第百話 壊せ
三十七話から始まった第二章もいよいよクライマックスです!
第百話 壊せ
音が、遠かった。
誰かが叫んでいる。
ニカの声だ。
分かっているのに、すぐには返事ができなかった。
肺の奥が、硬い手で握り潰されたみたいだった。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。
喉がひゅっと鳴って、胸の内側だけが空回りする。
頬に、地面の冷たさがある。
砂の匂い。
土の匂い。
訓練場に染みついた汗と木剣の乾いた匂い。
その全部が、妙に近かった。
俺は倒れている。
分かっている。
さっき、バルドレックの拒絶の魔法を受けた。
いや、違う。
俺に向けられたんじゃない。
ニカに向けられた。
戦えなくなって、治療担当の近くにいたニカに。
さっきまで、あいつに脚を打たれ、脇腹を打たれ、背中を打たれ、それでも笑って立とうとしていたニカに。
あいつは、狙った。
偶然じゃない。
制御の乱れじゃない。
手元が滑ったわけでもない。
ニカを見た。
そして、拒絶の魔法をずらした。
「アイリス!」
ニカの声が聞こえた。
かすれていた。
痛そうだった。
それでも、俺を呼んでいた。
返事をしなきゃいけない。
大丈夫だって言わなきゃいけない。
なのに、喉が動かない。
胸が痛い。
背中が痛い。
身体の中に、まだ見えない衝撃が残っている。
拒絶の魔法が、皮膚ではなく内側を叩いた感覚が抜けない。
でも、その痛みよりも。
右肩が、熱かった。
焼ける。
皮膚の下に、火種を埋め込まれたみたいだった。
熱は刻印から始まって、肩へ、首筋へ、胸へ、腕へ広がっていく。
痛みとは違う。
火傷とも違う。
血の流れに、赤黒い何かが混ざっていくような感覚。
指先が、地面を掴んだ。
爪の間に砂が入る。
痛い。
でも、その痛みは遠い。
頭の奥で、声がした。
――壊せ。
低い声だった。
ラグナの声。
いつもより近い。
耳で聞こえたんじゃない。
頭の奥でもない。
もっと深い場所。
俺の怒りの底に、最初からいたみたいな声だった。
――壊せ。
ニカを狙った。
レオスを侮辱した。
非契約者だから届かないと言った。
持たざる者だと笑った。
剣を握る指を打った。
木剣を離さなかったレオスを、さらに踏みにじった。
ニカを道具だと言った。
荷運び。
囮。
盾役。
見世物。
戦えなくても使い道はあると笑った。
あの獣人の女生徒は、まだ戦ってすらいないのに震えていた。
それを見て、あいつは笑った。
次は少し長く持ってくれると助かる。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
胸の奥で何かが膨らんだ。
怒りだ。
間違いなく、怒りだった。
こんなものを許してはいけない。
止めなきゃいけない。
ニカを、これ以上傷つけさせちゃいけない。
そう思った。
確かに、そう思った。
なのに、そのさらに奥で響く声は、もっと単純だった。
――壊せ。
守れ、じゃない。
止めろ、でもない。
助けろ、ですらない。
壊せ。
目の前の敵を。
目の前の拒絶を。
目の前に立っている、邪魔なものを。
ただ、壊せ。
指に力が入る。
土を掴んだ。
爪が軋んだ。
腕が震える。
肘が地面を押す。
肩が燃える。
息を吸った。
胸が裂けるみたいに痛い。
それでも吸った。
空気が肺に入ると同時に、熱がさらに広がった。
ゆっくりと、身体を起こす。
膝が地面を擦った。
視界が揺れる。
訓練場の輪郭が滲む。
誰かが息を呑んだ。
誰かが、やめろと言った気がした。
でも、遠い。
俺の目に映っているのは、一人だけだった。
バルドレック・ガイゼル。
金茶色の髪。
整った顔。
貴族らしい余裕を貼り付けた、気持ち悪い笑み。
いや。
今はもう、笑っていなかった。
俺が立ち上がるのを見て、バルドレックの眉がわずかに動いた。
「……まだ立つか」
声が聞こえた。
