51 代えがたいもの
室内は風が吹き荒び、紙切れから椅子まで、ありとあらゆるものが飛び回っている。
風の勢いはほとんど途切れず、1歩前へ進もうとしても、気づけば2歩後ろに下がっているような状況だ。
ファウラーは退屈そうな表情を浮かべてため息をついた。
「さっきの勢いはどうした? 煙はもうほとんど見えないが」
レティの周辺を漂っていた煙たちは、集まろうとするたびに風に散らされてしまう。
形を成していられるのはほんのわずかな間だけだ。
「目に見えるものだけがすべてとは限らないよ」
「ほう? では……」
ファウラーが指を鳴らすと、風はさらに勢いを増し、炎はレティの顔のすぐ前を掠め去っていく。
レティはつい目を瞑りかけたが、奥歯を強く噛み締め、ぐっと堪える。
取り繕った冷静さは、気を抜くと今にも崩れてしまいそうだ。
レティは拳を握りしめ、ゆっくりと息を吸う。
落ち着いて考えろ。
劣勢なのは想定通りだ。
目の前の恐怖に心を持っていかれるな。
ここで挫けてなるものか。
間近でみる炎が怖くないと言えば嘘になる。
でも、今は逸らしたくはない。
レティは目を見開くと、風の動きをじっくりと観察し始めた。
全体的には強さを増しているが、一瞬弱くなるタイミングがある。
よくよく見てみれば、炎はどれもすんでのところでレティを避けて通り過ぎている。
幸運の手紙を焼かないようにファウラーが避けているのか、はたまた幸運が味方しているのか。
「……どっちだって構わないさ」
自嘲気味にひとりごちて、レティはまた一歩足を踏み出した。
「何か言ったか?」
「……いいや」
「諦めたいなら受け入れよう」
「そっちこそ」
諦めるどころか徐々に鋭さを増すレティの眼光に、ファウラーは思わず身じろいだ。
どうしてそのような表情ができるのか、心底理解ができない。
弟子は来ない。煙は姿を見せる度にすぐに風で散らしている。
まともに前に進むこともできていないのに。
ファウラーは表面的には淡々と風と炎の魔術を行使し続けながらも、腹の奥では焦燥感に駆られていた。
本当は炎の渦にでも包んでしまいたいが、万が一にでも手紙が焼けるようなことはできない。
弟子を抑えて少し追い詰めてやれば簡単に終わると思っていたが、思いのほか諦めが悪い。
近頃は魔力量が多いという弟子の噂の方がよく聞くぐらいだ。
論文からは技量は感じられたが、このような場で活かせるようなものとは到底思えない。
それだというのに、どうしてこの女の目はまだ光を失っていないのか。
そう思っている間に、また風の隙間に煙の筋が浮かぶ。
ファウラーは舌打ちして風の勢いを強めると、いとも簡単に煙は立ち消える。
「何度やっても同じことだ」
そう言い終わって、ファウラーの動きは一瞬止まる。
そこにあったのは、小さな違和感。
なぜ、何度もできるのか?
