52 煙と魔術とインク壺
予想だにしなかった挙動を目にして、ファウラーはつい息を呑んだ。
若い華奢な女とは思えぬほど腕の力は強く、そう簡単には振りほどけそうにない。
何より、間近でその榛色の瞳に見つめられると、抗おうという気持ちとは裏腹に、どうしてか逸らすことができなかった。
「いいな?」
「…………ああ」
レティは答えを確認すると、半ば乱暴に腕を放した。
同時に白い煙は霧散し、室内は色を取り戻し始める。
急に開かれた空気に咽るのも厭わず、ファウラーはその煙を追いかけて立ち上がった。
「従わせているのか?いやそれでは魔力効率が……」
ファウラーはぶつぶつと呟きながら、わずかに宙に残った煙をなぞり目を細めた。
「どうやっている?魔術式は?」
「ユールの解放が先だ」
「ああ……そうだったな」
ファウラーは足の踏み場もないほど荒れ果てた部屋を見回し、面倒くさそうに舌打ちをした。
腕を振り払うと、動きに合わせて再び大きな風が吹き、床に散らばっていた品々は一気に壁際へと追いやられる。
「君……意外と雑なんだな」
「早く片付いたんだからいいだろう」
「それはそうだけれど……」
レティ自身も決して片づけは得意でないが、これを片付いたというのはさすがにどうかと思う。
そんな視線を意にも介さず、ファウラーは荷物の山から黒い球体を拾い上げると、懐から取り出した小袋にしまい込んだ。
途端、レティは屋敷についた時から感じていた胸のざわめきのようなものがすっと落ち着くのを感じる。
振り返ったファウラーを見やると、明らかに顔色が良くなっている。
やはり少なからず彼にも影響を及ぼしていたのだろう。
ファウラーは少し考えこむような顔つきを見せてため息をつくと、部屋のドアへと向かった。
「テオ」
「はい師匠」
「彼女の弟子を解放しろと伝えに行け」
「承知しました」
テオはファウラー越しにレティへ向かってほほ笑むと、先ほど倒れたとは思えないほど元気よく走り出した。
「これでいいか?」
「いいだろう」
「それで? ご教示願おうか。紫煙の魔術師殿?」
ファウラーは手近な棚に腰を掛けると、足を組み楽しそうに笑みを浮かべた。
人にものを頼む態度とは到底思えないその様子に、レティはつい眉にしわを寄せるが、いちいち構っていては話が進まないとかぶりを振った。
「別にそういう訳じゃないが……煙や水蒸気は粒子が小さくて軽いから魔力の消費も少ない」
「それは理解ができる。物体の質量や重量が大きければ消費量が多いのは基本中の基本だ」
「君には言うまでもないか」
「無論だ。貴殿が魔力の消費量を抑える研究をしていることは知っているが……実は魔力量が多い、というわけではあるまいな」
「そうだったらここにはいないさ」
レティは右耳のピアスに触れ、自嘲気味に笑った。
「普通の人間の魔力量がコップ1杯分だとすると、私は……そうだな、ああ」
レティは転がっていたインク壺を手のひらに乗せる。
「このぐらいかな」
それは、万年筆のペン先が入る程度の小さなインク壺だった。
ファウラーは思わず眉間にしわを寄せ、顔を引き攣らせる。
「それでよく魔術師になろうと思ったな」
「よく言われるよ」
レティは聞き飽きた台詞に肩をすくめた。
「この通り、私が1回に使える魔術はかなり限られているが……魔術の良いところは、込めた魔力が尽きるまで効果が継続されることだ」
「回数か。容量が小さい分、魔力の補充も早いというわけか」
「そういうことだ。回数を重ねて量を確保している」
「面白い。魔力量がある人間には却って思いもしない観点だな」
「だろうね。普通なら考える必要がないことだ」
レティは再び煙を呼び寄せると、それらはまた淡い灰色の尾をうねらせる。
ファウラーはそれらをじっくりと見つめると、動きを指でなぞった。
触れようとするそばから形が崩れていく様子は、確かによく見る煙のそれだった。
「従わせているようにも見えるが……察するに、多用途な指示はできないのだろうな。呼び寄せているだけか」