さっきまでの見下す声。
でも、ほんの少しだけ、芯が揺れている。
「しぶとい小娘だ」
俺は答えなかった。
口を開けば、何かが漏れそうだった。
言葉じゃない何かが。
右肩が熱い。
熱が、皮膚の下で脈打つ。
一度。
二度。
三度。
鼓動と同じではない。
もっと荒い。
もっと暴力的な脈動。
俺の周りで、空気が揺れた。
赤黒い何かが、視界の端を舐める。
髪が頬に張りついた。
その一房が、黒でも白でもない色に滲んでいるように見えた。
赤。
黒。
炎のようで、影のような色。
背中の後ろで、何かが膨らんだ気がした。
翼じゃない。
角じゃない。
尾じゃない。
そんなものは、まだどこにもない。
ただ、魔力の揺らぎが、そういう形に見えた。
額の上で揺れる影が、二本の角のように。
背中から片側へ膨らむ赤黒い揺らぎが、翼のように。
腰の後ろで流れる熱が、尾のように。
生徒たちのざわめきが、遠くで歪んだ。
誰かが膝をついた音がした。
誰かが、気持ち悪い、と呟いたような気がした。
でも、どうでもよかった。
どうでもいい。
俺はバルドレックだけを見ていた。
「何だ、その目は」
バルドレックが木剣を構える。
「まさか、まだ続けるつもりか?」
俺は一歩、前へ出た。
足の裏が地面に触れる。
その瞬間、地面の感触が妙にはっきり分かった。
砂の粒。
硬く踏み固められた土。
さっき自分の身体が叩きつけられた場所の微かな凹み。
全部が分かる。
なのに、身体の痛みは遠かった。
肩も、胸も、脇腹も、膝も、背中も痛いはずなのに。
痛みはある。
でも、それは止まる理由にならなかった。
むしろ、前へ進む理由に変わっていた。
「来るな」
バルドレックが言った。
その言葉と同時に、拒絶の魔法が展開される。
見えない壁。
さっきまで俺を何度も弾いた力。
近づくな。
触れるな。
届くな。
お前はここに入るな。
そんな意思を形にしたような圧が、俺とバルドレックの間に立つ。
俺は地面を蹴った。
いつもの踏み込みじゃなかった。
重心を落とす。
膝を使う。
肩を入れる。
剣の軌道を作る。
そういう、訓練で覚えた手順が何もなかった。
ただ、前に出た。
地面が割れるような音が、後ろから遅れて聞こえた。
視界が流れる。
バルドレックの目が見開かれる。
拒絶の壁に、俺の拳が触れた。
普通なら弾かれる。
さっきまでは、そうだった。
拒絶は、触れることを許さない。
踏み込むことを許さない。
近づくことを許さない。
でも。
赤黒い熱が、拳から噴いた。
見えない壁に、亀裂が走る。
音がした。
ガラスが割れる音に似ていた。
けれど、もっと鈍く、もっと嫌な音だった。
拒絶が砕ける音。
守ろうとしたわけではない。
正義のためでもない。
誰かを救うためですらない。
ただ、そこに邪魔なものがあった。
だから壊す。
それだけだった。
「――ッ!?」
バルドレックの顔が歪む。
俺の拳が、拒絶の壁を抜けた。
木剣は、もう手にあったのかどうかも覚えていなかった。
邪魔だった。
剣の長さ。
構え。
型。
間合い。
全部が遅かった。
だから、拳を握った。
「ニカに」
自分の声が聞こえた。
低い。
掠れている。
俺の声なのに、俺の声じゃないみたいだった。
「何をした」
バルドレックが口を開く。
「たかが獣――」
最後まで言わせなかった。
拳が顔面に入った。
硬い感触。
骨に当たる感触。
その奥で、何かが潰れる感触。
バルドレックの身体が横へ飛んだ。
訓練場の土を削りながら、数歩分転がる。
歓声はなかった。
悲鳴も、すぐにはなかった。
空気が、凍っていた。
俺はもう一歩踏み出した。
身体が軽い。
違う。
軽いんじゃない。
重さを無視している。
足に負担がかかっているのが分かる。
膝が悲鳴を上げているのが分かる。
筋肉が、さっきまでの打撃で傷んでいるのも分かる。
でも、止まらない。
痛みが、遅い。
俺の動きに追いついていない。
「貴様……!」
