第百一話 怪物の片鱗
第百一話 怪物の片鱗
目を開けた瞬間、最初に見えたのは白い天井だった。
訓練場の空ではない。
大訓練場の高い壁でもない。
土の匂いも、木剣の乾いた匂いも、もうしない。
鼻に残っているのは、薬草と消毒液の匂いだった。
医務室。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
瞬きをする。
瞼が重い。
喉が乾いている。
身体中が、鈍く痛む。
肩。
背中。
脇腹。
膝。
腕。
拳。
痛みは、どこか一か所ではなかった。
身体全体が、重い布を何枚も巻きつけられたみたいに動きにくい。
けれど、その中で一つだけ、明らかに違う感覚があった。
右肩。
痛みではない。
熱だった。
燃えるような熱ではない。
あの時みたいに、身体の奥から赤黒い火が広がっていくようなものでもない。
もっと小さい。
もっと深い。
火が消えた後の炭の奥に、まだ赤いものが残っているような熱。
刻印のある場所が、皮膚の奥で静かに燻っていた。
俺はゆっくり息を吸った。
胸が痛んだ。
その痛みで、記憶が一つ戻る。
バルドレック。
拒絶の魔法。
ニカ。
治療担当のそばにいたニカを、あいつは見た。
そして、魔法の軌道をずらした。
俺は、その前に飛び込んだ。
拒絶の魔法が身体の内側を叩いた。
肺が潰れたように息ができなくなった。
地面に叩きつけられた。
その後。
右肩が焼けた。
声がした。
――壊せ。
喉が、少し震えた。
俺は視線だけを動かして、自分の右肩を見る。
服の下にある刻印は見えない。
でも、そこにあることは分かる。
ラグナ。
たぶん、あれはラグナの声だった。
壊せ。
ただ壊せ。
守るためでも、正義のためでも、誰かを救うためでもなく。
目の前にあるものを破壊するための力。
それが、ラグナなのだと。
俺はようやく、ほんの少しだけ理解した気がした。
反対の肩にも意識を向ける。
そこにも、確かに刻印はある。
ラグナと対になる、もう一体の契約の証。
けれど、そちらは静かなままだった。
あの時も。
今も。
何も返してこない。
声もない。
熱もない。
痛みもない。
俺はまだ、そちらの名前以外、何も知らない。
右肩だけが、まだ燻っている。
破壊だけが、俺の中に爪痕を残していた。
「起きたか」
声がした。
顔を向けると、椅子に腰掛けたイザベラがいた。
腕を組み、背を椅子に預けている。
いつものように不機嫌そうな顔だったが、目の下には薄く疲れが見えた。
「……イザベラ先生」
「気分はどうだ」
「身体中が痛いです」
「それで済んでいるなら上等だ」
イザベラは淡々と言った。
その声を聞いて、俺は一番聞かなければならないことを思い出す。
「ニカは……?」
「生きている」
返事は早かった。
「骨は折れていない。打撲と、内側への軽い衝撃はある。だが、命に関わるものではない。今は別室で寝かされている」
息が抜けた。
胸が痛む。
でも、その痛みよりも、安心の方が先に来た。
「レオスは……?」
「手首と指を痛めている。腫れはあるが、折れてはいない。しばらく剣は握らせない」
「そう、ですか」
レオスが木剣を離さなかった姿が、脳裏に浮かぶ。
バルドレックに手首を打たれ、指を狙われ、それでも膝をつきながら木剣を握っていた。
非契約者から剣を取れば、何が残る。
あの言葉が、また腹の奥を冷やした。
俺は唇を噛む。
そして、もう一つ聞いた。
「バルドレックは」
イザベラは、少しだけ黙った。
その短い沈黙が、胸に刺さる。
「生きている」
俺は、思わず息を吐いた。
けれど、その息が完全に抜ける前に、イザベラは続けた。
「カイル殿が守らなければ、死んでいた」
呼吸が止まった。
分かっていた。
覚えている。
俺は、最後の拳を振り下ろそうとしていた。
あれは、倒すためじゃなかった。
止めるためでもなかった。
殺す一撃だった。
認めたくなくても、身体が覚えている。
赤黒い魔力が拳に集まった感覚。
バルドレックの怯えた顔。
カイルの銀灰色の壁。
イザベラの血の拘束。
それでも俺は止まらなかった。
