十一.敵意に慣れた日常
妬みや憎しみの眼差しを受けるのには、慣れていた。
嫌だと思う事があったのも、確かだ。けれども、平気だった。
本当に怖いのは、そんなことじゃない。
確かにあった存在が消えてしまう事。そして、それが、忘れ去られてしまう事。
その恐怖の方がもっと恐ろしいのだと、私は、知っている。
だから、平気だった。平気になれた。
こちらを睨んでくる相手を、有花は、逸らすことなく見つめた。
こう見ると、彼はとても整った顔をしている。さらさらとした黒髪に触ってみたいなと、場違いな事を考えていた。
「聞いてるの!?」
「……?」
どうでもいいことを考えていたせいで、反応が遅れた。
なんだったかと考える前に、首を傾げてみせる。
それがいけなかったのか、彼は余計に、怒りを露にしていた。
「よせ、雛!」
彼のすぐ傍に居た松風は、後ろから両腕を掴んで、彼を引き止める。
「なんで、止めるの!? 僕は、納得いかない!」
ああ、そうだ、思い出した。彼は、松風の同級生の、
「柚木雛」
彼の名前を呼ぶと、雛は、ピタリと動きを止め、驚いた表情でこちらを見ていた。
「な、なんで、僕の名前知ってるの? 僕、まだ教えてない」
「お世話になるエデンの住人の名前くらいは、記憶しているつもりよ?」
有花が、ニコリと笑みを浮かべて答えると、雛は我に返ったのか、慌てて表情を戻した。
ギロリと、睨みつけてくる。
その様子に、笑みが浮かびそうになったのを、有花は何とか抑えた。
こんなことで喜びを感じるなんて、マゾヒストだと思われたら適わない。
有花だって、嫌われるのは嫌だ。けれども、それが、エデンの住人相手だと違ってくる。
彼らには、嫌われた方がいいのだ。
有花は、ここの住人と仲良くするつもりは毛頭もない。あの日の再現をして、彼らに嫌われること。それこそが、有花がここに来た本来の目的なのだ。
朱夏のように、優しさを見せられるのは、最も回避したい状況であった。
どの道、最後には嫌われるのだから、好かれるなどあってはならないのだ。
今、目の前の男に、どれだけ酷い台詞を吐こうかと、思考を廻らせた。
「!」
しかし、途中でそれを停止させた。ここには、陽がいたのだ。
彼は、何が起こっているのか分からないと言った様子でこちらを窺っている。
(……彼を巻き込むわけにはいかない)
「柚木雛。あなたの話に付き合いましょう。でも、今は食事中よ。だから、これが終わった後でいいでしょう?」
これでも、自分にとっては精一杯の譲歩だった。
本当なら話し合いなんて、億劫で仕方がなかった。どれだけ話しても平行線を辿るのは、目に見えている。
「分かりました」
雛は、有花が話し合う意志を見せた事に納得したのか、そう頷くと、席についた。
それを、見やった後、有花も席に着く。
「だ、大丈夫っすか」
不安げな声が真正面から掛けられる。
「ええ、大丈夫よ」
有花は、彼に不安な思いをさせないように出来るだけ笑みを浮かべて答える。
彼は、それで納得したのか、安堵の息を吐いた後、食事を再開させた。
さて、自分も食事を再開させようと箸を手にした時、視線を感じ、そちらへ向ける。
大人組3人と目が合った。
初深は明らかに目が笑っていないと分かる笑みを寄越し、朱夏はエールの意味でか胸の前で拳を握り、碧は呆れたような溜息を吐いて、視線を逸らした。
先ほどの騒ぎに、見事助けに入らなかった3人を、流石と褒めるべきだろうかと、問うたところで虚しいだけだと思い、有花はすぐに考えるのをやめた。
(せっかくの美味しい料理が不味くなったわ)
そう思いながらも、有花は、箸を動かすのは、止めなかった。
◇
食堂では、誰が来るか分からないので、邪魔が入らないようにと、有花は、雛に離れにある自室に来るようにと伝え、その場を去った。
それから、数十分後、自室の扉をノックする音が響いて、有花は扉を開けた。
「……まつかぜ?」
しかし、そこに立っていた人物は、雛ではなく、松風だった。
開口一番になんと言おうか考えていた有花は、予期せぬ相手の登場に、一瞬、頭が白くなった。
「雛が、二人きりで話して来いって……」
松風の台詞に、有花は、してやられたという事に気付いた。
あの時の雛は、確かに怒っていた。アレは、演技ではなかっただろう。けれども、自分と話すよりも、松風と話をさせた方が良いと考えついたのかもしれない。
有花は彼に考える時間を与えてしまった自分を叱咤したくなったが、後の祭りである。
けれども有花は、すぐに表情を元に戻した。スッと無表情を浮かべて、目の前の彼を見る。
「話すことは、何もない。2年前に、はっきりと気持ちは伝えたはずよ」
そう告げると、松風の表情が曇った。あの時の事を思い出しているのだろう。
けれども、有花は、それに構わず、開けた扉を閉めようと腕を動かした。
しかし、ガシリと松風に扉を掴まれ、阻止される。
それでも、必死で閉めようと力を入れるが、女である自分が男である松風の力に敵うはずもなく、扉はビクリともしなかった。
「離して」
有花は強くそう言った。けれども、離す気配を見せない。
「離してと、言ったのよ」
少し声を大きくして、言葉を繰り返した。けれども、それでも、彼は手を離さない。
「……逃げないで、話聞いてくれるんなら、離してやる」
「話す事なんて、」
「どっちか決めろ」
容赦ない言葉に、有花は、溜息を吐いた。
どの道、是と言わなければ、離してもらえないのだ。選択権なんて初めから無いに等しい。
「分かったわ。話を聞く」
そう告げると、松風はやっと扉から手を離した。
「とりあえず、中に入って。話はそれから」
そう促して、有花は彼に背を向けた。
有花は、彼と少し距離を開けて、正面に座った。
「で? 話は何?」
有花は、こうなったら、早く話させてとっとと帰らせようと思った。そう思いつくと、有花の行動は早かった。間をおくことなく、単刀直入に問いかけた。
松風は、その言葉に、姿勢を正した。
「悪かった」
「!?」
彼が何をしたのかと言うと、土下座だった。
額が畳に着いてしまうのではないかと言うくらい、深くお辞儀している。
「ちょ、何、止めてよ」
これには、有花も驚いた。慌てた表情を浮かべて、彼の肩に手を置いて顔を上げさせた。
しかし、真剣な瞳とかち合い、有花は、言葉を発せなかった。
「あんた、俺を助けてくれたんだろ? 詳しくは分かんねぇけど、でも、もし、あんたがあそこで俺を突き放さなかったら、月影に何されてたか分かんねぇ」
「何を言ってるの? そんなことある訳ないじゃない。あの時言った言葉は、私の本心よ。醜い男は嫌いなの。あんた達みたいな、エデンの人間は嫌いなのよ」
思い起こさないで、そう告げたかった。
自分にとっては、アレは、大きな失態だったのだ。
だから、
あの日の出来事など、もう、忘れて欲しかった。




