第九十七話 僕のものになれ
第九十七話 僕のものになれ
翌日、学院の空気は少し変わっていた。
噂が消えたわけではない。
むしろ、昨日よりも広がっている気配はある。
廊下の端で視線が向けられる。
教室の隅で名前が囁かれる。
俺が振り返ると、不自然に会話が途切れる。
けれど、昨日とは違った。
近づいてこない。
声をかけようとして、やめる。
興味を持っているのに、踏み込まない。
まるで誰かが、俺の周りに見えない線を引いたようだった。
「……気持ち悪いな」
思わず呟くと、隣のニカが小さく鼻を鳴らした。
「白い花の匂いがする」
「白い花?」
「うん。昨日の人と同じ匂い」
ルシェル。
すぐに、その名前が浮かんだ。
廊下の向こうで、俺に話しかけようとしていた男子生徒がいた。
昨日の海辺事業について何か聞きたそうな顔だった。
けれど、途中で顔色を変え、目を伏せて離れていく。
その足元に、白い花弁が一枚落ちていた。
風はない。
なのに花弁だけが、石床の上を滑るように動いた。
「……やってくれるじゃない」
ローゼリアの声が低くなる。
「あなたの周りだけ、不自然に静かすぎるわ。好奇心が消えたんじゃない。誰かが蓋をしたのよ」
セシリアも不機嫌そうに腕を組んだ。
「あの男、王族相手にも随分と舐めた真似をしてくれるじゃない。私の友達に、勝手な線を引くなんて」
「別に私のために怒らなくてもいいよ」
「怒ってないわよ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない。むかついてるだけよ」
「それは怒ってるんじゃない?」
「違うわ」
セシリアはふいと顔を背けた。
けれど、その耳は少し赤かった。
足元の白い花弁が、また一枚増える。
廊下の奥へ。
誰もいない方へ。
まるで、道案内のように。
「アイリス、行かない方がいい」
ニカが真顔で言った。
「分かってる」
「でも、行く顔してる」
「放っておく方が危ない気がする」
「だから、それが危ないんだってば」
ニカの言うことは正しい。
正しいが、これは放置していいものではない。
俺に近づく人間を勝手に遠ざけ、俺の周囲を自分の都合で整えようとしている。
昨日の言葉を思い出す。
君に、分かってもらうだけだよ。
あいつはもう、言葉だけで済ませる気がない。
「一人で行くつもり?」
セシリアが睨んでくる。
「そのつもり」
「馬鹿じゃないの?」
「うん。たぶん」
「認めればいいってものじゃないわよ!」
ローゼリアが鼻で笑った。
「行くなら私たちも行くわ」
「今回はたぶん、私に来いってことだと思う」
「だから何? 相手の都合に合わせる義理なんてないでしょ」
「近くまでは来て。中には入らないで」
「命令?」
「お願い」
ローゼリアは一瞬だけ黙った。
それから、ふんと笑う。
「なら聞いてあげるわ。友達のお願いだもの」
「……ありがと」
「ただし、少しでも変な音がしたら踏み込むわよ」
「うん」
「その時は私も行くから」
セシリアが言った。
「王女としてじゃないわ。友達としてよ」
ニカも頷く。
「私も。白い花の匂い、嫌いだし」
三人の声に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
俺は小さく息を吐き、白い花弁の導く先へ歩いた。
たどり着いたのは、学院の旧温室だった。
今はあまり使われていない場所だ。
硝子張りの壁は夕日を受けて赤金色に光り、内側では季節外れの白薔薇が咲いていた。
綺麗だった。
綺麗すぎて、息苦しかった。
昨日、俺は硝子で囲われた小さな庭を思い浮かべた。
その嫌な想像が、目の前で形になっている。
「ここで待ってて」
俺が言うと、セシリアは不満そうに唇を尖らせた。
「本当に一人で入るの?」
「うん」
「……無茶したら、許さないから」
「分かってる」
ローゼリアはすでに周囲へ目を配っていた。
「入口はここだけじゃないわね。裏側にも小さな扉がある。ニカ、匂いで分かる?」
「分かる。変な匂いが強くなったら言う」
「よし。セシリアは正面」