止まれなかった。
「……そう、ですよね」
「覚えているか」
「はい」
喉が乾いて、声が掠れた。
「全部ではないです。でも、覚えています」
「なら話は早い」
イザベラは椅子から少し身を起こした。
その目は、教師の目だった。
騎士の目でもあった。
「お前がラーテラルの前に出たことは責めない」
俺は黙って聞いた。
「バルドレックがやったことも、見逃すつもりはない。模擬戦中、治療担当の側に下がっていた生徒へ魔法を向けた。あれが偶然でないことは、カイルも私も見ている」
胸の奥が少し熱くなる。
やっぱり。
俺の見間違いじゃなかった。
「あいつは、ニカを狙った」
「ああ」
イザベラは短く頷いた。
「その前のバルドとラーテラルへの扱いも、教育の範囲を超えていた。決闘形式を持ち出した時点で警戒すべきだった。そこは私の落ち度でもある」
「先生のせいじゃ――」
「黙って聞け」
遮られた。
俺は口を閉じる。
「バルドレックの行為は問題だ。だが、それとお前の行為は別だ」
イザベラの声が、少し低くなる。
「その後のお前は違った」
分かっている。
言われる前から、分かっている。
「止めるための動きではなかった。制圧でもない。防衛でもない」
イザベラは、逃げずに言った。
「あれは、殺すための拳だった」
部屋の空気が、重くなる。
俺は視線を落とした。
布団の上に乗った自分の手を見る。
拳の皮膚が擦れている。
指の節が腫れている。
ところどころ薬が塗られ、包帯が巻かれている。
この手で、殴った。
何度も。
何度も。
バルドレックの顔の形が変わるまで。
もう戦えないと分かってからも。
「……はい」
否定はできなかった。
「私、笑ってました」
言った瞬間、自分の声が小さく震えた。
イザベラは何も言わない。
「怒ってたんです。ニカを狙われて、レオスを侮辱されて、あの子が怯えてて……だから、怒ってたはずなんです」
言葉にしながら、胸の奥が冷えていく。
「でも、途中から分からなくなりました」
拒絶が砕ける音。
拳が肉を打つ感触。
バルドレックの声が、命令から怯えに変わっていく瞬間。
あの時、俺は確かに笑っていた。
「拒絶が壊れる音が、嫌じゃなかった」
言葉が、喉に引っかかる。
「バルドレックが壊れていくのを見て、止まれませんでした。いや、止めたくなかった」
沈黙。
医務室の外から、遠く人の足音が聞こえた。
誰かが小さく会話している。
けれど、その声はここまで届かない。
イザベラは長く黙っていた。
それから、低く言った。
「それが、お前の中にある力だ」
俺は顔を上げる。
「力は、都合よく善悪を選んではくれない。お前が何を願ったかとは別に、その本質がある」
「本質……」
「お前はラーテラルを守ろうとした。そこまではお前の意思だ。だが、出てきた力は守るためのものではなかった」
右肩が、また小さく熱を持つ。
「声が、聞こえました」
「悪魔の声か」
「たぶん……ラグナです」
壊せ。
あの声を思い出しただけで、指先が冷たくなる。
恐ろしい。
でも、ただ恐ろしいだけではなかった。
だからこそ、さらに怖い。
あの熱を、俺の身体は拒まなかった。
むしろ、受け入れかけていた。
「壊せって、言ってました」
イザベラは、少し目を細めた。
「なら、その声を覚えておけ」
「覚えて……?」
「忘れるな。なかったことにするな。自分は悪くない、覚えていない、仕方なかった。そうやって目を逸らせば、また同じことになる」
厳しい声だった。
「見たことと、呑まれることは同じではない。だが、見なかったことにはできない」
俺は唇を噛んだ。
右肩は熱い。
反対の肩は沈黙したまま。
破壊だけが前に出た。
そして俺は、それに呑まれかけた。
「バルドレックは……どうなるんですか」
「騎士団預かりになる」
イザベラは息を吐いた。
「顔面骨折、歯の損傷、鼻骨損傷、片目の腫れ。騎士としての復帰にはかなり時間がかかるだろう」
俺の手が、布団を握る。
「私が……」
「お前がやった」
逃げ場のない言葉だった。
でも、必要な言葉だった。
