第九十九話 年度末模擬戦
第九十九話 年度末模擬戦
年度末模擬戦は、学院の大訓練場で行われた。
普段の授業で使う訓練場より広く、観覧席まで設けられたその場所には、一年生だけでなく、上級生や教師たちの姿もある。
王国騎士との模擬戦。
その言葉だけで、生徒たちの空気は変わっていた。
憧れ。
緊張。
恐れ。
そして、どこか浮ついた期待。
騎士とは、この国における武の象徴だ。
学院で学ぶ者にとって、それは将来の目標であり、届くかもしれない頂の一つでもある。
けれど俺は、その言葉に綺麗なものだけを感じられなかった。
「全員、聞け」
訓練場の中央で、イザベラ先生が低く言った。
「これから年度末模擬戦を行う。相手は王国騎士二名。目的は勝敗ではない。今の自分が、実戦経験者にどこまで通じるかを知ることだ」
生徒たちが息を呑む。
「勘違いするな。これは処刑台じゃない。訓練だ。負けることも訓練だ。だが、最初から諦めるための場でもない」
イザベラ先生の視線が、代表に選ばれた生徒たちを順に見た。
「今の自分を、身体で知れ」
その言葉の後、二人の騎士が前へ出た。
一人は、背の高い獣人の騎士だった。
灰色がかった狼の耳。
落ち着いた瞳。
無駄なく鍛えられた体躯。
威圧するような気配はない。
けれど、立っているだけで分かる。
強い。
「カイル・ローヴァンだ」
獣人の騎士は、静かに名乗った。
「模擬戦とはいえ、こちらも手は抜かない。だが、壊すための剣は振らない。訓練とは、次に立つためのものだ」
その声には、不思議な重みがあった。
もう一人は、金茶色の髪を後ろへ流した、整った顔立ちの騎士だった。
鎧も所作も洗練されている。
いかにも貴族出身らしい余裕がある。
けれど、その目は笑っていなかった。
「バルドレック・ガイゼル」
彼は軽く顎を上げた。
「王国騎士に剣を向ける栄誉を与えられたのだ。せいぜい有意義な時間にするといい」
丁寧な言葉だった。
でも、言葉の奥にあるものは、妙に冷たい。
最初に呼ばれたのはセシリアだった。
相手はカイル。
セシリアは木剣を構え、顎を上げる。
「王女だからと手加減されたら、そちらを無礼と受け取るわ」
カイルは静かに頷いた。
「承知しました。一人の学院生として、お相手します」
試合は、綺麗だった。
セシリアはシルの糸を細く張り、足場と視線を誘導した。
以前なら、ただ相手を絡め取るだけだった糸が、今は道を作り、道を消し、相手の判断を一瞬だけ鈍らせる。
だが、カイルはその一瞬を見逃さない。
糸が張り切る前に踏み込み、守護の薄い膜で糸の圧を受け流しながら、セシリアの木剣を弾いた。
次の瞬間、木剣の先がセシリアの肩口で止まる。
「そこまで」
イザベラ先生の声が響く。
セシリアは悔しそうに唇を噛んだ。
「糸を攻撃だけでなく、移動と誘導に使った判断は良い」
カイルが言った。
「次は、張る前の隙を消すことです」
「負けた相手に褒められても、あまり嬉しくないわ」
「では、次は勝ってください」
「言われなくても、そうするわよ」
セシリアは顔を赤くしながらも、真っ直ぐに頷いた。
次はローゼリアだった。
「遠慮したら許さないわよ」
「遠慮できる相手には見えません」
カイルの返答に、ローゼリアは満足そうに笑った。
ブライアの荊が伸びる。
速い。
細い。
鋭い。
ただ絡めるのではなく、逃げ道を狭め、カイルの踏み込み先を消していく。
ローゼリアは強くなっている。
けれどカイルは、守護の魔法を必要最低限だけ展開し、荊を壊さず、受け止めすぎず、隙間を通った。
無理に押し潰さない。
真正面から否定しない。
受け止める場所を選び、進む場所を選ぶ。
最後は、ローゼリアの足元に木剣を滑り込ませ、軸を崩した。
「そこまで」
「……やるじゃない」
ローゼリアが、倒れかけた体勢のまま笑った。
「制圧力は高い。だが、相手を追い込むほど、自分も型に入る」
カイルは淡々と言う。
「追い込んだ先に何を置くか。それを一つ増やせば、もっと厄介になる」
「褒めているのか、文句を言っているのか分かりにくいわね」
「褒めています」
「なら、受け取っておくわ」
ここまでは、本当に訓練だった。