バルドレックが起き上がる。
鼻から血が流れていた。
整っていた顔が、もう少し歪んでいる。
それでも、彼は拒絶の魔法を張った。
「来るな!」
今度の拒絶は、さっきより厚い。
何枚も重ねた壁のように、空気が歪む。
俺は走った。
一歩目。
土が跳ねる。
二歩目。
視界の端で、誰かの髪が揺れる。
三歩目。
拒絶の壁が目の前に来る。
拳を振るった。
砕けた。
もう一枚。
膝で踏み込む。
砕けた。
さらに一枚。
肩から突っ込む。
砕けた。
拒絶が壊れるたびに、右肩の刻印が熱くなる。
熱い。
熱い。
熱い。
でも、その熱が気持ち悪くない。
むしろ、身体の奥がそれを求めている。
壊すたびに、何かが開く。
もっと。
もっと。
もっと壊せ。
バルドレックの木剣が振られる。
見えた。
遅い。
さっきまで避けられなかったはずの軌道が、今は線になって見える。
俺は首を傾けた。
木剣が髪をかすめる。
同時に、バルドレックの手首を掴んだ。
拒絶がそこにも纏われていた。
触れるな、という力。
手を離せ、という力。
俺の指が、赤黒く滲む。
握った。
拒絶が、手の中で砕けた。
「ぐ、あ……!」
バルドレックが呻く。
そのまま引き寄せた。
顔が近い。
もう一撃。
頬に入った。
今度は、骨の位置がずれる感触があった。
バルドレックの片膝が落ちる。
俺は止まらない。
腹。
肩。
顔。
拳が入るたびに、身体のどこかが軋む。
俺の身体も。
バルドレックの身体も。
どちらが壊れているのか、一瞬分からなくなる。
「アイリス!」
遠くで声がした。
セシリア。
分かる。
でも遠い。
「やめなさい! もう――」
言葉が途中で滲む。
意味が、遠ざかる。
次にローゼリアの声。
「アイリス! 聞こえてるの!?」
聞こえている。
たぶん、聞こえている。
でも、身体が反応しない。
いや。
違う。
反応したくないんじゃない。
俺の中で、声よりも大きいものがある。
――壊せ。
それが、全部を塗り潰していく。
ニカを狙ったから。
レオスを侮辱したから。
獣人の子を怯えさせたから。
理由はあった。
確かにあった。
俺は怒っていた。
間違いなく、怒っていた。
なのに、拳を振るうたびに、その理由が少しずつ剥がれていく。
ニカのため。
レオスのため。
あの子のため。
そういう言葉が、遠くなる。
残るのは、もっと単純なもの。
目の前にある。
壊す。
拒絶がある。
壊す。
敵がいる。
壊す。
バルドレックが後ろへ下がる。
拒絶の壁をさらに張る。
「拒絶しろ! 近づけるな!」
魔法が歪む。
俺の足元が弾かれた。
身体が少し浮く。
でも、そのまま前へ倒れ込むように踏み込んだ。
普通なら、体勢が崩れる。
普通なら、受け身を取る。
普通なら、次の動作に繋がらない。
でも俺は、その崩れすら使った。
地面に手をつく。
指で土を抉る。
身体を回す。
蹴る。
バルドレックの膝に入った。
彼の脚が折れるように曲がり、身体が沈む。
「ぐあああッ!」
叫び。
痛みの叫び。
それを聞いた瞬間、口元が動いた。
怒っていた。
さっきまで怒っていた。
なのに、唇の端が上がった。
歯を食いしばる形じゃない。
痛みに耐える形でもない。
笑っていた。
俺は、笑っていた。
それに気づいた瞬間、背筋の奥が冷えた。
違う。
笑うところじゃない。
俺は怒っているはずだ。
ニカを狙われて。
レオスを踏みにじられて。
あの子が震えていて。
だから怒っている。
なのに。
バルドレックの拒絶が砕ける音がするたびに、口元が勝手に上がる。
拳が肉を打つ感触に、奥底の何かが反応する。
壊れる。
壊れていく。
もっと。
もっと。
――もっと壊せ。
「来るな……!」
バルドレックの声が変わっていた。
最初の命令ではない。
見下すための「来るな」ではない。
怯えた声だった。
「来るな、化け物……!」
化け物。
その言葉が、ほんの少しだけ耳に残った。
化け物。
誰が?