「だが、その前にバルドレックがやったことも消えない。休んでいた生徒へ魔法を向けた疑いについては、カイル殿と私が証言する。セシリア殿下も王女として抗議する構えだ。ローゼリアもヴァルンハート家として黙ってはいないだろう」
「なら、ちゃんと罰を受けるんですか」
「分からん」
即答だった。
俺は思わずイザベラを見る。
「分からない、んですか」
「相手は貴族出身の王国騎士だ。騎士団内の派閥もある。学院での問題でもある。王女殿下とヴァルンハート家が関われば、別の政治も混じる」
イザベラの顔は苦かった。
「悪いことをした者が、悪いからすぐ罰される。そんな単純な場所ではない」
知っている。
もう、何度も見てきた。
グレイヴ商会。
ベルゼア。
ロッカのいた灰炉。
リィナに付けられた番号。
悪いものは、悪い顔をしているだけじゃない。
丁寧な言葉を使う。
身分を持つ。
商会を挟む。
書類を作る。
価値という言葉で、人を縛る。
バルドレックもそうだった。
決闘形式。
了承。
木剣。
致命に至らぬ範囲。
言葉で形を整えて、その中で人を傷つけた。
世界は、そういうふうにできている。
「……先生」
「何だ」
「私、怖いです」
自然に出た言葉だった。
イザベラは黙っていた。
「バルドレックも怖かった。ああいう人が騎士にいることも怖い。悪いことをしても、すぐに裁かれるとは限らないことも怖いです」
喉が震える。
「でも、一番怖いのは」
自分の拳を見る。
「私の中にも、怖いものがあったことです」
イザベラは、すぐには何も言わなかった。
ただ、静かに立ち上がった。
「怖がれるなら、まだいい」
「え?」
「本当に危ない奴は、自分の中の危うさを怖がらない」
イザベラは扉の方へ歩く。
「少し人を呼んでくる。話せるなら話せ。無理なら追い返す」
「……はい」
扉が開く。
その向こうに、人影があった。
イザベラが何か小さく話す。
少しして、先に入ってきたのはカイルだった。
灰色がかった狼の耳。
落ち着いた瞳。
だが、左腕には包帯が巻かれていた。
肩の動きも少し硬い。
「起きたようで何よりだ」
「カイルさん……」
俺は身体を起こそうとした。
痛みが走る。
「動かなくていい」
カイルは短く言い、ベッドの近くに立った。
「すみません」
口から出たのは、それだった。
「守護の壁を……壊しかけました」
「壊しかけた、ではない」
カイルは静かに言った。
「一部は壊された」
胸が沈む。
「すみません」
「謝罪は受け取る」
カイルは少しだけ目を伏せた。
「だが、私にだけ謝れば済む話ではない」
「はい」
「君の拳は、私の守護を壊しかけた。そして、あのままならバルドレックを殺していた」
まっすぐな言葉だった。
イザベラと同じ。
逃げ道を作らない言葉。
「私は、彼を許していない」
カイルの声が、わずかに低くなる。
「彼が彼にしたこと。彼女にしたこと。君にしたこと。休んでいた生徒へ魔法を向けたこと。どれも騎士の行いではない」
カイルの耳が、少し伏せた。
「それでも、目の前で人を死なせないのが、私の騎士としての在り方だ」
守護。
カイルの悪魔の力。
拒絶とは違う。
拒絶は、入ってくるなと弾く力だった。
カイルの壁は、中にいるものを死なせないための力だった。
嫌いな相手でも。
許せない相手でも。
死なせない。
「君は彼女を庇った。そこまでは間違っていない」
カイルは続けた。
「だが、その後の君は、誰かを守る者の動きではなかった」
「……はい」
「壊れることも、壊すことも恐れていなかった」
カイルの言葉が、深く刺さる。
それは、戦っていた本人よりも外から見た方が分かることなのだろう。
俺は壊れることを恐れていなかった。
自分の身体がどうなるかも。
バルドレックがどうなるかも。
恐れていなかった。
そんなことはどうでもよかった。
ただ破壊の衝動に駆られていた。
「怖かったですか」
気づけば、そう聞いていた。
カイルは少しだけ沈黙した。
嘘をつくか迷ったのではない。
どう言うべきかを選んでいるような沈黙だった。
「ああ」
短く、彼は答えた。
「怖かった」
胸が痛くなる。
現役の王国騎士。
守護の悪魔を持つ獣人騎士。
