21 氷と壁
「先生。起きてください」
ユールの声でレティの意識はゆっくりと浮上してゆく。
甘いはちみつと、コーヒーの香り。ユールがよく飲む組み合わせである。
頭は起きようとしているのに、身体は泥のように動きが鈍い。
レティはまだソファで横になったまま、クッションに埋もれている。
薄目を開けると、ユールが向かい側でマグカップを口に運んでいるところだった。
「おはよう……」
「おはようございます、先生」
時計を見やると、時刻は4時を指している。
レティは大きく伸びをすると、のそのそと立ち上がった。
「顔洗ってくる……。コーヒー、私の分も用意してくれるか」
「承知しました」
窓越しに見える遠くの空が少しずつ明るくなってきてはいるが、外は薄暗い。
通りに見える街灯の光がやけに目につく。夜はまだ続くと告げているようだった。
飲み屋街の路地裏を進むと、中庭のように広くなっている所がいくつかある。
複数の気パイプの排熱先が面しているその場所は、こもった空気が集まって比較的暖かい。二人がたどり着いた場所もその1つだった。
レティはポケットから煙草を取り出すと、火をつける。
煙は輪の形になり、徐々に薄く細く広がっていく。
糸ほどの細さになったそれは、二人の背後を通り越して遥か遠くへと伸び広がっていく。
「先生、それは?」
「私の魔力を入れて伸ばした煙だ。他の魔力とぶつかれば分かる。狩りで獲物が侵入したときにわかるように張っておく紐の代わりだ」
「ああ、なるほど」
「周囲が明るくなるほどの魔力反応からして、かなりの魔力持ちだということはわかっている。もちろん間違う可能性もあるけれど、参考にはなるだろう」
レティの目の前にある大きな鍋には、スパイスの効いたスープがたっぷりと入っている。
ユールが借りてきた魔道具は、温め続けるにはぴったりだった。
「ああ、いい匂いですねぇ。一口ぐらい、食べてもいいでしょうか?」
「今はだめだ。煙を張ったとはいえ、いつ来るか分からないんだからね」
「ちぇ。残念です」
そう言い残すと、ユールはレティから離れ、入り組んだ路地に繋がる道の脇に移動した。
魔術で作った冷気の配置と風の流れからして、サラマンダーの侵入経路の可能性が高いのは2か所。どちらへもすぐに届く位置だ。
周辺の地図は頭に叩き込んである。凍結させる魔道具のスリングショットは、すぐ取り出せるようにポケットに入れてある。
ケージも持った。大丈夫。前回のようにはいかないはずだ。
それでもユールは不安をぬぐい切れなかった。緊張のせいか呼吸も浅くなる。
仮眠を挟んだおかげで体は少し軽くなったが、疲れもまだ完全に取れたわけではない。
一旦呼吸を整えよう。そう思った時だった。
「ユール、右だ!」
レティの声が響く。
ユールはすぐさま右の路地へと飛び出した。
薄暗い路地に燦然と輝く濃いオレンジ色。見間違えるはずもない。サラマンダーだ。
蒸気パイプを辿ってやってくるサラマンダーに速度を合わせ、足を踏み出す。
今度は障害物もない。足元も転びそうなものはないことを確認してあった。
サラマンダーもユールに気づいたのか一瞬躊躇するような動きをしたが、急には止まれないようだった。
捕獲用の袋を持ったユールの腕が伸びる。
が、その動きも読まれていたのか、すんでのところでサラマンダーは速度を上げ、ユールの腕は空を切って反対側へすり抜けていった。
「おっ……と」
振り返ると、レティのかなり近くまで迫っている。
このままレティが捕まえられれば……と思った二人だったが、案の定、そううまくは行かなかった。
匂いを感じ取ったのか急に方向を回転させ、サラマンダーは反対側の路地へと走り出していった。
「――――ふぅ」