「レティ・ヘイゼ」
「何だ、改まって」
「貴殿は魔力はほとんどないはずだな」
「知っての通りだ」
「……なぜ」
「魔術を使い続けられるのかって?」
ファウラーは眉をひそめながら頷いた。
「まさか弟子がすでに抜け出したのかとも考えたが、周囲には俺ほどの魔力は感じない」
「さぁ。どうしてだろうね」
いたずらじみた表情を浮かべるレティに、ファウラーはつい一歩前へと足が出る。
本人に直接手を下せば、自分の求めているものはすぐに手に入る。
それが一番手っ取り早いことはわかっている。
そうすべきだという気持ちがあるのに、心の奥底で何かが抑制をかけていた。
「ああ、そういえば」
「何だ」
「君が欲しいものを見せていなかったね」
レティは懐から手紙を取り出し、見せつけるように眼前に掲げる。
ファウラーは食い入るように手紙を見つめると、ほんの一瞬だけ恍惚とした表情を見せた。
もう何も躊躇っている場合ではない。
そんな焦燥感が彼を駆り立てる。
そうしてファウラーが一歩踏み出すとともに、風はレティへと突き刺さるように勢いを増し始めた。
「それは俺が手に入れるはずだったものだ。早く渡せ」
「手に……入れるはずだった……?そうか、君は……」
「やっと所在地がつかめたと思ったら、貴殿に競売ごと潰されたからな」
「だから……やたらと絡んできていたのか」
「随分探していたものを横取りされた気分だったものでな」
「わからないな。君に本当に必要なのか?」
「さあ、な」
ファウラーはほんの少し目を細めると、手の中でバチバチと魔力を躍らせる。
「今はただ、それは俺の手にあるべきだと強く思うだけだ」
レティは手紙をしまうと、肩をすくめてかぶりを振った。
「手紙は他者の手に渡るべきじゃない。本人に届くべきだ」
「本来であれば、そうだろうな。だがもう『それ』は手紙であって手紙ではないのだ」
「手紙は、手紙だ」
「わからないやつだな」
赤く光るそれは、風と炎を伴って勢いよくレティへとぶつかっていく。
彼女は器用にそれを避けていくが、息も上がり、限界が近づいていることが見て取れる。
「もう少し、か」
ファウラーが口の端に笑みを浮かべると、つられたように風の渦が躍り出る。
と、その時。レティに避けられた炎は風に煽られ、部屋中に火の粉が舞い上がり始めた。
それは室内を漂っていた紙切れに飛びつくと、瞬く間に予期せぬ炎が現れる。
しまった、と思った時にはもう火の手は風に乗って炎の渦となり、レティの目前に迫っていた。
ファウラーが思わず一歩前に踏み出し、手を伸ばすと——突然視界が白く染まり始めた。
「……あ?」
それが煙だと脳が理解した時には、もうそれに包み込まれた後だった。
すぐさま片膝をついて姿勢を低くするが、その白い塊は逃してはくれない。
「クソ……」
すぐさま風を呼び寄せ煙を散らそうとしても、またすぐに煙が覆いかぶさってくる。
ファウラーは息苦しさに顔をゆがませた。
逃れようと身体を動かしても、まるで水中にいるかのように動きは鈍く、思うように動かない。
気づけば、視界は煙に覆われ、真っ白になっていた。
レティはファウラーに近づくと、身を屈ませ、視線を合わせる。
「苦しいか?」
「……お前の、か……」
「ああ。私の魔術だ」
「こんなのどこに……いや……ずっとここに……?」
「さあな」
ファウラーは苦しげに肩を上下させながら、心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
レティは思わぬ反応に顔面を引き攣らせる。
「何だ君……気持ち悪いぞ」
「知らない……」
「は?」
「こんな魔術は……知らない。理解し難い魔術だ……こんなに嬉しいことはない」
「……想定外だ」
「なぜだ? 魔術師ならば……魔術に興味を持つのは当然だろう」
「……知りたいか」
「愚問だな」
「幸運の手紙を諦めることが条件にあっても?」
「応じよう」
「こうなるとは思わなかったが……まぁ……取引だな」
「……何だ?不満か」
「いや……随分とあっさりしたものだな、と。あんなに執着していたのに」
「勿論今もこの手に収めたいと思ってはいるさ。でもそれが条件ならば飲むしかない」
「そうか」
「……魔術への興味は、何物にも代えがたい」
「ああ……なるほど、ね」
レティは思わぬ展開に拍子抜けしたが、大きく息を吸い込んで自分を奮い立たせると、喋りやすい程度に煙を散らせる。
「私の要求は3つだ」
「多い……な」
「君は自分が拘束されているような状況だと理解すべきだ」
「そういえばそうだったな……」
「まず、幸運の手紙は諦めること」
「承知した」
「ユールを解放しろ」
「応じよう」
「それと……」
真っ白い空間の中で、ファウラーの視界にはレティのワインレッドの髪だけが妙に鮮やかに映った。
ついその色に見蕩れて、襟元に伸びてきた腕を拒み忘れるほどに。
レティはファウラーの襟元をつかみ上げると、その目を真っ直ぐ見据えて口を開いた。
「二度と私の弟子に、手を出すな」




