第九十二話 夏の設計図
第九十二話 夏の設計図
朝は来ているはずだった。
けれど、バルバラの診療所に朝らしさはほとんどない。
窓は厚い布で覆われ、外の光は薬瓶の縁をわずかに白くするだけだった。
乾燥薬草の匂いと酒精の匂いが混ざり、そこに昨夜から持ち込まれた煤と血の匂いが薄く残っている。
寝台にはニカがいた。毒のせいで顔色はまだ悪いが、目だけはいつも通り強い。
もう一つの寝台にはロッカが横になっている。
背中の鞭傷には包帯が巻かれ、喉を痛めているせいか、時々低く咳き込んでいた。
リィナは俺の近くにいた。
椅子に座り、両手を膝に置いて、時折ガルドの方を見る。
ガルドは壁際に座っていた。
大きな身体を少し丸め、リィナを見すぎないようにしている。
見たいはずだ。
声をかけたいはずだ。
けれど、彼は近づかない。
近づけないのではない。
近づかないと決めている。
それが、かえって苦しそうに見えた。
「はい、朝よ」
バルバラが両手を叩いた。
「生きてる人は薬を飲みなさい。死にかけの人は二杯飲みなさい」
「誰が死にかけだ」
ロッカが寝台の上で顔をしかめる。
「あら、候補が多すぎて名前を呼ぶのも面倒なのよ」
「ひでえ医者だな」
「美しい医者よ。何度も言わせないで」
バルバラは当然のように薬碗を差し出した。
ロッカは匂いを嗅いだだけで眉を寄せる。
「またこれか」
「生きる味よ」
「生きるってのは、もっと美味くあってほしいもんだな」
「文句を言える肺が残ってるだけ感謝しなさい」
ロッカは渋々薬を飲み、すぐに苦い顔をした。
ニカも隣で同じように薬を飲まされ、尻尾をぴんと伸ばしている。
「まずい」
「生きる味」
「私、これやっぱ嫌い」
「嫌いでも生きなさい」
少しだけ空気が緩む。
けれど、ガルドだけは静かだった。
バルバラは彼にも視線を向ける。
「親玉さん、あんたも少しは寝た?」
「誰が親玉だ」
「はいはい。返事できるなら起きてるわね」
ガルドは深く息を吐いた。
「アイリス」
「はい」
「ハルヴェイ商会に行く。約束の話を通す」
「今日ですか」
「ああ」
俺はロッカを見る。
ロッカは寝台に横になったまま、片目だけを開けていた。
「親父、休め」
「お前にだけは言われたくねえ」
「酒臭い身体で契約に行くのかよ」
「昨日から飲んでねえ」
「偉いじゃねえか」
「息子に褒められる年じゃねえ」
父子の会話は雑だった。
けれど、昨日までなかったものがそこにあった。
ガルドは立ち上がり、古い外套を羽織る。
工具袋は持たない。
商会に向かうのに工具はいらないという判断なのだろう。
その時、リィナが小さく口を開いた。
「ガルド」
ガルドの足が止まる。
振り返るまでに、ほんの少し時間がかかった。
「……なんだ」
リィナは首を傾げながら言う。
「いってらっしゃい?」
たぶん意味は分かっていない。
誰かが出ていく時に言う言葉だと、どこかで聞いたのだろう。
疑問形なのも、そのせいだ。
それでも、ガルドの顔が変わった。
大きな手が一度だけ握られる。
「……ああ」
声が掠れていた。
「行ってくる」
リィナは小さく頷いた。
それだけだった。
でも、ガルドにとっては十分すぎる言葉だったのかもしれない。
俺とガルド、それからダリオは、バルバラの診療所を出てハルヴェイ商会の王都支店へ向かった。
外の空気はまだ朝の冷たさを残していた。
昨夜の灰炉の熱が嘘みたいに、王都の道には人の気配が戻り始めている。
店の戸を開ける音。
荷を運ぶ声。
獣車の車輪。
世界は、誰かが地獄から戻ってきたことなど知らない顔で動いている。
ハルヴェイ商会の奥室で、レインは俺たちを待っていた。
相変わらず整った姿勢で、相変わらず柔らかく、けれど抜け目のない目をしている。
「お越しいただき、ありがとうございます。ガルド・バルグレンさん」
「礼を言われるのは俺じゃねえ」
ガルドは椅子に座らなかった。
「話はアイリスから聞いてるか」
「概要は」
レインの視線が一瞬、俺に向く。
「ロッカさんの救出に成功したこと。そして、あなたが約束を履行する意思をお持ちだということは」
「ああ。約束は約束だ」
ガルドは低く言った。
「俺の腕が要るなら使え。だが、勘違いするな。助けられたからって、タダ働きする気はねえ」
レインの表情は変わらない。
「もちろんです」