ユールは息を整える。ここまでは想定内だ。むしろ予定通りと言ってもいい。ユールは路地を走り出した。
反対側の路地がどこに続いているのかはすべて頭に入っている。
蒸気パイプがどう続いているか。冷気がどう流れているか。温かい空気はどこに向かうか。
ユールは道を覚えるのが得意だ。迷路のような道も、地図がわかっていれば味方でしかない。
いくつかの道を曲がった先。輝く鱗が目に入った。
「いた」
スリングショットをサラマンダーの背後に撃ち放つ。着地点から氷の塊が茨のように広がった。
サラマンダーの動きが一瞬鈍くなるが、サラマンダーからの熱ですぐに氷の塊が溶ける。
ユールは徐々に魔力の出力を上げてスリングショットを撃った。
撃つたびにサラマンダーも熱をあげてすぐに溶かしてくるが、おかげでユールとサラマンダーの距離はじりじりと近くなっていった。
もうあと少し、というところでサラマンダーは思いもよらぬ方向へ動いた。
冷気が流れてくる方向だ。
「しまっ……た」
急いでスリングショットを撃つが、もう遅い。サラマンダーはすり抜けて冷気の奥へと向かって走り去る。
落ち着いて考えてみれば至極簡単なことだ。氷の塊のそばの方が冷たいに決まっている。
ユールは急いで頭の中の地図を思い出す。
まずい。
この先は途中までしか覚えていない。
それでも足は止まらず進み続ける。
少しずつ夜明けが近づいているが、まだ路地裏は薄暗い。鱗の輝きを見失うこともない。
今のうちに考えろ。どうにかするんだ。
その先に進まれたら本当に脚力の戦いだ。それならともかく、人間が入り込めない狭さや高さに進まれればそう簡単には捕まえられなくなるだろう。
レティには自分が走り回れば良いと息巻いたが、正直なところ体力も気力も精一杯だ。
何よりレティはかなり疲れている様子だった。おそらくユールが寝た後も長い間作業をして、ほんのわずかしか寝れていないはずだ。
どうにか夜明けまでに終わらせて、ゆっくりと眠りたい。
迷路であれば行き止まりに追い込むこともできるが、この付近の路地はどこかしらに繋がっている。
考えろ。
スリングショットが汗で落ち滑りそうになる。
慌てて握りなおすと、ふいにレティの言葉を思い出した。
(焦っているときに君が使うとあたり一帯が氷漬けになりかねないね。)
――行き止まりがないなら作ればいいのだ。
視界の端で指の銀色が鈍く光る。
ユールは両手の指輪をすべて外し、魔力制限の壁を破っていく。
一気に息を吸い込んで指先に意識を集中させると、バチリと音を立てて青白い火花が散る。
握る力を強めて震えを無理矢理抑え込み、サラマンダーと自分を囲い込むようにスリングショットを撃った。
吐いた息が真っ白になり、サラマンダーの目の前に巨大な氷塊が聳え立つ。
氷の壁だ。
いくら発熱したとて、そう簡単に溶かせる量ではない。
圧倒的な力の差を前に、サラマンダーは一瞬熱を出したが、すぐ諦めたのか、その場で固まり動かなくなった。
ついに動きの止まったサラマンダーを、ユールの手が優しく捕える。
ケージに入るよう促すと、しぶしぶといった様子で入ってくれた。
蓋を閉め、絞り出した魔力をケージの調温機能に流し込む。
ホッと一息ついた瞬間、ユールは崩れるように地面に倒れ込んだ。
「よかっ……た……」
明らかに魔力の使いすぎだ。
足はもう一歩たりとも動かない。
先生には褒めて貰えるだろうか。
……褒められた動きではないか。きっと怒る。
しばらくそのままぐったりとしていると、聞き覚えのある息遣いと足音が近づいてきた。
「ユール。」
「先生、ここです。無事です」
「…………よかった」
空がよく見える。気づけばもうかなり明るくなっていた。
街灯の灯りが消え、夜の終わりを告げた。