「あなたに指図される筋合いはないけど、まあ、今回は従ってあげるわ」
「素直じゃないわね」
「あなたに言われたくないわ」
いつものやり取り。
それだけで、俺は少し笑えた。
そして、旧温室の扉を開いた。
中は、白かった。
白薔薇。
白い蔓。
硝子に反射する夕日。
吊り下げられた銀色の鎖。
鍵の形をした小さな飾り。
温室の中央に、ルシェルが立っていた。
「来てくれたんだね、アイリス」
「呼ばれた覚えはない」
「でも、来てくれた」
ルシェルは笑っていた。
昨日と同じように美しい。
けれど、その笑みの端が、どこか薄い。
「昨日の君の言葉を、何度も考えたよ」
「そう」
「それは愛じゃない」
ルシェルはゆっくりと繰り返した。
「君は、僕をとても綺麗に切った」
「綺麗に言わないで」
「でも、本当に痛かったんだ」
その声だけは、少しだけ本物に聞こえた。
「痛かった。悲しかった。腹が立った。なのに、君の言葉は美しかった」
「そうやってまた、私の拒絶まで飾るんだね」
ルシェルの笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。
「君は、本当に容赦がない」
「容赦してほしいの?」
「してほしくない」
即答だった。
「君には、ずっと君のままでいてほしい。僕を切る時でさえ、真っ直ぐで、美しくて、残酷でいてほしい」
「私はあなたのために私でいるんじゃない」
「分かっているよ」
「分かってない」
昨日と同じ言葉。
けれど今日は、それだけでルシェルの指がわずかに震えた。
「僕は、君を傷つけたくない」
ルシェルは言った。
「君を守りたい。君を欲しがる連中から、君を遠ざけたい。君が壊れてしまう前に、君を安全な場所に置きたい」
「置きたい、なんだ」
ルシェルの言葉が止まった。
「守りたいじゃなくて、置きたいって言った」
「言葉の綾だよ」
「違う。本音だよ」
温室の中の空気が、重くなる。
白薔薇の香りが濃い。
甘くて、息苦しい。
「何度言われても同じ」
俺は言った。
「私はあなたを選ばない。あなたの用意した場所には入らない」
ルシェルの目が細くなる。
「アイリス」
「私は、あなたのものにはならない」
沈黙。
長い沈黙。
その後、ルシェルは笑った。
笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
「……なら」
声が、わずかに震えている。
「なら、どうして」
「どうしてって?」
「どうして君は、そんな目で僕を見るんだ」
ルシェルが一歩近づく。
俺は剣の柄に手を置いた。
「拒むなら、もっと醜く拒んでくれればいい」
「何を言ってるの」
「そんな真っ直ぐな目で、僕を切らないでくれ」
ルシェルの呼吸が乱れた。
「綺麗なんだよ」
白薔薇の蔓が、かすかに揺れる。
「苦しいくらいに」
「ルシェル」
「ああ、駄目だ」
ルシェルは片手で顔を覆った。
「駄目だ、アイリス」
指の隙間から覗く瞳が、濡れたように光っている。
「そんな目をしないでくれ。綺麗すぎる。そんなふうに僕を拒まないでくれ」
声が崩れていく。
整っていた言葉が、短く、浅く、乱れていく。
「もっと見たい。いや、見たくない。違う。欲しい。欲しいんだよ、君が」
ぞわりと背筋が冷える。
それはもう、愛の告白ではなかった。
欲だ。
独占欲だ。
俺を見ているようで、俺の向こうにある自分の欲望だけを見ている。
「僕なら全部用意できる」
ルシェルは笑った。
「君が傷つかない場所も。君を値踏みしない人間も。君を汚さない空気も。君が笑える景色も。全部、全部、僕なら――」
「いらない」
短く言った。
ルシェルの顔から、最後の余裕が消えた。
「……どうして」
「私が欲しいのは、あなたが用意したものじゃない」
「君を傷つけたくない」
「それはあなたの都合」
「傷つけたくないんだ。本当だよ」
「それでも、いらない」
「でも、もう無理だ」
ルシェルの声が低くなる。
「無理なんだよ、アイリス」
温室の床に、白い線が走った。
魔法陣ではない。
蔓のように伸びる術式だった。
白薔薇の花弁が舞い、硝子の壁に淡い紋様が浮かぶ。
