第九十三話 夢を切り開くもの
第九十三話 夢を切り開くもの
「お前、夢はあるか」
ロッカの問いに、診療所の中が少しだけ静かになった。
バルバラの薬瓶がかすかに鳴る音。
ニカが寝台の上で体勢を変える音。
リィナが俺の服の裾を指先でつまむ感触。
その全部が、妙にはっきり感じられた。
「夢、ですか?」
「ああ」
ロッカは折れた剣の柄を見下ろしていた。
俺が灰炉で折られた剣。
片方は、もう刃の形を失っている。
残った柄と短い折れ口だけが、あの場所で何が起きたのかを語っていた。
「剣ってのはな、持つやつの行き先で形が変わる」
ロッカは寝台に横になったまま、低い声で言った。
「守るための剣と、奪うための剣は違う。逃げるための剣と、切り開くための剣も違う。軽けりゃいいわけでも、硬けりゃいいわけでもねえ」
折れた剣を持つ指が、わずかに動く。
「だから聞いてる。お前は、何のために剣を持つ?」
俺はすぐに答えられなかった。
何のために剣を持つのか。
生きるため。
守るため。
勝つため。
逃げないため。
どれも間違いではない。
けれど、ロッカが聞いているのは、たぶんそういうことではなかった。
俺がどこへ行きたいのか。
俺が何になりたいのか。
俺が、何のためにその刃を必要としているのか。
夢。
そう呼ばれると、急に胸の奥にあるものが少し照れくさくなる。
「笑わないでくださいよ」
俺が言うと、ロッカは片眉を上げた。
「笑うかどうかは聞いてから決める」
「じゃあ、やっぱり言いたくないです」
「面倒くせえな」
ニカが小さく笑った。
「アイリス、言ってみたら?」
「ニカまで」
「大丈夫。たぶん笑わないよ」
「たぶんって」
リィナが首を傾げる。
「夢?」
「いつか、そうなりたいって思うものかな」
「いつか」
「うん」
リィナはまだ分からない顔をしていた。
でも、その言葉を胸のどこかに置こうとしているようにも見えた。
俺は息を吐いた。
別に、大げさな言葉ではない。
ずっと思っていたことだ。
前世の記憶を持ったまま、この世界で美少女として生きることになって、違和感だらけで、それでも自分の人生を誰かに握らせたくないと思った。
誰かの都合で価値を決められたくない。
誰かの役割に押し込まれたくない。
誰かの檻の中で、綺麗に飾られたくない。
俺は俺のまま、生きたい。
「私は」
言葉にすると、胸の奥が少し熱くなった。
「世界で一番、自由になりたいんです」
沈黙が落ちた。
ロッカが折れた剣から顔を上げる。
ニカは、なぜか嬉しそうに笑っていた。
ガルドは壁際で腕を組んだまま、少しだけ目を細める。
バルバラは薬を混ぜる手を止め、面白そうにこちらを見た。
リィナだけが、また首を傾げる。
「自由?」
「うん」
俺はリィナに向けて、けれど自分にも言い聞かせるように続けた。
「誰かに決められたくないんです。生き方も、居場所も、価値も、使い道も」
オルグの部屋に並んでいた、子どもたちの写真。
その下に書かれた、役割。
ベアトリスの写真に添えられた、家と家を繋ぐための言葉。
あれを思い出すだけで、胸の奥が冷える。
「私は、私が行きたい場所に行けるようになりたい。私が大切だと思ったものを、自分で選べるようになりたい」
言いながら、少し笑ってしまった。
「そのために、力も、お金も、仲間も、全部手に入れます」
「欲張りだね」
ニカが言う。
「そうかな」
「うん。すごく欲張りで、すごくアイリスらしい」
「褒めてる?」
「もちろん」
俺は少しだけ照れた。
「欲張りですよね」
そう言って笑った瞬間、ロッカが黙った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬だけ、彼は返す言葉を失ったように見えた。
ロッカの目が、俺の顔を見ている。
煤も血も灰もない場所で、そんなふうに笑う人間を久しぶりに見たのかもしれない。
灰炉の火よりも眩しいものを見るような目だった。
「……欲張りだな」
ロッカは少し遅れて言った。
「だが、嫌いじゃねえ」
「それはよかったです」
俺が笑うと、ロッカはなぜか視線を折れた剣へ戻した。