「恩は仕事で返す。だが、仕事は仕事だ。職人を安く使うつもりなら、俺は降りる」
空気が少しだけ張った。
俺は黙って二人を見る。
ここは俺が口を挟む場面じゃない。
ガルドは救われた人間ではある。
でも、それと職人としての価値は別だ。
レインは静かに頷いた。
「こちらが欲しいのは、安い労働力ではありません」
その声は商人のものだった。
「責任を持てる職人です。正当な報酬をお支払いします。必要な権限も提示します」
「権限?」
「海辺施設の設計監修と施工監督。必要な職人の選定については、あなたの意見を優先します。安全に関わる部分については、商会側の都合より現場判断を重視します」
ガルドの眉がわずかに動く。
「材料は」
「指定があれば確認します。不正混入、品質不足の材料は拒否していただいて構いません」
「工期を無理に詰めろと言われたら」
「理由を聞きます。危険だと判断される場合は延期します」
「職人への賃金遅れは」
「ありません。契約書に明記しましょう」
ガルドはしばらくレインを見ていた。
「俺の名前を勝手に看板に使うな」
「宣伝に使わない、ということですね」
「仕事を見せろ。名前で売るな」
「承知しました」
レインはすぐに書記へ指示を出した。
やり取りは早かった。
レインも本気だった。ガルドも本気だった。
これは同情の契約じゃない。
仕事の契約だ。
「では、まずはこちらを」
レインが机の上に設計案を広げた。
海辺事業の配置図。
休憩所、足洗い場、物販小屋、更衣用の小屋、見張り台、獣車の停車場。
俺たちが考えてきた案を、商会の人間が整えたものだ。
ガルドは無言で図面を見下ろした。
最初は何も言わなかった。
ただ、目だけが動く。
人の流れを見るように。
風を見るように。
砂の流れや水の跳ね方まで、図面の上から読み取っているようだった。
やがて、ガルドは太い指で一点を叩いた。
「ここは詰まる」
レインが身を乗り出す。
「入口ですか」
「客が獣車を降りる。荷を持つ。子どもが走る。そこで浜履きを売ろうとしてる。詰まるに決まってる」
次に別の場所を叩く。
「足洗い場が遠い。砂を落とす前に休憩所に入る客が出る。床が傷む。掃除の手間が増える」
「なるほど」
「更衣小屋の入口が悪い。女客の出入りが通路から見える。角度を変えろ。壁を一枚足せ」
ガルドは止まらなかった。
「見張り台は高けりゃいいってもんじゃねえ。足元が死んでる。砂地にそのまま立てたら傾く」
「補強が必要ですね」
「必要じゃねえ。前提だ」
レインの書記が慌てて筆を走らせている。
「物販小屋は風下に置くな。陽除け香膏の匂いが流れる。匂いが混ざれば客は嫌がる」
「商材の匂いまで見ますか」
「商売は知らねえ。だが、人が不快になる場所なら分かる」
ガルドは図面の端を指でなぞった。
「休憩所は海に近すぎる。景色はいいが、潮と砂で傷む。少し下げろ。その代わり、海を見る窓を広く取る」
俺は思わず見入っていた。
ただの大工ではない。
この人は、人の流れを見ている。
使う人の視線を見ている。
事故が起きる場所を、図面の上で先に見つけている。
「清香布はどこで売る」
ガルドが俺を見る。
「足洗い場と休憩所、更衣小屋の近くを考えています」
「濡れた後に売るな」
「え?」
「濡れる前に見せろ。濡れた後に必要になると分かっていれば、先に買う客がいる。入口で見せて、足洗い場で追加を置け」
俺は目を丸くした。
レインが小さく笑う。
「商売をご存じないとは思えませんね」
「商売じゃねえ。現場だ」
ガルドはぶっきらぼうに返した。
「陽除け香膏は、日差しで苦しんでから売るな。入口で塗らせろ。浜履きは砂地に入る前。水着は更衣小屋の手前。ただし見せすぎるな。客が立ち止まりすぎる」
「……すごいですね」
俺が思わず呟くと、ガルドは不機嫌そうにこちらを見た。
「当然だ」
でも、その目は少しだけ生きていた。
冷えた炉に、ほんの小さな火が戻ったような目だった。
レインは図面とガルドを交互に見た後、俺へ視線を向ける。
「アイリスさん」
「はい」
「あなたは本当に、金を使うのが上手いですね」
「褒めてます?」
「最大級に」
レインは柔らかく微笑んだ。
「商品を考え、信用枠を使い、職人を見つけ、施設まで現実にする。ここまで来れば、これは単なる夏の商品企画ではありません。ハルヴェイ商会にとって、新しい事業の入口です」