厳しい。
けれど、次に繋がる。
負けても、立ち上がる理由がある。
空気が変わったのは、バルドレックが前へ出てからだった。
「さて」
バルドレックは木剣を肩に乗せ、薄く笑った。
「ローヴァンの守りごっこも、学院生には良い慰めになっただろう。だが、実戦はそこまで優しくない」
カイルの耳が、わずかに動いた。
「ガイゼル卿。これは学院の模擬戦だ」
「分かってるよ、カイル。だから木剣を使ってるだろ」
その口調に、周囲の生徒たちがわずかにざわついた。
同じ王国騎士に対する言葉ではない。
少なくとも、そう聞こえなかった。
「せっかく王国騎士を相手取るんだ。本来の決闘に準じた形式にしよう」
バルドレックは笑った。
「降参するか、気絶するまで。簡単だろう?」
イザベラ先生の目が鋭くなる。
「それは学院生の領分ではない」
「無論、真剣は使いませんよ。魔法も致命に至らぬ範囲に留める。あくまで、精神の在り方を学ばせるためです」
「木剣でも、人は壊れる」
カイルが低く言った。
バルドレックは鼻で笑う。
「お前は詳しそうだな。壊れる側の痛みには」
空気が凍った。
「平民上がりの獣人が騎士になれる時代だ。学院生にも夢を見せてやらないとな」
カイルの表情は変わらない。
けれど、木剣を握る手に、わずかに力が入った。
「騎士の剣は、弱い者を壊すためのものではない」
「綺麗事は似合うな、お前には。守護の悪魔だったか? 檻の番でもしていればいい」
バルドレックはそう言って、視線を代表生徒へ移した。
「それで、誰が来る?」
最初に前へ出たのは、レオス・バルドだった。
深い緑の髪。
灰緑の目。
いつも通り、静かな顔。
「レオス」
イザベラ先生が声をかける。
「無理に受ける必要はない」
「無理ではありません」
レオスは短く答えた。
その声に迷いはなかった。
でも俺には、その背中が少しだけ硬く見えた。
非契約者として、ここで退けば笑われる。
そんなものを背負っているように見えた。
「非契約者か」
バルドレックが笑う。
「剣一本で王国騎士に挑む。健気なものだな」
「よろしくお願いします」
「礼儀だけはあるようだ」
試合が始まった。
レオスは速かった。
足裏に魔力圧を定着させ、踏み込みを鋭くする。
剣には薄く魔力圧が纏われ、木剣とは思えない重さで打ち込まれる。
受けない。
逸らす。
間合いをずらす。
相手の癖を読む。
派手さはない。
でも、確かに強い。
レオスの木剣が、バルドレックの肩口に届きかけた。
観覧席がどよめく。
俺も、思わず息を呑んだ。
やっぱりレオスは弱くない。
非契約者だから届かないんじゃない。
届くための道を、自分で削ってきた剣だ。
だが、バルドレックの目が冷えた。
「……なるほど」
次の瞬間、拒絶の圧が厚くなる。
レオスの踏み込みが、弾かれた。
木剣が腹を打つ。
続けて肩。
膝。
レオスの身体が沈む。
それでも、彼は立とうとした。
「その踏み込みは悪くない。非契約者なりに考えたものだ」
バルドレックは、倒れかけたレオスの手首を木剣で打った。
乾いた音が響く。
「だが、それが限界だ」
レオスの指が震える。
それでも、木剣を離さない。
「剣を握る指だけは立派だな」
もう一撃。
今度は指を狙った。
レオスが木剣を落としかける。
「落とすな。非契約者から剣を取れば、何が残る?」
「そこまでだ、ガイゼル卿」
イザベラ先生の声が鋭く飛ぶ。
だが、バルドレックは笑った。
「彼は降参していません。決闘形式に同意したはずです」
レオスは、膝を震わせながらも立ち上がろうとした。
その姿が、逆に止めにくくしていた。
「お前たち持たざる者は、いつもそうだ」
バルドレックは続ける。
「少し届きかけると、自分も同じ場所に立てると勘違いする」
木剣が、レオスの背中を打った。
「王国騎士に必要なのは、願望ではない。選ばれるだけの器だ」
レオスが地面に膝をつく。
それでも、まだ意識はある。
「降参するか?」
バルドレックが問う。
レオスは答えなかった。
ただ、木剣を握っていた。
その沈黙を見て、バルドレックがもう一度木剣を振り上げる。
カイルが一歩動いた。