吊り下げられていた銀の鎖が、まるで生き物のように揺れた。
「逃げるな」
ルシェルの背後に、淡い光が集まる。
白薔薇の冠。
硝子細工のような淡紫の翼。
鎖と鍵を纏う、美しい女性の影。
クラヴィス。
独占の悪魔。
それは、息を呑むほど美しかった。
そして、吐き気がするほど息苦しかった。
「僕のものになれ、アイリス!」
術式が弾けた。
白薔薇の蔓が足元へ走る。
俺は横へ跳んだ。遅れて床が締め上げられる。
銀の鎖が腕を狙う。
片剣を抜き、斜めに払う。金属音ではない。硝子を擦るような高い音が鳴った。
重い。
切ったはずの蔓が、花弁になって散り、また別の場所で絡み合う。
「傷つけたくないんだ」
ルシェルの声が聞こえる。
「だから、動かないでくれ」
「動くかどうかも、私が決める」
俺は床を蹴った。
温室の中は美しく整えられている。
白薔薇の配置も、鎖の吊るされた位置も、硝子に映る光の角度も、全部が計算されている。
その計算が、俺の逃げ道を削っている。
綺麗な場所ほど、逃げ道を意図的に消している。
けれど。
客は図面通りに歩かねえんだよ。
ガルドの声が蘇る。
人が使う場所には、必ず癖がある。
どれだけ綺麗に整えられていても、現実の場所には歪みがある。
俺は温室の床を見る。
排水溝。
支柱の影。
古い硝子の継ぎ目。
手入れされていない鉢の隙間。
あった。
綺麗な檻にも、現実の隙はある。
白薔薇の蔓が前から来る。
鎖が後ろから来る。
俺は踏み込むのではなく、あえて足を引いた。
蔓が空振りする。
鎖が鉢に絡む。
重い鉢が倒れ、床に土が散った。
白い世界に、黒い土が広がる。
ルシェルの目が見開かれた。
「汚さないでくれ」
「ここは庭でしょ」
俺は走る。
剣で鎖を逸らし、肩で蔓を抜け、足元の排水溝を踏んで滑るように身体を低くした。
狙うのはルシェルじゃない。
出口でもない。
古い硝子の継ぎ目。
「アイリス!」
ルシェルが叫ぶ。
白い糸が俺の足首に絡む。
動きが止まりかけた。
俺は歯を食いしばり、足首を捻った。
皮膚が裂ける痛み。
けれど糸がわずかに緩む。
その一瞬で十分だった。
片剣を逆手に持ち替え、硝子の継ぎ目へ叩き込む。
甲高い音。
ひびが走る。
もう一度。
硝子が砕けた。
夜風が流れ込む。
閉じていた白薔薇の匂いが、外へ逃げる。
温室の中に、土と風と夜の冷たさが入り込む。
俺はその風の中へ飛び出した。
背中で、ルシェルの声がした。
「どうして……」
振り返ると、ルシェルは砕けた硝子の向こうに立っていた。
その背後で、クラヴィスの淡い翼が揺れている。
白薔薇の花弁が乱れ、銀の鎖が床に落ちる。
「どうして、君は外へ行きたがるんだ」
ルシェルの声は、ひどく小さかった。
「ここなら、傷つかずに済むのに」
俺は息を整えながら、はっきり言った。
「傷つかないために生きてるわけじゃない」
ルシェルの顔が、泣きそうに歪んだ。
その時、背後から足音が近づいた。
「アイリス!」
セシリアの声。
「だから一人で行くなって言ったじゃない!」
「ごめん」
「謝ればいいってものじゃないわよ!」
ニカが俺の足元を見て、顔をしかめる。
「血、出てる」
「少しだけ」
「少しじゃない」
ローゼリアは温室の中を睨みつけた。
「あの男、次は本当に潰すわ」
「今はやめて」
「今は、ね」
ニカは鼻を鳴らし、露骨に顔をしかめた。
「白い花の匂い、嫌い」
「私も」
俺は答えた。
温室の奥で、ルシェルはまだこちらを見ていた。
割れた硝子の向こう。
乱れた白薔薇の中。
美しい悪魔を背にして。
「……外へ、行くんだね」
その声は、静かだった。
けれど、諦めた声ではなかった。
「それでも、僕は諦めないよ」
俺は何も返さなかった。
夜風は冷たかった。
けれど、息ができた。
硝子の庭の外には、痛みも危険もある。
血も出るし、間違えることもある。
誰かに欲しがられることも、狙われることもある。
それでも俺は、そちら側に立っていたかった。
用意された綺麗な檻より、傷つく自由の方がいい。
俺は、誰のものにもならない。