その人に、怖かったと言わせた。
「だが、君が怖いだけの存在なら、私はここに来ない」
「え……?」
「怖いものを怖いと認められるなら、まだ戻れる。少なくとも、私はそう思う」
カイルはそこで少しだけ表情を緩めた。
「彼女が会いたがっている。殿下とヴァルンハート嬢もだ」
心臓が跳ねた。
「ニカ、起きてるんですか」
「ああ。医務担当に止められているが、来る気だ」
「無理しないでって言ったのに」
「君も人のことは言えない」
何も返せなかった。
カイルは軽く会釈し、部屋を出た。
入れ替わるように、扉の向こうが少し騒がしくなる。
「だから、押さないでって言ってるでしょ!」
「押してないわよ。あなたが入口で止まるから詰まってるのよ」
「二人とも声大きい……医務室だよ」
聞き慣れた声。
セシリア。
ローゼリア。
ニカ。
扉が開く。
最初に入ってきたセシリアは、俺の顔を見るなり目を吊り上げた。
「馬鹿じゃないの!」
怒鳴られた。
でも、その目は少し赤かった。
「あんな状態になるまで止まらないなんて、何考えてるのよ!」
「ごめん」
「謝ればいいってものじゃないわよ!」
セシリアはずかずかとベッドの横まで来て、俺の手を取った。
力は強くない。
でも、離さなかった。
「目を覚まさなかったら、どうするつもりだったのよ」
「……ごめん」
「だから、謝ればいいってものじゃないって言ってるでしょ」
そう言いながら、セシリアの指が少し震えていた。
俺はその震えを見て、胸が苦しくなる。
「心配かけたよね」
「心配なんて……」
セシリアは反射的に言いかけて、途中で止まった。
そして、悔しそうに目を逸らす。
「したわよ。悪い?」
「ありがと」
「なら、次からもっと早く戻ってきなさいよ」
セシリアらしい言葉だった。
その横から、ローゼリアが俺を見下ろした。
「あなた、最後の顔、最悪だったわ」
胸に刺さった。
容赦がない。
でも、ローゼリアはそういう人だ。
「……うん」
「怒った顔でも、泣きそうな顔でもなかった。あれは駄目よ」
「そんなにひどかった?」
「ええ。ひどかったわ」
ローゼリアは腕を組む。
「でも、戻ってきたならそれでいい」
その言葉は、思ったより優しかった。
「次にああなったら、私が引きずり戻すわ」
「できる?」
「できるかどうかじゃないわ。やるのよ」
迷いのない声だった。
ローゼリアは本気で言っている。
俺がどんな状態でも、引きずり戻す。
そう言い切ってくれる。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ救いだった。
最後に、ニカが近づいてきた。
歩き方はぎこちない。
脇腹を押さえている。
顔色もまだ悪い。
「ニカ、寝てなきゃ」
「アイリスに言われたくない」
「それは……そうだね」
ニカはベッドの横に来ると、少しだけ黙った。
いつもの軽い笑顔はない。
俺は先に言った。
「ニカ、ごめん」
ニカはすぐには答えなかった。
沈黙が怖い。
責められるのが怖いのではない。
ニカが何を感じたのかを聞くのが、怖かった。
「助けてくれて、ありがとう」
ニカが言った。
俺は喉を詰まらせる。
「でも、私は……」
「でも、怖かった」
その言葉で、胸の奥が痛んだ。
ニカは俺を見ていた。
責める目ではなかった。
でも、嘘のない目だった。
「アイリスが私の前に来てくれた時は、嬉しかった」
ニカの声は小さい。
「でも、その後のアイリスは、ちょっと怖かった」
「……うん」
「呼んでも、聞こえてないみたいだった」
「うん」
「私のために怒ってくれたのは分かる。でも、途中から、私の声も届いてない感じがした」
何も言えなかった。
その通りだった。
聞こえていたはずなのに、届かなかった。
ニカの声も。
セシリアの声も。
ローゼリアの声も。
水の底より遠かった。
「だから」
ニカは、少しだけ俺の手に触れた。
「次は戻ってきて」
「……次?」
「私が呼んだら、ちゃんと戻ってきて」
ニカの指は温かかった。
少し震えていた。
それでも、握ってくれた。
「約束して」
俺は、すぐに答えられなかった。
