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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第二章 この世界の自分

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第九十五話 箱庭への招待

第九十五話 箱庭への招待


「話をしよう、アイリス」


 ルシェルは、美しく笑っていた。


「君の自由について。そして、僕が君に用意できるものについて」


 白い砂浜に、夕方の光が落ちている。

 営業を終えた海辺施設は、まだ昼の熱を残していた。

 片づけをする商会員の声。

 遠ざかる獣車の車輪の音。

 波が砂を撫でる音。

 そのどれもがあるのに、ルシェルの周りだけ、別の空気が流れているように見えた。


「ここで話せばいい」


 俺は距離を取ったまま言った。

 ルシェルは少しだけ首を傾げる。


「君は本当に警戒心が強いね」


「あなた相手なら当然でしょ」


「嬉しいな」


「嬉しい?」


「うん。君は、ちゃんと僕を特別扱いしてくれる」

 言葉の選び方が、いちいち気持ち悪い。  俺が睨むと、ルシェルはそれすら楽しむように目を細めた。


「そんな顔も綺麗だ」


「用件だけ言って」


「ここでは、少し人の目が多い」


「密室に行くつもりはない」


「分かっているよ。君は手順を間違えない。だから、そこの上でいい」


 ルシェルが指差したのは、海辺休憩所の二階テラスだった。

 営業中は特別席として使っていた場所だ。

 今は片づけを終え、海と砂浜を見下ろせるだけの静かな空間になっている。


「君の作った場所だ。少しは安心できるだろう?」


 俺はレインを見た。

 レインはすぐに意図を察したのか、静かに頷く。


「一定距離に商会員を置きます。声は届かず、異変には届く距離で」


「お願いします」


「無理に続ける必要はありません。危険だと感じたら、席を立ってください」


「はい」


 ルシェルはそのやり取りを、まるで舞台の一場面を見るように眺めていた。


「本当に見事だね」


「何が?」


「君は、自分を守るために他人を使うことを覚えている。なのに、それを支配にはしない」


「普通でしょ」


「普通ではないよ」


 ルシェルは笑った。


「とても、君らしい」


 俺は返事をせず、二階テラスへ向かった。

 夕方の海風が、テラスを通り抜ける。

 昼間の熱は少しずつ薄れ、潮の匂いが強くなっていた。

 ルシェルは手すりの近くに立ち、俺はそれより少し離れた場所に立つ。

 座る気にはなれなかった。


「今日の君は、本当に素晴らしかった」


 ルシェルが言った。


「人を救い、職人に仕事を与え、商会に利益を与え、客に笑顔を与えた」


「褒めに来たの?」


「もちろん、それもある」


「それも?」


「君は自分がどれほど危うい存在になっているか、分かっているのかな」


 俺は眉をひそめた。


「危うい?」


「目立ちすぎるんだよ」


 ルシェルの声は穏やかだった。

 穏やかなのに、刃物みたいに冷たい。


「君は美しい。それだけでも十分に人の目を引く。けれど、今の君はそれだけじゃない」


 ルシェルは指を一本ずつ折るように言った。


「グレイヴ商会の非公開取引会で、五億ビルを動かした。ベルゼア卿と顔を合わせた。ベルモンド子爵と繋がった。ハルヴェイ商会の信用枠を使い、今日、その価値を数字で示した」


