第九十四話 浜辺の開場
昨日予約投稿が出来ておらず更新出来てませんでした、ごめんなさい!
今日はその分もう1話更新する予定にしてますので、ぜひ見てみて下さい!
第九十四話 浜辺の開場
それからの日々は、目が回るほど忙しかった。
ガルドは、現場に立つと別人だった。
酒に沈んでいた男ではない。
冷えた炉の前で背を丸めていた男でもない。
木材の歪みを見て、風の流れを読み、人の歩く先を図面より先に見つける職人だった。
「そこに柱を置くな。人が詰まる」
「でも、図面ではここに――」
「客は図面通りに歩かねえんだよ」
ガルドの怒鳴り声が、海辺に響く。
「見張り台は高さじゃねえ、足元だ。砂地を舐めるな。沈むぞ」
「更衣小屋の入口をそっちに向けるな。視線が死んでる」
「休憩所は海に近づけすぎるな。景色は窓で取れ。潮と砂を中に入れるな」
商会の職人たちは最初こそ顔を引きつらせていたが、三日も経つ頃にはガルドの指示を待つようになっていた。
怖いからではない。
言うことが、全部当たるからだ。
ガルドが「ここは詰まる」と言った場所は、荷運びの職人だけでもすぐに詰まった。
ガルドが「ここは滑る」と言った場所は、水を流した途端に危なさが分かった。
ガルドが「女客はここを嫌がる」と言った入口は、レインが呼んだ商会の女性職員たちが全員頷いた。
俺とレインは、商品配置と価格、案内役の立ち位置を何度も詰めた。
水着。
水着に合わせる羽織りや腰布。
浜履き。
陽除け香膏。
清香布。
海辺休憩所。
それぞれを単品で売るのではない。
海辺で過ごすための流れの中に置く。
砂地に入る前に浜履き。
日差しを浴びる前に陽除け香膏。
濡れる前に清香布。
更衣小屋の前に水着と羽織り。
疲れる前に休憩所。
客が困る場所に、必要なものを置く。
それだけで、商品は売り込みではなく案内になる。
ロッカは診療所に残った。
バルバラに寝台から出る時間まで決められ、炉どころか長時間座っていることさえ許されていない。
けれど、俺が顔を出すたび、彼は紙の上に線を引いていた。
「寝てください」
「寝てるぞ」
「それは設計図じゃないんですか?」
「夢の中で描いた」
「それは起きてますよね」
「うるせえ」
俺の折れた剣の行き先は、まだ形になっていない。
新たな双剣は、まだ影も形もない。
それでも、ロッカがそのことを考えている。
それだけで、不思議と胸の奥が落ち着いた。
そして、開場の日が来た。
空は、腹が立つくらい晴れていた。
海は青く、波は白く、砂浜は朝の光を受けてきらきらと光っている。
その海辺に、ハルヴェイ商会の旗が揺れていた。
獣車が次々と停まる。
富裕商人の家族。
若い貴族令嬢。
護衛を連れた客。
学院関係者らしき者たち。
王都ではまだ珍しい海辺の施設を一目見ようとする招待客。
最初、客たちは戸惑っていた。
水辺で遊ぶ。
着替える。
日差しを避ける。
砂の上を歩く。
当たり前のようで、この世界ではまだ当たり前ではないことだ。
けれど、人の流れは止まらなかった。
獣車から降りた客は、まず受付へ向かう。
受付の横には、浜履きが並んでいる。
「まあ、軽いわね」
「砂の上でも歩きやすそう」
「水に濡れても大丈夫なの?」
令嬢たちが、興味深そうに浜履きを手に取る。
店員がにこやかに説明する。
「水辺で使うための履物です。砂が入りにくく、濡れても重くなりにくい作りになっております」
「では、試してみたいわ」
砂地に入る前に、浜履きが売れる。
そのすぐ先では、陽除け香膏が試せるようになっていた。
小さな容器を開けると、強すぎない香りがふわりと広がる。
「香りがきつくないのね」
「肌がべたつかないわ」
「海辺だけでなく、外出の時にも使えそう」
女性客が頷き、付き添いの侍女が追加分を確認する。
更衣小屋の入口は、通路から直接見えない角度になっている。
ガルドが最後まで譲らなかった場所だ。
その効果はすぐに出た。
女性客が立ち止まらない。
周囲の視線を気にせず、更衣小屋へ流れていく。
入口の手前には水着と羽織り、腰布が並び、露出に抵抗のある客にも選択肢がある。
「これなら安心ね」
「濡れても重くならないの?」
「羽織りも一緒にいただけるかしら」
水着関連商品は、予想以上に動いた。
足洗い場は休憩所の手前にあった。
砂を落としてから休憩所へ入る。
濡れた足元を拭くために、清香布へ手が伸びる。
「これ、濡れても嫌な匂いが残りにくいのね」