約束したい。
でも、できるのか分からない。
あの時、俺は止まれなかった。
自分の意思で戻れなかった。
だから、軽く言うのが怖い。
けれど。
ここで何も言わなければ、俺はまた逃げることになる。
「……うん」
俺はニカの手を握り返した。
「約束する。次は、戻ってくる」
「絶対?」
「絶対って言い切るのは、怖いかな」
正直に言った。
ニカは少し目を丸くした。
俺は続ける。
「でも、戻ろうとする。ニカの声を、ちゃんと聞く。聞けるようにする」
ニカは少しだけ笑った。
「じゃあ、それでいい」
「いいの?」
「今のアイリスが絶対って言ったら、逆に嘘っぽい」
「手厳しいね」
「友達だからね」
その言葉に、胸が詰まった。
友達。
ニカはまだ、そう言ってくれる。
怖かったと言った上で。
それでも、友達だと言ってくれる。
セシリアが手を握ったまま、少しだけ鼻をすすった。
「まったく……本当に、面倒な人ね」
ローゼリアが肩をすくめる。
「でも、そこがアイリスでしょ」
「褒めてる?」
「褒めてるわよ。少しだけ」
三人の声を聞いていると、ようやく身体の痛みが少し戻ってきた。
痛い。
重い。
苦しい。
でも、それは自分がまだここにいる証拠みたいだった。
しばらくして、医務担当に怒られ、三人は部屋を出ることになった。
セシリアは最後まで俺の手を離しにくそうにしていたし、ローゼリアは「次に無茶したら本当に殴るわ」と言った。ニカは扉の前で振り返り、「ちゃんと寝て」と言った。
俺は頷いた。
それから少しして、今度は廊下に出ることを許された。
歩くというより、壁に手をつきながら少しだけ進む程度だった。
そこで、レオスに会った。
彼は廊下の窓際に立っていた。
右手首と指に包帯が巻かれている。
いつも通り無表情に近い顔だったが、少しだけ疲れて見えた。
「レオス」
「起きたのか」
「うん。手、大丈夫?」
「折れてはいない」
「それ、大丈夫って言うの?」
「動く」
レオスらしい返事だった。
少し沈黙する。
窓の外では、学院の庭木が風に揺れていた。
春にはまだ少し早い。
けれど、枝先には小さな芽が見える。
「お前は強いな」
レオスが言った。
俺は、すぐに返事ができなかった。
「あれを、強いって言うの?」
「少なくとも、俺には届かない力だ」
胸が痛む。
バルドレックの言葉が蘇る。
持たざる者。
選ばれるだけの器。
非契約者にしては。
レオスは、それを全部聞いていた。
全部受けた。
その上で、俺を強いと言う。
「でも」
レオスは窓の外を見たまま続けた。
「羨ましいとは思わなかった」
「そう…だね」
「あれは、剣じゃない」
短い言葉だった。
でも、重かった。
「あの力は、相手を読むものでも、間合いを詰めるものでも、積み上げた型でもない」
レオスの包帯を巻いた指が、わずかに動く。
「俺は、ああなりたいわけじゃない」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
あれを、ただ強いと羨ましがられたら。
俺は、たぶんもっと苦しくなっていた。
でも、レオスはそう言わなかった。
あれは剣じゃない。
レオスらしい言葉だった。
「それでも」
レオスが小さく言った。
「届かないものは、届かないんだな」
俺はレオスを見た。
その横顔は、いつも通り静かだった。
でも、その静けさの奥に、何かが沈んでいるのが分かった。
悔しさ。
怒り。
諦めではない何か。
バルドレックの言葉は、レオスの中にも刺さっている。
非契約者。
持たざる者。
それを踏みにじったのはバルドレックだ。
でも、その壁が存在すること自体は、世界の側にある。
「レオス」
「何だ」
「私は……」
言いかけて、止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
気休めは違う。
あなたは強いとだけ言っても、たぶん届かない。
俺が言えば、それは持っている側の言葉に聞こえるかもしれない。
レオスは少しだけこちらを見た。
「無理に言うな」
「……うん」
「今のお前が言えないなら、それが答えだ」