 俺は黙って聞いた。

 どれも事実だ。


「君は、価値を持ちすぎた」


「価値?」


「そう。美しさだけでも危ういのに、金を動かし、人を動かし、場所を作れる。そんな君を、誰も放っておかない」


 波の音が聞こえる。


「ベルゼア卿は、君を価値で見た。灰鴉は、君を金で見た。商会は、君を利益で見る。学院では、君を噂で見る者も増えるだろう」


 ルシェルは、そこで一度言葉を切った。


「君は、欲しがられる側になったんだよ」


 胸の奥が、少し重くなる。

 欲しがられる。

 その言葉は、気持ち悪いほど的確だった。

 オルグ・ベルゼアの部屋を思い出す。

 子どもの写真に添えられた役割。

 価値。

 接続候補。

 あの男は、人間を人間として見ていなかった。

 だが、俺はその視線から完全に逃れられたわけじゃない。


「危険なのは分かってる」


「分かっていないよ」


「何が?」


「君が思っている危険は、刃物や毒や襲撃だろう。でも本当に厄介なのは、もっと綺麗な顔をして近づいてくる」


「あなたみたいに?」


 ルシェルは嬉しそうに笑った。


「そうだね。僕みたいに」


 否定しないところが、余計に怖い。


「だから、僕は君に提案しに来た」


「提案?」


「僕なら、君の周りから醜いものを遠ざけられる」


 ルシェルの声は甘かった。


「君を値踏みする者も、君を利用しようとする者も、君を傷つける者も、僕が退ける」


「……」


「オルフェリア家の名なら、ベルゼア卿の干渉も簡単には通さない。灰鴉のような連中の情報も、僕なら拾える。社交界での立場、資金、人員、安全な屋敷。必要なら、すべて用意できる」