俺が?
視界の端で、赤黒い魔力が揺れる。
拳には、稲妻のような筋が走っていた。
火ではない。
雷でもない。
赤黒い破壊の魔力が、皮膚の上を這っている。
呼吸が荒い。
胸が痛い。
でも、笑っている。
俺は、笑っている。
「違う……」
小さく呟いた気がした。
何が違うのか、自分でも分からなかった。
違う。
これは俺じゃない。
そう言いたかったのか。
違う。
まだ足りない。
そう言いたかったのか。
どちらなのか分からない。
バルドレックが最後の拒絶を張った。
分厚い。
さっきまでの壁とは違う。
彼の周囲全体を包むような、球状の拒絶。
何も入れない。
何も触れさせない。
自分以外のすべてを遠ざける魔法。
バルドレックの本質そのものみたいだった。
拒む。
見下す。
排斥する。
同じ場所に立たせない。
入ってくるな。
触れるな。
届くな。
俺はそれを見た。
そして、笑った。
たぶん、笑った。
足を踏み込む。
拒絶に触れる。
赤黒い亀裂が広がる。
バルドレックの目が見開かれた。
「なぜ……」
亀裂が深くなる。
「なぜ止まらない……!」
止まる?
何で?
目の前にあるのに。
まだ壊れていないのに。
拳を引いた。
肩の奥が焼ける。
筋肉が悲鳴を上げる。
それでも振るう。
拒絶の殻が砕けた。
破片なんてない。
見えない力が、見えないまま壊れただけ。
でも、その音は確かに聞こえた。
バルドレックの顔が、目の前にあった。
殴る。
もう一度。
さらにもう一度。
鼻が潰れている。
歯が飛んでいる。
片目は腫れて塞がりかけている。
頬の形が、最初と違う。
もう、戦いじゃなかった。
バルドレックは木剣を握れていない。
拒絶の魔法も、まともに形を保てていない。
足は崩れ、腕は震え、声は潰れている。
終わっている。
誰が見ても、終わっている。
それでも、俺の拳は止まらなかった。
「アイリス! もういいから!」
ニカの声。
かすれている。
痛そうで、泣きそうで、それでも必死な声。
一瞬だけ、胸の奥で何かが揺れた。
ニカ。
そうだ。
ニカを守ろうとした。
いや、違う。
守ろうとした?
俺は何をしている?
目の前に、バルドレックがいる。
壊れている。
でも、まだ残っている。
まだ息をしている。
まだ形がある。
まだ。
まだ。
まだ壊せる。
右肩が、ひときわ強く熱を放った。
頭の奥で、ラグナの声が笑った気がした。
――壊せ。
俺は拳を握った。
指の関節が鳴る。
赤黒い魔力が、拳に集まっていく。
今までの一撃とは違う。
これは、倒すためじゃない。
止めるためでもない。
怒りをぶつけるためですら、もうない。
終わらせるための一撃。
それを振り下ろせば、バルドレックは死ぬ。
分かっていた。
分かっているはずだった。
なのに、腕が止まらない。
「アイリス!」
セシリアの声。
「やめなさい! 戻ってきなさいよ!」
ローゼリアの声が重なる。
「アイリス! そんな顔、あなたに似合わないわ!」
そんな顔。
俺は、今、どんな顔をしている?