責める言葉ではなかった。
ただ、事実を置くような言い方だった。
レオスは窓から離れる。
「休め。お前も、俺も」
「レオスもちゃんと休んで」
「手が動かない間は、嫌でも休む」
それだけ言って、レオスは歩いていった。
その背中を見送りながら、俺は何も言えなかった。
届かないものは、届かない。
その言葉が、廊下に残った。
夕方近くになって、ようやく一人になった。
医務室の窓から、薄い光が差し込んでいる。
外の枝が風に揺れていた。
俺はベッドに戻り、右肩に手を置いた。
まだ熱い。
小さく。
深く。
燻っている。
学院に来た日のことを思い出す。
入寮した日。
知らない部屋。
知らない顔。
ここで三年間を過ごすのだと思った時の、少し落ち着かない感覚。
セシリアと出会った。
ローゼリアとぶつかった。
ニカと笑った。
レオスの剣を知った。
魔法を使えない自分を知った。
魔力圧を制御できない自分を知った。
ワイバーンを落とし、ネルと出会い、グレイヴ商会に潜り、リィナを買い、ロッカを救い、ガルドの手を借りた。
海辺の事業を作った。
金を動かした。
人の価値を値踏みする者たちを見た。
所有しようとするルシェルを拒んだ。
価値ある者と価値なき者に人を分けるベルゼアを知った。
そして、バルドレックを見た。
拒絶。
差別。
身分。
契約者と非契約者。
獣人とヒューム。
貴族と平民。
騎士と学院生。
この一年で、俺は世界を少し知った。
世界は広かった。
知らない場所があった。
知らない人がいた。
知らない悪意があった。
知らない仕組みがあった。
世界は、思っていたよりずっと複雑だった。
そして、思っていたよりずっと残酷だった。
けれど。
最後に一番分からなかったのは、世界ではなかった。
俺自身だった。
ニカを守ろうとした。
それは嘘じゃない。
レオスを侮辱されたことが許せなかった。
それも嘘じゃない。
あの獣人の女生徒を、あのまま出したくなかった。
それも本当だ。
でも、その後。
拒絶を壊した時。
バルドレックを殴った時。
笑っていた。
俺は、笑っていた。
右肩の奥で、熱が小さく脈打つ。
壊せ。
あの声は、まだ耳の奥に残っている。
ラグナ。
たぶん、お前は破壊なんだ。
守るための力じゃない。
正すための力でもない。
ただ、目の前のものを壊す力。
その力を、俺は持っている。
持ってしまっている。
反対の肩に手を移す。
そこは静かだった。
何もないように静かだ。
でも、そこにも刻印はある。
ラグナと対になる、もう一つ。
俺はその名前を知っている。
でも、それだけだ。
何を望み、何を本質とし、何を俺に返すのか。
まだ何も分からない。
あの時、そこにあったのは破壊だけだった。
破壊だけが前に出て、俺は止まれなかった。
なら、俺はまだ自分を知りきっていない。
世界を知った。
少しだけ、自分を知った。
けれど、それは終わりではなかった。
むしろ、ここからなのだと思った。
俺の中には、怪物がいる。
それは、もう否定できない。
でも、怪物がいるからといって、俺が俺でなくなるわけじゃない。
そうでなければ困る。
俺は、俺でいたい。
誰かに決められた価値ではなく。
誰かに用意された檻でもなく。
誰かに守られるだけの飾りでもなく。
誰かを壊すだけの怪物でもなく。
自分で選びたい。
世界で一番、自由になりたい。
その夢は、まだ変わっていない。
でも、自由でいるためには、自分の中にあるものからも目を逸らせない。
壊すだけでは終わらせない。
壊した先に、何を選ぶのか。
それを決めるのは、俺だ。
窓の外で、春を待つ枝が小さく揺れた。
まだ花は咲いていない。
けれど、枝先には確かに芽がある。
右肩の奥で、赤黒い熱が燻っている。
反対の肩は、まだ静かなままだった。
世界は広い。
世界は残酷だ。
そして俺自身もまた、思っていたほど安全なものではなかった。
まだ、自由の入口に立ったばかりだった。
ここまでお読み頂き本当にありがとうございます!
これで第二章は終りとなり、次の話から第三章が開幕します!
ぜひお楽しみに!