 それは、魅力的な提案だった。

 少なくとも、言葉の上では。

 権力。

 金。

 情報。

 人員。

 安全。

 俺が今、喉から手が出るほど欲しいものが並んでいる。


「君は、君のままでいればいい」


 ルシェルは微笑む。


「美しく、自由で、誰にも汚されずに」


 その瞬間、胸の奥に小さな違和感が刺さった。


「それは、私が自由に動くって意味?」


「もちろん。君が望むものは用意する」


「望まないものは?」


「僕が遠ざける」


 やっぱり。

 俺は一歩、心の中で距離を取った。


「私が危ない場所に行きたいと言ったら?」


「止めるよ」


「私が誰かを助けに行くと言ったら?」


「必要なら、僕が代わりに助ける」


「私が自分で決めたいと言ったら?」


「君が傷つかない範囲でなら」


 柔らかい。

 優しい。

 美しい。

 けれど、その全部が重い。

 言葉は甘い。

 差し出されるものは、たしかに魅力的だ。

 安全。

 庇護。

 資金。

 地位。

 けれどそのすべてに、見えない条件がついていた。

 俺が傷つかない範囲。

 俺が汚れない範囲。

 俺が、ルシェルの手の届く範囲。


「ルシェル」


「うん」


「あなたが言ってるそれは、私の自由じゃない」


 ルシェルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「自由には、守るための形が必要だよ」


「それを決めるのが私じゃないなら、自由じゃない」


「君は、自由を少し危うく考えすぎている」


「あなたは、自由を狭く考えすぎている」


 風が吹いた。

 白い服の裾が揺れる。

 ルシェルは怒らなかった。

 むしろ、悲しそうに目を細めた。


「僕は、君が壊れるところを見たくないんだ」


「壊れる?」


「君は気づいていないのかもしれないけれど、君はいつもぎりぎりの場所に立っている」


 ルシェルの声が、少しだけ低くなる。


「取引会の夜、君は怒っていた。友が毒に倒れた時、君は震えていた。なのに剣を抜かなかった。手順を守った。怒りを飲み込んだ」


「見てたんだ」


「見ていたよ」


 悪びれもせずに言う。


「君は美しかった。けれど同時に、怖かった」


「何が」


「君は、そのままだといつか自分まで燃やしてしまう」


 息が詰まった。

 それは、ただの気持ち悪い称賛とは違った。

 鋭い。

 俺の中にある、俺自身でも見ないようにしていたものに触れられた気がした。

 ニカが毒に倒れた夜。

 ラグナの声のようなものが聞こえた。

 壊せ、と。

 右肩の刻印が熱くなった。

 あの時、もしニカが止まっていなければ。

 もし、人の目がなければ。

 俺は何をしていたのか。


「だから、僕の側にいればいい」


 ルシェルの声が、静かに俺を引き戻す。


「僕の目の届くところに」


 ぞわりとした。

 今の一言で、さっきまでの鋭さが全部別のものに変わった。

 心配ではない。

 いや、心配もあるのだろう。

 でもそれだけじゃない。

 見たい。

 置きたい。

 守りたい。

 触れられる場所に留めたい。

 そんな欲が、言葉の奥に透けている。


「私は、あなたの側にいるつもりはない」


「今は、ね」


「今後も」


「君は強情だ」


「自由でいたいだけ」


「その自由が君を傷つけるとしても?」


「傷つくかどうかも、私が決める」


 ルシェルは黙った。

 夕日の光が、彼の横顔を染める。

 美しい顔だった。

 腹が立つほど整っている。

 けれど、その美しさはなぜか息苦しい。


「やっぱり、君は綺麗だ」


 ルシェルは囁くように言った。


「そういうところが、本当に綺麗だよ」


「私は綺麗と言われるために話してるんじゃない」


「分かっているよ」


「分かってない」


 俺の声が、少しだけ強くなった。


「あなたは、私を見てるようで見てない」


 ルシェルの表情が止まった。

 白い砂浜の音が、一瞬遠のいた気がした。


「どういう意味かな」


「あなたは、私の選択を見てるんじゃない。あなたが綺麗だと思う私を見てる」


 自分で言いながら、胸の奥が少し熱くなる。


「怒っても、耐えても、誰かを助けようとしても、あなたはそれを全部綺麗って言う。でも、私が何を嫌がってるかは見ない」


「見ているよ」


「見てない」


 俺ははっきり言った。


「私が嫌だと言ってるものを、あなたは美しい言葉で包んで差し出してくる」

 ルシェルは黙っていた。

 怒ってはいない。

 けれど、その沈黙は怖かった。

 美しい場所だった。

 夕焼けの海。

 風を受けるテラス。

 磨かれた手すり。

 丁寧に整えられた休憩所。

 安全で、整っていて、何も汚れない場所。

 けれど、そこには風がないように感じた。

 いや、風は吹いている。