「厳密なことは言えないが……まあ、散らすか集めるかぐらいだと思ってくれて構わない」
「最初からやらなかったのは……術者との距離か」
「さすがだね。……風が強くて近づけないときはどうしようかと思ったが、うまく近づいてくれて助かったよ」
ファウラーは小さく舌打ちをする。
視界が白くなり始めたのは、確かにある程度近づいた時だ。
自分があと少しだと思った時、レティもまたあと少し近づければと思っていたに違いない。
「俺をあれだけ煽っておいて、そちらは随分と入念に仕込んでいたわけだな」
「ああ……わざと煽るようなことを言ったのはすまないと思っているよ」
「わざとか」
「普通に戦えば当然君の方が強いことはわかっていたからね。内容については謝らないよ。うちの仕事に余計な手出しをされたことも、ユールを連れ去ったことも怒ってはいるんだ」
「それは……悪かったな」
「まぁ……結果がこうなるとは思わなかったが」
「俺にはない視点で興味深い」
「そういうものか」
「……なぁ」
ファウラーは手で顔面を覆い、顔を伏せ黙り込む。
しばし考え込むような表情を見せたが、レティの方へ向き直ると、意を決して口を開いた。
「途中まででいい。悪用しないと誓う。魔術式を見せてはくれないか」
「構わないよ」
「………………いいのか?」
自分から頼んでおきながら、あまりにも早い答えにファウラーは狼狽えた。
「ああ、別に。見たとして、やろうとは思わないだろうから」
レティは懐から細かい字がびっしりと書かれたメモ用紙を取り出し、適当なところでちぎるとファウラーに差し出した。
わずかに震える指でそれを受け取ると、ファウラーは食い入るように目を走らせる。
そして——大声で笑いだした。
なんだ、これは。
「……そうだな。嫌だ。真似できたとしても絶対にやりたくない。あまりにも複雑だし……一歩間違えれば自分が水に沈むな。魔力量が多いほどできないし、やりたくない魔術だ」
「最初に私の師匠に見てもらった時もそんな反応だったよ。ユールは毎回びしょ濡れになりながら練習している」
「驚いたな……君の弟子がこれを?」
「ああ」
「一番向いていないだろう」
「私もそう思うよ」
レティは呆れたような目つきで、でもどこか嬉しそうに笑みをこぼした。
ファウラーはもう一度式を眺め、レティを横目で見やると少しだけ目を伏せる。
「変わったな」
「え?」
「なんでもない。参考になった」
「取引としてはこれで問題ないか?」
「そうだな……充分……いや、過分か」
「そうか?」
「貴殿はもう少し自分を評価したほうがいい」
「はぁ」
「……受け取れ」
ファウラーは前を向くと、魔術式の書かれたメモ用紙を差し出した。
レティは渡したときと同じように受け取ろうと手を伸ばす。
と、ファウラーは思い切りその腕をつかみ引き寄せた。
「君、何を……」
レティは自重を支えきれずそのまま崩れ落ちそうになる。
ファウラーはレティを支えつつ反対の手で懐から細長い紙切れを取り出すと、見せつけるようにレティに翳す。
紙に記された文字は赤く煌々と光り、次の瞬間には2人を囲むように炎が揺らめき立ち上がった。
「弟子には手を出すなと言われたが、貴殿自身については何も言われていないのでね」
「……そうだったね」
レティは苦虫を擦り潰したような顔を浮かべる。
彼の人間性に期待した自分が愚かだったか。
掴まれた腕を振り払うと、一歩後ろに下がる。
触れかかった炎を避けようとして、レティは違和感に気づいた。熱くない。
「これって……」
その時だった。
室内が突然、音を忘れたかのように静まり返る。
口から吐く息が白く濁り始めた。
開かれたままの扉の方を2人が見やった時には、異様な速度で迫り来る氷の茨が部屋に入り込んだところだった。
「待っ……」
茨は炎をものともせず、ファウラーへと真っ直ぐ伸びる。
全身を取り囲み動きを封じると、その鋭く伸びた先端を喉元へ突きつけた。
氷の茨の後ろから、声が響く。
「遅くなってすみません、先生」




