業務用のカップ。さくらんぼは——なかった。
頭の中で急いで考える。近所のコンビニまで走れば五分。でも、彼女を待たせることになる。僕はもう一度ノートを開く。クリームソーダのレシピのその下に祖父の小さな走り書きがあった。
『さくらんぼ、なければなくてもよい。グラスの中で目立つものが一つあれば。』
僕は冷蔵庫をもう一度ぐるりと見回す。と、冷蔵ショーケースの中に夏ミカンのピールがあった。三輪さんから昨日の豆大福と一緒におまけでもらったやつ。「夏ミカンのお菓子、ようできてるんよ」と言って。
これでいいだろうか。
正解かどうかは分からない。でも、それを使うことにした。メロンシロップを量り長身のグラスの底に入れ、ソーダ水をゆっくり注ぐ。
シロップとソーダ水が最初、二層に分かれ、それから少しずつ混ざりかけながら緑色に染まっていく。
透明感のある深いエメラルドグリーン。
その上にバニラアイスをスプーンで一つ丁寧に乗せ、最後に夏ミカンのピールをグラスの縁に飾った。
僕はできあがったグラスを、しばらく、見ていた。
初めて作ったクリームソーダだった。
これでいいのか確信はなかったけれど、それをトレーに乗せた。
彼女のテーブルまでトレーを持っていく数歩がなぜかひどく長かった。
窓際の席。
彼女はテーブルの上で両手を軽く合わせていた。お祈りのような、待つような、不思議な仕草。
「お待たせしました」
僕はグラスを彼女の前に置いた。
彼女は顔を上げ、そして、グラスを見て——
一秒、止まった。
止まった、というのは僕の感じ方の問題かもしれない。実際にはほんのコンマ数秒のごく短い間だったのかもしれない。
けれど、その一秒の間、彼女の目の中で何かが、ふっと、動いた。
そして、彼女は、にこ、と笑った。
「ありがとうございます」
細い指でグラスをそっと両手で包み、それから、ストローには手をつけずにグラスを少し傾けて、口を縁につけ一口、飲んだ。
その瞬間、彼女の目が、ふっと、伏せられた。
まつ毛が長かった。まつ毛の下に、何かが、光った。僕は最初それが何か分からなかった。光のかげんでグラスの中の何かが、彼女の目に映ったのだと、思った。——でも、違った。
それは———涙だった。
一粒、彼女の目から、すっと、頬に落ちた。
一粒だけ。
彼女はそれを手で拭わなかった。拭うほどこぼれなかった。
一粒だけが、頬を、すっと、伝った。
それから、彼女はグラスを置き、僕を見た。
目はもう濡れていなかった。
「おいしいです」
そう言って、彼女は、静かに、笑った。