 潮の匂いもある。

 波の音も聞こえる。

 それでも俺は一瞬、硝子で囲われた小さな庭を思い浮かべた。

 花は咲く。

 水も与えられる。

 虫も嵐も遠ざけられる。

 けれど、根はどこにも伸ばせない。


「私は、あなたの用意した場所に入るつもりはない」


 ルシェルは、ゆっくりと瞬きをした。


「残念だな」


「本気で残念そうには見えない」


「本気だよ」


 ルシェルは微笑む。


「でも、君がすぐ頷かないことも分かっていた」


「なら、なぜ言ったの?」


「君に知ってほしかったから」


「何を?」


「僕が、君のために何を用意できるか」


 俺は黙る。


「そして、君が僕を選べば、どれほど多くのものから解放されるか」


「それは解放じゃない」


「そうかな」


「そうだよ」


 ルシェルは手すりに指を置いた。

 細く、白い指だった。


「アイリス。君は自由を求めている。けれど、世界は君を自由にはしない」


「だから力をつける」


「その前に、君が折れるかもしれない」


「折れない」


「折れるよ」


 即答だった。

 なぜか、その言い方だけは優しくなかった。


「人は折れる。どれほど美しくても、どれほど強くても。理不尽に囲まれ、悪意に晒され、大切なものを奪われ続ければ、いつか必ず折れる」


 ルシェルは俺を見た。


「僕は、それを見たくない」


「だから閉じ込めるの?」


「守るんだ」


「同じに聞こえる」


「違うよ」


「私には同じ」


 沈黙。

 長い沈黙だった。

 先に目を逸らしたのは、ルシェルではなかった。  俺も逸らさなかった。

 やがて、ルシェルは小さく笑った。


「今日はここまでにしよう」


「話は終わり?」


「うん。君は十分に僕を拒んでくれた」


「嬉しそうに言わないで」


「嬉しいわけじゃないよ。ただ、君らしいと思っただけだ」


 ルシェルはテラスの階段へ向かって歩き出す。

 すれ違う直前、彼は足を止めた。


「でも、アイリス」


 声が近い。


「僕は、君が壊れるのを黙って見ているほど、優しくはないよ」


 その言葉だけ残して、ルシェルは階段を下りていった。

 俺はしばらく、その場から動けなかった。

 海風が吹く。

 潮の匂いがする。

 目の前には、どこまでも広い海がある。

 なのに俺は、なぜか空気の薄い硝子の中に立っているような気がした。

 広い。

 目の前の海は、どこまでも広い。

 波は好き勝手に寄せて、好き勝手に引いていく。  風は誰にも許可を取らず、砂浜を撫でて、俺の髪を揺らしていく。

 それなのに、ルシェルの言葉を聞いた後では、その広さすら嘘みたいに思えた。

 見えない壁。

 白く、綺麗で、触れれば冷たい壁。

 ルシェルが用意しようとしているものは、きっと悪意だけでできているわけじゃない。

 権力もある。

 金もある。

 情報もある。

 安全もある。

 俺が欲しいものばかりだ。

 だからこそ、危ない。

 甘いものは、苦いものより飲み込みやすい。

 綺麗なものは、汚いものより疑いにくい。

 けれど、飲み込んだ後に首輪になるなら、それは毒と変わらない。


「アイリスさん」


 後ろから声がした。

 振り返ると、レインが階段の上に立っていた。  商会員を引き連れてはいない。

 いつもの落ち着いた表情で、けれど目だけは少し鋭い。


「大丈夫ですか?」


「はい」


 そう答えてから、少しだけ間を置いた。


「大丈夫です。たぶん」


「たぶん、ですか」


「怪我はしていません」


「それは、よかったです」


 レインは俺の横まで来て、ルシェルが去っていった方を見る。


「オルフェリア家のご子息は?」


「帰りました」


「何を?」


「私に、色々用意できると言っていました」


「なるほど」


 レインはそれだけで、ある程度を察したらしい。


「庇護、資金、人員、社交界での立場。あたりでしょうか」


「だいたい合ってます」


「魅力的な提案ですね」


「そうですね」


「受ける気は?」


「ありません」


 即答すると、レインはほんの少しだけ笑った。


「でしょうね」


「分かってたんですか?」


「アイリスさんが簡単に誰かの庇護下に入る方なら、十億ビルの信用枠を担保にしてまで自分で動きません」


「それは……まあ、そうかもしれません」


「ただ」


 レインの声が、少しだけ低くなる。


「彼の言う危険そのものは、間違っていないはずです」

 俺は黙った。

 それも分かっている。

 分かっているから、余計に気持ち悪い。


「はい。だから、厄介です」


「正しい部分がある提案は、完全な嘘より断りにくい」


「本当にそうですね」


 レインは海を見た。


「今日の成功で、アイリスさんの名前は今までより広がります。ハルヴェイ商会としても守れる範囲は守りますが、すべてを覆えるわけではありません」