「子どもにも持たせたいわ」
「獣車に常備しておくのも良さそう」
清香布も売れる。
それも、単なる汗拭き布としてではない。
海辺で過ごすための必需品として、客の手に取られていく。
俺は少し離れた場所から、その流れを見ていた。
人が流れている。
詰まらず、迷わず、自然に商品へ手が伸びている。
ガルドの線が、人を動かしていた。
「見事ですね」
隣に立ったレインが、静かに言った。
「はい」
「午前の時点で、想定を大きく超えています」
レインの手元には、すでに何枚もの報告紙があった。
商会員が一定時間ごとに運んでくる数字だ。
「浜履きと清香布は追加搬入が必要です。陽除け香膏も、午後分を前倒しで出します」
「そこまでですか」
「ええ。人の流れが止まっていません。導線と商品配置が噛み合っています」
レインは海辺に視線を向けた。
「浜履きで砂浜へ入り、陽除け香膏で滞在時間が伸び、清香布で不快感を減らし、休憩所でさらに金が落ちる。単品ではなく、導線ごと利益になっています」
なるほど。
客たちは、商品を一つずつ買わされているのではない。
快適に過ごそうとして、自然に次の商品へ進んでいる。
それが数字になっている。
「アイリス」
低い声がした。
振り返ると、ガルドがいた。
現場の端に立ち、人の流れをじっと見ている。
「成功ですね」
俺が言うと、ガルドはすぐに顔をしかめた。
「初日は物珍しさで客が来る。判断するのは三日後、一週間後だ」
「それはそうですけど」
「だが」
ガルドは少しだけ黙った。
小さな子どもが砂浜を走り、足を取られかける。
その先には、ガルドが前日に追加させた低い砂止めと手すりがあった。
子どもは転ばず、母親に手を引かれて笑っている。
ガルドはそれを見て、短く息を吐いた。
「……悪くねえ」
最大級の褒め言葉だった。
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはねえ。仕事だ」
「はい」
「だが、まあ」
ガルドは海を見る。
「人が使う場所にはなってる」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
人を救った結果、場所ができた。
ロッカを連れ戻すために結んだ約束が、海辺の施設になった。
ガルドが引いた線の上を、人が笑いながら歩いている。
それが少し、不思議だった。
「アイリス」
今度は柔らかい声だった。
ニカだ。
まだ顔色は万全ではない。
けれど、短時間だけという条件でバルバラから外出を許されたらしい。
休憩所の近くに立ち、尻尾をゆっくり揺らしている。
「大丈夫?」
「うん。無理はしてない」
「それ、バルバラさんにも言ってる?」
「言ったら帰らされるから言ってない」
「言おうね」
ニカは少しだけ笑った。
「すごいね、アイリス」
「私だけじゃないよ」
「でも、始めたのはアイリスでしょ」
そう言われると、返す言葉に困る。
ニカは誇らしそうだった。
成功した友達を見る顔だった。
「よかったね」
「うん」
素直に頷けた。
少し離れた場所では、リィナが海を見ていた。
人混みからは外れた場所だ。
俺の近く。
ガルドからも見えるが、ガルドがすぐに近づくほど近くはない距離。
リィナは両手を胸の前で握り、ただ波を見ている。
「大きい水」
「海だよ」
「海」
「怖い?」
リィナは少し考えた。
「大きい。でも、きれい」
波が寄せて、引いていく。
リィナは目でそれを追った。
「檻、ない」
「うん。ないね」
「海、広い」
「広いね」
「リィナ、見てていい?」
「もちろん」
リィナは小さく頷いた。
「見る」
その横顔を、ガルドが遠くから見ていた。
近づきたいはずだ。声をかけたいはずだ。
けれど、彼は近づかない。
リィナが安心して海を見られる距離を、壊さない。
それが今のガルドにできる、父親としての精一杯なのだと思った。
ロッカはここにはいない。
診療所の寝台で、きっとバルバラに薬を飲まされている。
炉に立つどころか、まだ外を歩くことも許されていない。
けれど、俺の折れた剣の行き先は、もう決まっている。
そのことも、この夏の光の中ではっきり感じられた。
昼を過ぎても、客足は途切れなかった。
休憩所は満席に近く、浜履きは追加分が必要になり、陽除け香膏は午後の分を早めに出すことになった。
清香布は想定よりも回転が早く、商会員が何度も在庫数を確認している。
レインの顔には、商人としての笑みが浮かんでいた。
