第九十一話 死んだ娘
第九十一話 死んだ娘
「……リィナ?」
その名前だけが、診療所の中に落ちた。
バルバラの診療所には、朝らしい光が入らない。
厚い布で覆われた窓。
薬瓶の淡い反射。
乾燥薬草と酒精の匂い。
その薄暗い部屋の中で、ガルドは完全に固まっていた。
床には、さっき手から落ちた古い工具袋が転がっている。中の金具が少しだけはみ出し、鈍い音の余韻だけがまだ耳に残っていた。
リィナは部屋の隅で首を傾げる。
「リィナ、です」
当たり前のように、自分の名前を答えた。
その声に、ガルドの大きな身体がわずかに震える。
「……リィナ」
もう一度、呼んだ。
今度は確かめるように。
祈るように。
ロッカが寝台の上で身を起こしかけた。
「親父、何言って……」
言葉がそこで止まる。
ロッカの目が、リィナの顔を捉えた。
黒い髪。
白い肌。
どこか幼さの残る目。
けれど、その顔立ちは整いすぎているほど整っていて、ヒュームともドワーフとも違う静けさがあった。
ロッカの喉が鳴る。
「……まさか」
俺は何も言えなかった。
分かっていたわけじゃない。
でも、断片はあった。
白い髪の人。
歌。
大きい手。
硬くて温かい手。
火の匂い。
リィナが何度も口にした記憶の欠片。
それが今、ガルドの顔の前で一つの形になろうとしている。
ガルドは一歩、リィナへ近づいた。
リィナの肩が、小さく跳ねる。
その瞬間、ガルドの足が止まった。
大きな手が途中まで上がり、そこで止まる。
まるで、自分の手が彼女を壊してしまうとでも思ったみたいに。
「……悪い」
ガルドは、掠れた声で言った。
リィナは不思議そうに瞬きをする。
「怒る?」
「怒らねえ」
「叩く?」
「叩かねえ」
「買った人?」
ガルドさんの顔が、苦しそうに歪んだ。
「違う」
「前の、持ち主?」
「違う……違うんだ」
低い声が震えていた。
リィナは分かっていない。
父親。
家族。
娘。
そういう言葉が、今のリィナの中でどういう形をしているのか分からない。
彼女にとって人との関係は、ずっと所有する側と所有される側だった。
番号で呼ばれ、検体として扱われ、商品として値をつけられた。
だから、目の前の大きな男がどれだけ震えていても、リィナはまず「持ち主かどうか」を確認してしまう。
それが、あまりにも痛かった。
「ガルドさん」
俺は静かに声をかけた。
「リィナは、まだ分かっていません」
「ああ」
「だから、今はまだ…」
「……分かってる」
ガルドはそう言った。
それだけで、この人がオルグとはまるで違うと分かった。
オルグなら、きっと所有を口にする。
血。
家。
価値。
役割。
自分のものだと言い、当然のように手を伸ばす。
けれどガルドは、手を止めた。
父親なのに。
死んだと思っていた娘が目の前にいるのに。
それでも、リィナが怯えたから止まった。
バルバラが静かに腕を組む。
「説明できるかしら、親玉さん」
「誰が親玉だ」
いつものように返した声は、弱かった。
ガルドは床に落ちた工具袋を拾わないまま、リィナを見ていた。
「あいつは……白い髪だった」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「俺の妻だ。エルフの女だった。歌が好きでな。よく歌ってたよ」
リィナの目が少しだけ動く。
「うた」
「ああ。お前を抱く時、いつも同じ歌を歌ってた」
ガルドの声がかすれる。
「俺は手が硬いから、赤ん坊を抱くのが下手でな。あいつによく怒られた。力を抜けって。そんな手で抱いたら泣くってな」
ガルドは自分の手を見た。
大きく、硬く、傷だらけの手。
「でも、お前は泣かなかった」
リィナが、自分の胸元に手を当てる。
「大きい手」
ガルドの息が止まった。
「かたい手」
リィナはゆっくりと、言葉を拾う。
「あったかい。火のにおい」
ロッカが顔を伏せた。
「……生きてたのかよ」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
自分自身に、吐き出したような声だった。
「俺たちは、死んだと思ってた」
ロッカの拳が、寝台の布を握る。
「血があった。部屋がめちゃくちゃで、母さんは……それで、リィナも、どこにもいなくて」
リィナはロッカを見る。
「母さん?」
ロッカは言葉に詰まった。
ガルドが目を閉じる。
「あの日、魔獣が出た」
その声は、低く沈んでいた。
「俺とロッカは外にいた。戻った時には、家は壊れてた。あいつは……お前の母親は、もう動かなかった。リィナは消えてた。血の跡が森へ続いてた」
ガルドは奥歯を噛む。
「探した。何日も探した。だが、見つからなかった」
リィナは黙って聞いている。
理解しているのかは分からない。
けれど、その目はいつもよりも少しだけ揺れていた。
「俺は、死んだと思った」
ガルドの声が折れた。
「そう思うしか、なかった」
沈黙が落ちる。
誰も口を挟めなかった。
ニカも寝台の上で息を潜めている。
バルバラでさえ、茶化さなかった。
リィナは、ゆっくりとガルドを見る。
「父?」
小さな声だった。
ガルドさんの肩が震える。
「ああ」
「父って、なに?」
その問いに、ガルドの顔が歪んだ。
答えはある。
でも、今のリィナに届く言葉が見つからない。
ロッカが掠れた声で言う。
「家族、だ」
「かぞく」
「一緒にいて、飯食って、喧嘩して、怒って、笑って……そういうやつだ」
「ロッカも?」
ロッカは目を逸らした。
「……兄だ」