「分かっています」


「なら、次に必要なのは選別です」


「選別?」


「誰の手を取るか。誰の手を取らないか。どの危険を受け入れ、どの危険を避けるか」


 レインは淡々と言った。


「自由に動くには、すべてを拒むだけでは足りません。利用できるものを利用し、危険なものから距離を取り、それでも進む必要があります」


「商人らしいですね」


「褒め言葉として受け取ります」


 俺は小さく息を吐いた。

 ルシェルの言葉で冷えた胸の奥に、少しだけ熱が戻る。

 利用できるものを利用する。

 危険なものから距離を取る。

 それでも進む。

 それは、俺がこれまでやってきたことと同じだ。

 グレイヴ商会も。

 ダリオも。

 レインの信用枠も。

 ガルドとの約束も。

 俺は、綺麗な道だけを歩いてきたわけじゃない。  危険な場所に踏み込んだ。

 泥も灰も踏んだ。

 それでも、自分で選んだ。

 だから、ルシェルの用意した綺麗な場所には入れない。

「戻りましょう。ニカとリィナも待っています」

「はい」

 テラスを降りると、海辺には夕暮れが深くなっていた。

 商会員たちが片づけを進め、浜履きの棚にはほとんど商品が残っていない。

 陽除け香膏の試供用の小瓶は空になり、清香布の箱は追加分まで開けられていた。

 数字になった成功。

 人が笑った成功。

 そして、その成功に匂いを嗅ぎつけて現れた白い影。

 全部が、同じ一日の中にある。

 砂浜の端で、リィナがまだ海を見ていた。

 ニカがそのそばに座っている。

 顔色は悪いくせに、リィナが波に近づきすぎないように、さりげなく位置を取っていた。


「ニカ」


「あ、アイリス」


「そろそろ戻ろう。バルバラさんに怒られる」


「もう怒られる時間?」


「たぶん、だいぶ過ぎてる」


「それはまずい」


 ニカが真顔になった。

 リィナは俺を見上げる。


「アイリス、海、終わり?」


「今日は終わり。また見に来よう」


「また?」


「うん。また」


 リィナは海を見る。

 それから、小さく頷いた。


「また、見る」


 ガルドは少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。

 何も言わない。

 ただ、深く息を吐く。

 その横顔は、泣きそうにも、笑いそうにも見えた。


「帰りましょう」


 俺が言うと、リィナはまた一度、海を振り返った。


「海、逃げない?」


「逃げないよ」


「じゃあ、リィナも、帰る」


 その言い方が、少しだけ自然になっていた。

 帰る。

 どこかへ戻るということ。

 誰かのところへ戻るということ。

 その言葉を、リィナは少しずつ覚えている。

 俺たちは獣車へ向かった。

 営業を終えた砂浜の上を歩きながら、俺はもう一度、二階テラスを見上げる。

 そこにはもう、ルシェルはいない。

 けれど、彼の言葉だけが残っていた。

 君が壊れるのを黙って見ているほど、優しくはない。

 優しくはない。

 その言葉が、どうしようもなく引っかかる。

 あれは心配ではない。

 少なくとも、ただの心配ではない。

 守るという言葉の中に、奪うという意味が混じっている。

 用意するという言葉の中に、選ばせないという意味が混じっている。

 そして、愛という言葉が出ていないのに、その奥にはもっと重い何かがあった。

 俺は獣車の段に足をかける。

 夜が近づいていた。

 海辺の施設は初日を成功で終えた。

 アイリス・シエーレの企画は、数字になった。

 人を救った結果、場所ができた。

 約束は仕事になり、仕事は価値になった。

 けれど、価値になったものには、欲しがる者が寄ってくる。

 俺はそれを、今日、改めて思い知った。

 自由になりたい。

 そう願った先に、誰かが綺麗な手を差し伸べる。

 その手が檻へ続いているのなら、俺は取らない。  たとえ、その中に安全があっても。

 たとえ、痛みから遠ざかれるとしても。

 俺は、自分で選ぶ。

 傷つくことも。

 間違えることも。

 進むことも。

 全部、俺が決める。

 獣車がゆっくりと動き出す。

 窓の外で、海が夜の色に変わっていく。

 広い海。

 どこまでも続く水面。

 その向こうに何があるのか、俺はまだ知らない。  でも、知らない場所へ行けることこそが、自由なのだと思った。

 用意された安全な庭ではなく。

 誰かに整えられた道でもなく。自分の足で、まだ見えない場所へ行くこと。

 それが俺の欲しいものだ。


「私は、あなたのものにはならない」


 誰に聞かせるでもなく、俺は小さく呟いた。

 波の音はもう遠い。

 けれど、その言葉だけは、自分の中にはっきり残った。


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