耳が少し赤い気がしたのは、気のせいだろうか。
「じゃあ、ロッカさんは?」
「あ?」
「ロッカさんの夢です」
ロッカの指が止まった。
ガルドもわずかに反応する。
ロッカはしばらく黙っていた。
答えを探しているというより、どこから話すべきかを考えているようだった。
「俺は」
やがて、ロッカは口を開いた。
「人を幸せにできるものを作る鍛冶師になりたい」
意外ではなかった。
でも、その言葉は、ロッカの荒い口調とは少しだけ違って聞こえた。
「鍛冶師ってのは、刃を打つ。鍋も、釘も、金具も、道具も作る。だけど俺は、ガキの頃から剣が好きだった。火の中で赤くなった鉄を叩いて、形が変わって、ただの塊が誰かの手に収まる道具になる。それが好きだった」
ロッカは折れた剣の柄を見つめる。
「でも、俺は母親を二人失った」
ガルドの表情がわずかに強張る。
「最初の母さんも、リィナの母さんも。親父が何も言わずに炉の前に立ってるのも見た。泣き方を知らねえ男が、泣けないまま壊れていくのも見た」
「ロッカ」
ガルドが低く呼ぶ。
「いいだろ。今くらい」
ロッカは咳を一つこぼし、それでも続けた。
「工房が壊れて、俺は灰炉に落ちた。あそこで見たのは、人を幸せにするためのものじゃなかった」
灰炉の熱が、また喉の奥に戻ってくる気がした。
「人を削って、武器の材料を作る。誰が使うのかも分からねえ刃のために、知らねえ奴の肺が焼ける。目が潰れる。手が動かなくなる。今日の数が足りねえってだけで、誰かが打たれる」
ロッカの声は淡々としていた。
けれど、その淡々とした声の奥に、抑え込んだ怒りがあった。
「嫌になるほど見たんだよ。人を泣かせるために作られるものを」
リィナが、俺の服の裾を少し強く掴んだ。
ニカも黙っている。
バルバラはふざけなかった。
「だから、俺はそういうもんだけを作る鍛冶師にはなりたくねえ」
ロッカは折れた剣を見た。
「守るものでもいい。誰かが前に進むためのものでもいい。持ってるだけで、もう少し生きてみようと思えるものでもいい」
その目は、灰炉の中で見た時と同じくらい鋭かった。
でも、あの時とは違う熱があった。
「俺は、人を幸せにできるものを作る鍛冶師になりたい」
言い切った後、ロッカは少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「……笑うなら笑え」
「笑いませんよ」
俺は即答した。
ロッカがこちらを見る。
「すごくいい夢だと思います」
「そうかよ」
「はい」
「まっすぐ言うな。照れるだろ」
「照れるんですね」
「うるせえ」
ガルドが鼻で笑う。
「馬鹿息子が。昔から変わってねえな」
「黙れ、馬鹿親父」
「剣ばっかり見てたガキが、偉そうに夢を語るようになったか」
「悪いかよ」
「悪かねえ」
ガルドは短く言った。
「悪かねえよ」
その声に、ロッカは少しだけ黙った。
父子の間に、昨日より少しだけ柔らかい沈黙が落ちる。
リィナが小さく呟いた。
「夢」
俺が見ると、リィナは自分の胸に手を当てていた。
「リィナも、夢、ある?」
「これから見つければいいよ」
「これから」
「うん。リィナが、いつかそうなりたいって思うものを」
リィナは考えるように目を伏せた。
「これから、見つける」
その言葉は、小さかった。
けれど、リィナが新しい言葉を一つ覚えた音に聞こえた。
ロッカが俺を見る。
「お前の夢は、自由になることなんだろ」
「はい」
「なら、その道を切り開く武器を俺が作る」
診療所の空気が、また変わった。
ロッカは折れた剣の柄を軽く持ち上げる。
「お前が誰かに縛られそうになった時、折れねえ剣を。お前が誰かを守りたい時、届く剣を。お前が前に進みたい時、道を作る剣を」
「ロッカさん」
「俺と契約しろ、アイリス・シエーレ」
まっすぐな声だった。
「商会じゃねえ。お前個人とだ」
俺は少し目を見開く。
「ハルヴェイ商会ではなく、私個人とですか?」
「ああ」
ロッカは迷わなかった。
「親父は建てる職人だ。場所を作る。商会の仕事は親父がやる。俺は鍛冶師だ。刃を打つ」