「そこまでだ」
その声は、低かった。
イザベラ先生も同時に前へ出る。
バルドレックは、わざとらしく肩をすくめた。
「分かりました。どうやら学院の決闘は、ずいぶん優しいらしい」
レオスは治療担当の方へ運ばれた。
顔は伏せたまま。
それでも、木剣だけは最後まで離していなかった。
俺の拳が、知らないうちに握られていた。
次に呼ばれたのは、ニカだった。
「ニカ、無理しないで」
俺が言うと、ニカは肩をすくめた。
「さっきの見たら、無理じゃ済まない気もするけどね」
「だったら」
「でも、下がらないよ」
ニカは前を見た。
「レオスが下がらなかったのに、私が下がったら、なんか嫌じゃん」
ニカらしい言葉だった。
でも、胸がざわついた。
バルドレックはニカを見ると、楽しそうに笑った。
「次は獣人か。丈夫そうで助かる」
「試してみる?」
「言葉も理解するのか。結構なことだ」
セシリアの顔が険しくなる。
ローゼリアの目が冷たく細まる。
カイルの耳も、わずかに伏せた。
「同じ形式でいいな?」
バルドレックが問う。
ニカは笑った。
「いいよ。丈夫かどうか、試してみれば?」
「そうか。獣人は素直でよろしい」
試合が始まった。
ニカは低く走った。
バンデットが衝撃を逃がし、足裏から放出された力が踏み込みを変える。
バルドレックの木剣が振られる。
ニカは受けない。
ずらす。
逃がす。
返す。
その動きは、以前よりずっと洗練されていた。
ニカの手が、バルドレックの膝裏へ届く。
体勢が崩れた。
訓練場がどよめく。
「……獣のくせに」
バルドレックの声が低くなった。
ニカは笑った。
「騎士のくせに、思ったより遅いね」
次の瞬間、拒絶の魔法が膨れ上がった。
ニカの身体が弾かれる。
木剣が脚を打った。
「獣人は脚が自慢なのだろう?」
もう一撃。
「なら、まずそこを潰す」
ニカが片膝をつく。
バルドレックは止まらない。
「どうした。丈夫なのだろう?」
木剣が脇腹を打つ。
ニカの息が詰まった。
「痛みに強いというのは便利だな。どこまでが訓練か、こちらも試せる」
「ガイゼル卿」
カイルの声が飛ぶ。
バルドレックは振り返りもしない。
「うるさいな、カイル。お前の守りごっこと一緒にするな」
ニカが歯を食いしばって立とうとする。
「立つか。やはり獣はしつこい」
背中に木剣が落ちた。
俺の足が、一歩前に出かける。
セシリアが息を呑み、ローゼリアが俺の腕を掴んだ。
「まだよ」
ローゼリアの声も震えていた。
まだ。
その言葉が、喉に刺さる。
バルドレックは倒れたニカの近くに立ち、見下ろした。
「戦えなくとも使い道はある。荷運び、囮、盾役、見世物。獣人は人より用途が多くて羨ましい」
ニカの指が、土を掴んだ。
「私は……誰の道具でもない」
「なら、道具以下だ」
その瞬間、頭の奥で何かが切れかけた。
「言葉を慎め」
カイルが言った。
バルドレックはようやくカイルを見た。
「何だ? お前には耳が痛かったか?」
カイルは答えない。
ただ、じっとバルドレックを見ていた。
「降参するか、獣人」
バルドレックが問う。
ニカは、笑った。
弱々しく。
でも、確かに笑った。
「……まだ」
「そうか」
木剣が振り上げられる。
「そこまでだ!」
イザベラ先生の声が響いた。
今度は命令だった。
バルドレックは、ゆっくりと木剣を下ろした。
「承知しました」
だが次の瞬間、ニカの足元の地面に拒絶の魔法が叩き込まれた。
直接ではない。
あくまで地面。
けれど、その衝撃でニカの身体が転がった。
「失礼。手元が滑りました」
バルドレックは笑った。
ニカは治療担当のいる端へ運ばれた。
肩で息をしている。
意識はある。
でも、立ち上がれない。
俺の中で、熱が膨れ上がっていた。
次の代表が呼ばれる。
獣人の女生徒だった。
名前は、よく知らない。
合同訓練で何度か見たことがある程度の子だ。
彼女は、木剣を握ったまま動けなかった。
視線は、治療担当の側に座らされたニカへ向いている。
自分が次にああなると、もう分かっている顔だった。
木剣の先が、小さく震えている。
バルドレックが笑った。
「どうした。獣人はまだ残っているのだろう?」