「忙しくなりますよ、アイリスさん」
「今さらですね」
「ええ。今さらです」
日が傾き、最後の客が獣車へ乗り込む頃には、浜辺の熱は朝とは違うものになっていた。
はじめは物珍しさだった。
けれど帰る客の顔には、また来たいという色があった。子どもは浜履きを抱え、令嬢たちは陽除け香膏の香りを確かめ、商人の妻は清香布の追加注文について店員へ尋ねている。
営業を終えた後、仮事務所に集められた報告紙は、机の上に積み重なっていた。
レインが集計表を広げる。
「初日売上、九百万ビル。想定の三倍です」
俺は思わず表を見た。
「純利益は五百三十五万ビル。契約に基づくアイリスさんの取り分は、水着関連商品と陽除け香膏の三割、休憩所運営の二割。合計で百二十三万三千ビルになります」
「初日だけで……」
「はい」
レインは淡々としていたが、その目は商人の熱を帯びていた。
「清香布については純利益百四万ビル。その一割、十万四千ビルをベルモンド子爵へ。報告書には販売数、追加発注見込み、利益率も添えます」
「利益率も?」
「あの方は、情より数字を喜ぶでしょうから」
「否定できませんね」
ダリオはもう自分の屋敷へ戻っている。
だが、あの元海賊子爵がこの報告を見れば、きっと金の匂いを嗅ぎつける。
清香布は、ただの取引会参加のための餌では終わらなかった。
ちゃんと商売になった。
それが、少しだけ嬉しい。
「十億ビルの信用枠。あれは無謀ではなく、投資だったと証明されつつあります」
「まだ初日ですよ」
「初日でこれなら、十分に語れます」
レインは集計表を指先で叩いた。
「企画が数字になりました。これは商会にとって、何より強い証明です」
数字。
たったそれだけで、世界は態度を変える。
信用。
価値。
契約。
次の投資。
俺が担保にしたものが、紙の上の数字になって戻ってくる。
その事実が、妙に現実的だった。
「アイリスさん」
レインが言った。
「ここからが本番です」
「はい」
「今日は成功です。ですが、成功した商品は真似されます。成功した場所には、別の思惑も集まります」
その言葉に、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
レインの言う通りだ。
売れた。
だから終わりではない。
売れたからこそ、次が来る。
その時だった。
背筋に、薄い冷たさが走った。
海辺の明るさの中に、白い影があった。
白い服。
整いすぎた立ち姿。
陽光の下でも、どこか夜の白薔薇回廊を思わせる空気。
ルシェル・ヴァン・オルフェリア。
彼は、まるで最初からそこにいたかのように、砂浜の端で微笑んでいた。
「素晴らしいよ、アイリス」
柔らかな声だった。
俺は表情を整える。
「……ルシェル」
「君は人を救い、金を動かし、職人を立たせ、場所まで作る」
ルシェルは海辺を見渡した。
笑う客。
動く商会員。
波打ち際に残る足跡。
片づけを始める職員たち。
その全部を見ているようで、見ていないようだった。
彼の視線は、最後には俺に戻ってくる。
「君が歩くと、周りのものまで形を変えていくんだね」
「何の用?」
「用がなければ、君に会いに来てはいけないのかな」
「少なくとも、偶然とは思えない」
「ひどいな。僕はただ、君の作った場所を見に来ただけだよ」
褒め言葉のはずだった。
けれど、なぜか胸の奥が冷える。
ルシェルの言葉は、いつも美しい布のように滑らかだ。
だが、その下に何かがある。
触れたら絡みつく糸のようなものが。
「少し、怖くなったよ」
ルシェルが言った。
「君はこのままだと、僕の手が届かないところまで行ってしまいそうだ」
俺の指先が、わずかに強張る。
手が届かないところ。
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
まるで、届く場所に置いておきたいと言われているようだった。
檻という言葉を使われたわけではない。
けれど俺には、白い布をかけられた檻の輪郭を、指でなぞられたように感じた。
「話をしよう、アイリス」
ルシェルは美しく笑った。
「君の自由について」
波の音が遠ざかる。
「そして、僕が君に用意できるものについて」
白い砂浜で、白い服のルシェルは完璧なほど美しく立っていた。
けれど俺には、その笑みが、檻の扉にかかった白い布のように見えた。
九十五話は本日の18:15に投稿します!ぜひ見て下さい!