彼は折れた剣を見下ろした。
「俺は、お前の剣を打つ」
胸の奥が静かに熱くなった。
「でも、ロッカさんはまだ療養中です」
「今すぐ打つとは言ってねえ。半端な身体で炉に立ったら、それこそ剣に失礼だ」
「分かってるじゃない」
バルバラが満足げに頷く。
「無理したら私が美しく縛り上げるわよ」
「美しくなくていいからやめろ」
「雑に縛られる方が好み?」
「縛られたくねえって言ってんだよ」
ニカが小さく笑う。
ロッカは咳をこらえながら、俺へ視線を戻した。
「報酬は取る。職人だからな」
「もちろんです」
「安くもねえぞ」
「でしょうね」
「ただし、最初の二振りは俺の意地も混ぜる」
「意地?」
「ああ」
ロッカは折れた剣を軽く揺らした。
「お前に助けられた礼じゃねえ。俺が打ちたいから打つ」
そして、少しだけ笑う。
「お前の自由を切り開く剣にする」
その言葉は、ずるいと思った。
そんなふうに言われて、断れるわけがない。
「高そうですね」
「高いぞ」
「なら、稼がないといけませんね」
「そういう顔で言うなら、払えるんだろ」
「払える女になります」
ロッカは呆れたように笑った。
「やっぱり欲張りだな」
「だから、そう言ったじゃないですか」
ガルドが横から口を挟む。
「契約書はちゃんと作れ。口約束だけで仕事をするな」
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
「うるせえな」
「職人の仕事は腕だけじゃねえ。条件を詰めるのも仕事だ」
「分かってるって言ってんだろ」
ロッカは少し不機嫌そうに言ったが、その顔は嫌そうではなかった。
アイリス個人との専属契約。
まだ書面はない。
まだ炉にも立てない。
素材も、設計も、何も決まっていない。
それでも、今ここで道が一本繋がった。
ニカが寝台の上で尻尾をゆっくり揺らす。
「アイリス、専属鍛冶師までできたんだ」
「まだ契約書はこれからだけどね」
「でも、なんかアイリスっぽい」
「どういう意味?」
「人を助けて、気づいたら仲間が増えてるところ」
俺は苦笑するしかなかった。
助けたかったから助けただけだ。
でも、その結果として誰かが隣に立ってくれるなら、それはきっと悪いことではない。
リィナが俺を見る。
「仲間?」
「一緒に進む人、かな」
「ともだちと違う?」
「似てるけど、少し違うかも」
「むずかしい」
「うん。私もまだ勉強中」
リィナは小さく頷いた。
「アイリス、自由。ロッカ、夢。ガルド、仕事。リィナ、これから」
その拙い言葉に、部屋が少しだけ静かになった。
バルバラが口元を緩める。
「いいじゃない。美しい整理ね」
ロッカは折れた剣を俺へ返した。
けれど、その手はすぐには離れなかった。
「待て、アイリス」
「はい」
「今すぐじゃねえ。だが、必ず打つ」
ロッカの声は静かだった。
「お前がその夢を笑って言える間に、俺が剣を用意する」
「はい」
「その代わり」
「その代わり?」
ロッカは、煤の残る顔で自然に笑った。
子どもみたいに真っ直ぐで、職人みたいに頑固な笑顔だった。
「今の幸せそうな笑顔を、この先も見せてくれ」
言われた瞬間、俺は少しだけ固まった。
ロッカは自分が何を言ったのか分かっていない顔をしている。
ニカが目を丸くして、バルバラがにやりと笑った。
「あら、美しいわね」
「何がだよ」
ガルドが深く息を吐く。
「馬鹿息子が」
「だから何がだよ」
ロッカは本気で分かっていなさそうだった。
俺は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、折れた剣を受け取った。
「……努力します」
「努力することか、それ」
「たぶん」
「変なやつだな」
「ロッカさんにだけは言われたくないです」
診療所の中に、小さな笑いが落ちた。
折れた剣は、まだ折れたままだ。
新たな双剣は、まだ影も形もない。
ロッカはまだ寝台から立ち上がることさえ許されていない。
けれど、その日、俺の未来に一人の鍛冶師が加わった。
俺の自由を切り開くと言って、無邪気に笑う鍛冶師が。