誰も、すぐには声を出せなかった。
「次は少し長く持ってくれると助かる」
その瞬間、俺は前へ出ていた。
「私が出ます」
訓練場が静まり返る。
イザベラ先生の視線が飛んできた。
「アイリス。お前は代表ではない」
「分かっています」
「これは勝手に割り込む場ではない」
「だったら」
俺は、怯えている獣人の女生徒を見た。
「あの子に、降参するまで殴られろって言うんですか」
「アイリス」
ニカの声が聞こえた。
かすれていた。
「だめ。あいつ、嫌な感じする」
「うん」
分かっている。
でも、止まれなかった。
観覧席がざわつく。
「アイリス・シエーレが出るのか?」
「でも、あいつ魔法は使えないんだろ?」
「顕現もできないって聞いたぞ」
「双子悪魔って言っても、扱えないなら意味ないじゃないか」
「王国騎士に敵うわけない」
バルドレックが、それを聞いて笑った。
「ほう。噂の双子悪魔の契約者か」
彼の目が、俺を値踏みする。
「魔法も使えず、顕現もできず、顕装もできない。なるほど、噂とは便利なものだな」
俺は黙って木剣を構えた。
「王女殿下とヴァルンハート家に近づき、商会の金で名を売っただけの小娘が、騎士に剣を向けるか」
口の中が、ひどく乾いていた。
「美しい見世物ではある。だが、戦場で顔の造作は役に立たん」
「黙れ」
自分でも驚くほど、低い声だった。
空気が止まる。
バルドレックの眉が動いた。
「今、貴族であり王国騎士である私に、何と言った?」
俺は、もう言葉を選べなかった。
アイリス・シエーレとしての綺麗な口調ではない。
前世の俺が、怒鳴っていた。
「黙れって言ったんだよ、クソ野郎」
ざわめきが、悲鳴に近いものへ変わった。
バルドレックの顔から、笑みが消える。
「よかろう」
彼は木剣を構えた。
「ならば、教えてやる。身の程というものを」
試合は、最初から一方的だった。
俺は踏み込む。
バルドレックの拒絶が、それを弾く。
見えない壁に叩きつけられたように、身体が揺れる。
それでも剣を振るう。
届かない。
もう一歩。
弾かれる。
木剣が肩を打った。
息が詰まる。
次に脇腹。膝。背中。
視界が揺れる。
「どうした、双子悪魔の契約者」
バルドレックの声が降ってくる。
「魔法はどうした? 顕現は? 顕装は?」
木剣が、俺の背中を打った。
「ああ、できないのだったな」
痛い。
でも、倒れない。
「非契約者に同情し、獣人に肩入れする。実に美しい友情ごっこだ」
また拒絶の圧。
身体が後ろへ弾かれる。
「だが、持たざる者は持たざる者。獣は獣。小娘が怒ったところで、価値は変わらん」
「黙れ」
「またそれか」
バルドレックは笑った。
「お前は本当に面白いな。持っているのに使えない。価値があるように見えて、中身は空だ」
俺は何度も斬りかかる。
届かない。
弾かれる。
打たれる。
それでも、退かなかった。
勝てない。
届かない。
それでも、退く理由にはならない。
その時、バルドレックの視線が、ほんの一瞬だけ外れた。
俺ではない。
訓練場の端。
治療担当の近くにいるニカ。
「そうだ。獣人は丈夫だったな」
彼の木剣が動いた。
拒絶の魔法が、俺へ向かってくる軌道から、わずかにずれた。
違う。
今の軌道は、俺じゃない。
こいつは、ニカを見た。
「あぶない!」
カイルの声が響いた。
同時に、イザベラが動く気配がした。
でも、遅い。
まさか王国騎士が、模擬戦中に、休んでいる生徒へ魔法を向けるなんて。
その一瞬の遅れ。
俺は地面を蹴った。
防御なんて取れない。
剣を構える余裕もない。
考える暇もない。
それでも、そこに立つ以外の選択肢はなかった。
「アイリス!」
ニカの声。
次の瞬間、見えない何かが俺の身体を叩いた。
拒絶の魔法。
弾くための力。
寄せ付けないための力。
お前は来るなと、押し返す力。
それが無防備な身体の奥まで響いた。
息が詰まる。
足が浮く。
視界が白く弾ける。
地面に叩きつけられた瞬間、右肩が焼けるように熱くなった。
偶然じゃない。
制御の乱れでもない。
こいつは、今、ニカを狙った。
頭の奥で、低い声が響いた。
――壊せ。