分からない。
ただ、頬が引きつっている感覚がある。
口元が上がっている感覚がある。
目が熱い。
視界が赤黒い。
バルドレックの怯えた顔だけが、はっきり見える。
拳を振り下ろした。
その瞬間、銀灰色の壁が割り込んだ。
「守護展開、最大出力!」
カイルの声。
幾重にも重なる防壁が、バルドレックと俺の間に出現した。
一枚じゃない。
二枚でもない。
何層もの壁が、重なる。
淡い銀灰色の光。
狼の牙のような紋様。
盾というより、群れを囲う結界みたいだった。
守るための力。
拒絶とは違う。
お前は来るな、ではない。
ここから先へ行かせない、でもない。
守る。
中にいるものを死なせない。
それだけの意志が、壁になっている。
俺の拳が、その壁に触れた。
触れた瞬間、赤黒い魔力が噛みついた。
壁が軋む。
バチバチと音を立てながら、衝撃音が辺りに響き渡る。
カイルが何かを叫んだ。
「イザベラ殿!」
その声が、遠くで響いた。
次の瞬間、赤い何かが俺の腕に絡んだ。
血の鎖。
血の糸。
腕に。
肩に。
腰に。
脚に。
胴に。
ブラッドの拘束。
イザベラの力。
分かる。
止めようとしている。
俺を。
俺を止めようとしている。
何で。
目の前に、まだ壊れていないものがあるのに。
まだ終わっていないのに。
腕を引いた。
血の拘束が軋む。
カイルの防壁が震える。
もう一度、拳を押し込む。
壁に亀裂が入った。
銀灰色の光に、赤黒い線が走る。
誰かが悲鳴を上げた。
カイルの息を呑む音がした気がした。
イザベラが何かを言った。
でも、分からない。
言葉がもう、形にならない。
喉の奥から、音が出た。
声じゃない。
言葉じゃない。
「あ、ああ……」
自分の喉が震える。
胸の奥で熱が膨らむ。
「あああああああああああああああッ!」
咆哮だった。
人の声じゃない。
怒鳴り声でもない。
泣き声でもない。
獣の声ですら、もっと生き物らしい。
これは違う。
悪魔が、人の喉を借りて吠えているみたいな音だった。
血の拘束が伸びる。
何本かが切れた。
腕が少し前へ進む。
カイルの防壁がさらに割れる。
奥に、バルドレックが見えた。
怯えた目。
腫れた顔。
開いた口。
何かを言っている。
聞こえない。
聞く必要もない。
壊す。
壊す。
壊す。
壊せ。
壊せ。
壊せ。
頭の中が、その言葉だけになる。
セシリアの声がした。
ローゼリアの声がした。
ニカの声もした。
でも、それは遠い。
水の底より遠い。
届かない。
俺の中まで届かない。
血の拘束が、もう一度強く締まった。
痛みが走る。
その痛みすら、邪魔だった。
力を込める。
破る。
千切る。
全部、壊す。
「……すまん、アイリス」
その声だけが、不思議とはっきり聞こえた。
イザベラの声だった。
次の瞬間、赤い線が視界を走った。
「ブラッド――制圧術式、《断血衝》」
首筋に、冷たいものが触れた。
いや、冷たいんじゃない。
赤い衝撃。
身体の中の血が、一瞬だけ逆流したような感覚。
心臓の拍が、一つ飛んだ。
胸の奥で、熱が暴れた。
右肩の刻印が焼ける。
赤黒い魔力が、最後に大きく膨らむ。
まだ。
まだ壊せる。
まだ、目の前に。
拳を伸ばそうとした。
でも、指が動かなかった。
膝から力が抜ける。
視界が落ちる。
音が遠ざかる。
熱が遠ざかる。
誰かが、俺の名前を呼んでいた。
セシリアか。
ローゼリアか。
ニカか。
分からない。
分からないまま、地面が近づく。
倒れる。
その途中で、ほんの一瞬だけ思った。
俺は、何をしようとしていた?
ニカを守ろうとした。
そうだったはずだ。
レオスの悔しさを、踏みにじらせたくなかった。
あの獣人の子を、あんな目に遭わせたくなかった。
だから前に出た。
だから怒った。
だから。
だから、これは。
本当に、それだけだったのか。
意識が沈む直前。
右肩の奥で、まだ赤黒い熱が燻っていた。
その熱は、優しくなかった。
正しくもなかった。
守るためのものでもなかった。
ただ、壊すために燃えていた。
大訓練場に、歓声はなかった。
王国騎士との模擬戦。
年度末の訓練。
そのはずだったものは、もうどこにも残っていない。
遠ざかる意識の中で、最後に残ったのは。
壊れかけた拒絶の残滓と。
赤黒い熱と。
自分の中にいる怪物の、確かな気配だった。