俺は少しだけ息を吐いた。
十億ビル。
あの時は重すぎる信用に思えた。
でも今、その金は形になろうとしている。
誰かを買い戻すために使った金も。
職人を救うために使った時間も。
無駄にはしない。
ガルドは図面を丸めず、さらに線を引いた。
「今日中に直す。明日から現場を見る」
「お身体は」
レインが言いかけると、ガルドは睨んだ。
「俺の身体は俺が分かってる」
「では、現場に同行する商会員をつけます」
「邪魔なら追い返すぞ」
「邪魔にならない者を選びます」
「ならいい」
契約の話は、そのまま昼前まで続いた。
報酬。
権限。
材料。
職人の手配。
施工時期。
安全基準。
商会側の責任。
ガルドは口は悪いが、曖昧な点を見逃さなかった。
レインもまた、必要なところでは一歩も引かなかった。
そのやり取りは、少しだけ気持ちよかった。
対等だったからだ。
誰かが誰かを所有する話ではない。
価値を認め、条件を詰め、仕事で繋がる話だった。
診療所へ戻った頃には、外の光はすっかり朝になっていた。
扉を開けると、バルバラが振り返る。
「遅かったわね。仕事の話で盛り上がる男は嫌いじゃないわ」
「うるせえ」
ガルドはそう返したが、声には朝よりも力があった。
リィナが椅子から顔を上げる。
「ガルド」
ガルドの足が止まる。
「……なんだ」
「おかえり?」
また疑問形だった。
けれど、今度の言葉は朝よりも少しだけ自然だった。
ガルドは目を伏せた。
それから、静かに答える。
「……ただいま」
リィナは小さく頷いた。
「ただいま」
「それは帰ってきた方が言う言葉だ」
「そう」
「……まあ、ゆっくり覚えりゃいい」
「うん」
ガルドはそれ以上近づかなかった。
けれど、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
ロッカは寝台の上で、俺の腰を見ていた。
「アイリス」
「はい」
「剣、見せろ」
俺は一瞬だけ迷ったが、折れた剣の柄と、残った片方の剣を渡した。
ロッカは寝たまま、それを受け取る。
指が刃の根元をなぞる。
折れた面を眺め、柄の重さを確かめる。
昨日まで死にかけていた人間とは思えないほど、その目だけは鋭かった。
「お前、これで戦ってたのか」
「今までは問題ありませんでした」
「問題が起きたから折れたんだろ」
「……それは、そうですね」
ロッカは鼻を鳴らす。
「軽い。悪くはねえが、受ける剣じゃねえ。逃がす剣だ。お前の動きには合ってるが、相手の武器が上なら負ける」
「昨日みたいに?」
「ああ。灰晶石混じりの剣をまともに受けたら、そりゃ折れる」
ロッカは折れた面を見つめる。
「灰晶石はただ硬いだけじゃねえ。打ち方を間違えりゃ脆くなる。混ぜ方を間違えりゃ刃が死ぬ。扱うやつを間違えりゃ、人を殺すだけの道具になる」
「武器ですから、人を殺す道具なんじゃないんですか?」
「違う」
ロッカの声が、少しだけ強くなった。
「武器は、人を殺すだけの道具じゃねえ。守るためにも、道を切り開くためにも使える。誰が、何のために持つかで変わる」
俺は黙った。
ロッカは折れた剣の柄を俺へ返さなかった。
「……お前の剣は、ちゃんと打つ必要がある」
「ロッカさんが?」
「まだ決めてねえ」
そう言いながら、その顔はもう決めているように見えた。
ガルドが横から鼻で笑う。
「嘘が下手になったな、馬鹿息子」
「うるせえ、馬鹿親父」
「その身体で剣を打つ気か」
「今すぐ打つとは言ってねえ」
「当たり前だ。炉に近づいたらバルバラに殺されるぞ」
「それは嫌だな」
「美しくない死に方はさせないわよ」
バルバラが薬瓶を振りながら言った。
ロッカは嫌そうな顔をした後、もう一度俺を見た。
その目は職人の目だった。
「なあ、アイリス」
「はい」
「お前、夢はあるか」
「夢、ですか?」
「ああ」
ロッカは、折れた剣の柄を見下ろしたまま言った。
「お前がその剣で、どこまで行きたいのか。聞いておきたくなった」
診療所の中が、少しだけ静かになった。
俺はその問いに、すぐには答えられなかった。
自由に生きたい。
それはずっと胸の奥にある。
けれど、それを夢と呼ばれると、少しだけ照れくさい。
ロッカは急かさなかった。
ただ、折れた剣を見ていた。
まるで、その先にある俺の道まで見ようとしているみたいに。