「兄って、なにする人?」
「うるせえ」
ロッカは乱暴に言った。
けれど、声は震えていた。
「これから覚えりゃいい」
リィナは首を傾げる。
「ロッカ、兄」
「呼び捨てでいい」
「ロッカ」
「……おう」
それだけのやり取りで、ロッカは苦しそうに笑った。
ガルドはまだ立ったままだった。
近づきたいはずだ。
抱きしめたいはずだ。
けれど、リィナが一歩でも引けば、そこで止まる覚悟をしている。
大きな身体が、まるで小さく見えた。
「リィナ」
ガルドが呼ぶ。
リィナはびくりとはしなかった。
ただ、見上げる。
「俺は……お前の父親だ」
「父」
「ああ。でも、今すぐそう思えとは言わねえ」
ガルドは、ゆっくりと膝をついた。
大きな身体が、リィナより低くなる。
「怖いなら近づかねえ。嫌なら呼ばなくていい。俺のことを覚えてねえなら、それでいい」
リィナは瞬きをする。
「怒らない?」
「怒らねえ」
「名前、リィナって呼ぶ?」
「ああ」
「番号じゃなくて?」
「番号じゃねえ」
「検体じゃなくて?」
「違う」
ガルドの声が、かすれた。
「お前は、リィナだ」
リィナは自分の胸に手を当てた。
「リィナ」
「ああ」
「ガルドは、怒らない声」
その瞬間、ガルドの目が赤くなった。
でも、涙は落ちなかった。
落とすことすら、今のリィナには重いと思ったのかもしれない。
バルバラが小さく手を叩いた。
「はい、そこまで」
全員の視線が向く。
「感動の再会は美しいわ。でも、患者二人と混乱した子を詰め込みすぎるのは美しくない。ロッカ、寝なさい。ニカ、もちろん寝なさい。リィナはアイリスの近く。親玉さんは声を荒げない。分かった?」
「だから誰が親玉だ」
「今それに反論できるなら、少しは大丈夫ね」
バルバラはそう言って、ロッカを寝台へ押し戻した。
「痛え」
「痛いなら生きてる証拠よ」
「それ三回目くらいだぞ」
「名言は何度言っても美しいの」
空気が少しだけ動いた。
けれど、深い場所に落ちたものは消えない。
ガルドは、しばらくリィナを見ていた。
それから、俺の方へ向き直る。
「アイリス」
「はい」
「あの子を、急に俺の娘にしなくていい」
低い声だった。
「あいつが怖がるなら、近づけなくていい。俺のことを忘れてるなら、それでいい。父親だなんて、今さら押しつける気はねえ」
ガルドはリィナを見る。
「ただ、生きてる」
その一言は、祈りのようだった。
「それだけで、今はいい」
俺は何も言えなかった。
ガルドは続ける。
「好きにさせてやってくれ。あいつが安心できる場所に置いてやってくれ。俺がどうこう言うより、今はそれが先だ」
「分かりました」
「けど」
ガルドさんの拳がわずかに握られる。
「あいつが知りたいと言ったら、その時は話す。全部だ。母親のことも、家のことも、俺のことも、ロッカのことも」
「はい」
「それまでは、待つ」
待つ。
その言葉が、この人のこれまでを思わせた。
会えない息子を待ち続けた人。
死んだ娘を心の底で葬りきれなかった人。
その人が、また待つと言った。
今度は、奪われた側ではなく、リィナのために。
俺は静かに頭を下げた。
「リィナが安心できるようにします」
「頼む」
その頼む、は重かった。
父親としての権利ではなく、父親としての祈りだった。
リィナが俺の服の裾を小さく掴んだ。
「アイリス」
「うん」
「父、怖くない?」
俺はリィナの目を見た。
「怖くないよ」
「怒らない?」
「怒らないよ」
「リィナって呼んだ」
「うん」
「怒らない声だった」
ガルドが息を呑む。
リィナはまだ分かっていない。
父という言葉も、家族という言葉も、兄という言葉も、まだ彼女の中で形になっていない。
それでも、怒らない声だったことは分かった。
番号ではなく、名前で呼ばれたことは分かった。
今はそれだけで十分なのかもしれない。
ロッカが寝台の上で小さく呟いた。
「リィナ」
リィナが振り向く。
「なに、ロッカ」
「……なんでもねえ」
「へんなの」
「うるせえ」
ロッカは顔を背けた。
その横顔は、泣きそうにも、笑いそうにも見えた。
バルバラが薬を混ぜながら言う。
「今日はここまで。家族会議は明日以降。今は全員、生きてることを優先しなさい」
「家族」
リィナがその言葉を繰り返す。
「父。兄。リィナ」
そして、少し遅れて俺を見る。
「アイリスは?」
「私は……」
言葉に迷った。
リィナにとって俺は何なのだろう。
買った人。
助けた人。
名前を呼んだ人。
まだ、どれも正確ではない気がした。
すると、ニカが寝台から言った。
「友達でいいんじゃない?」
リィナは瞬きをする。
「ともだち」
「うん。嫌じゃなければ」
リィナは俺を見る。
「アイリス、ともだち?」
俺は少し笑った。
「うん。リィナが嫌じゃなければ」
リィナは考え込む。
そして、小さく頷いた。
「いやじゃない」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
ガルドはそのやり取りを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
死んだと思っていた娘は、生きていた。
けれど、失われた時間は戻らない。
父と娘の間には、まだ灰よりも厚い沈黙が積もっている。
それでも、リィナは名前を呼ばれた。
怒らない声で。
番号ではなく、検体でもなく、商品でもなく。
リィナとして。
それだけが、朝の来ない診療所の中で、小さな火のように残っていた。




