第九十話 約束の履行
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ごめんなさーい!!
第九十話 約束の履行
獣車は夜の王都南区を抜けていく。
車輪が石畳を叩く音が、やけに遠く聞こえた。
背後ではまだ灰炉の騒ぎが続いているはずなのに、熱も怒号も、少しずつ夜の闇へ溶けていく。
けれど、喉の奥には灰の味が残っていた。
ロッカ・バルグレンは荷台の壁にもたれ、荒い息を吐いていた。
煤だらけの髪。
伸びた髭。
痩せた頬。
背中には鞭の跡があり、腕には火傷と切り傷がいくつも走っている。
その身体は、ガルドさんと同じように大きい。
けれど、灰炉に削られすぎていた。
「……本当に」
ロッカが掠れた声で言った。
「親父が待ってるのか」
「はい」
「まだ飲んでるか」
「たぶん」
「だろうな」
ロッカは短く笑い、すぐに咳き込んだ。
喉の奥から、嫌な音がした。
煤と血の混じった唾が布に落ちる。
俺は思わず身を乗り出す。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか」
「見えません」
「なら聞くな」
口は悪い。
けれど、声に力はない。
ダリオが御者台から振り返らずに言った。
「まずはバルバラのところへ戻るぞ。親父に会わせるにしても、その前に死なれたら寝覚めが悪い」
「医者か」
「闇薬師だ」
「ますます嫌な響きだな」
「腕は確かだ。性格は知らん」
「知らねえのかよ」
ロッカはまた少し笑って、また咳き込んだ。
俺は折れた剣の柄を握りしめていた。
片方の刃は灰炉に残った。
もう片方は腰にある。
双剣の片割れを失っただけなのに、身体の重心まで変わったように感じる。
灰晶石混じりの剣。
あれはただの私兵が持つには、明らかに良すぎた。
武器素材を大量に加工する施設。
ベルゼアの名を隠してまで回している灰炉。
そこで使い潰される奴隷たち。
戦争でも起こす気か。
そんな考えが頭をよぎったが、今は飲み込んだ。
まずは、ロッカを生かす。
ガルドさんへ返す。
約束を果たす。
獣車は裏路地を抜け、赤い花の絵が描かれた扉の前で止まった。
ダリオが扉を叩く前に、内側から声がした。
「生きてる?」
「開けろ、バルバラ」
「返事としては雑ね」
扉が開く。
白衣を羽織った筋肉の壁が、灯りを背負って立っていた。
スキンヘッドに丁寧な化粧。
紫の耳飾り。
夜中なのに、いや夜中だからこそ、存在感が強すぎる。
バルバラはロッカを一目見た瞬間、表情を変えた。
「……あら、これは酷いわね」
「医者か」
ロッカが警戒した目で見る。
「美しい医者よ」
「情報量が多いな」
「生意気を言えるなら、まだ死なないわ。入りなさい」
俺たちはロッカを支え、診療所の中へ入った。
ニカは寝台の上で上体を起こしかけていた。
金色の目がこちらを捉えた瞬間、ほっとしたように揺れる。
「アイリス」
「ただいま」
「ロッカさん?」
「そうだよ」
ニカはロッカを見た。
そして、自分も立とうとして、すぐにバルバラに睨まれた。
「あんたは寝てなさい」
「ちょっと見るだけ」
「見るのに立つ必要はないわ」
「厳しいなー」
「命を拾った患者には厳しくする主義なの」
ニカは不満そうにしながらも、寝台へ戻った。
リィナは部屋の隅で膝を抱えていた。
俺たちが入ってくると、すぐに顔を上げる。
その目がロッカに止まった。
「……ろっか」
小さな声だった。
ロッカも一瞬、リィナを見る。
黒髪。
首輪。
幼い目。
大人びた身体。
「黒髪……エルフか?」
「リィナです」
俺が言うと、ロッカは眉を寄せた。
「リィナ?」
その名前を口にした時、ロッカの声が少しだけ引っかかった気がした。
だが、次の瞬間、バルバラが大きな手を叩いた。
「感傷も詮索も後。まず診察。そこの大きい煤だらけちゃん、寝台へ」
「大きい煤だらけちゃんって俺のことか」
「他に誰がいるのよ」
「ふざけた医者だな」
「黙って寝なさい。死にかけの患者が医者を評価するなんて、美しくないわ」
ロッカは文句を言いたげだったが、足元がふらついた。
俺とダリオで支え、空いた寝台へ寝かせる。
バルバラの手つきは早かった。
服を切り、鞭傷を確認し、喉を見て、目を覗き込み、胸に耳を当てる。
ふざけた口調とは裏腹に、その目は完全に医者のものだった。
「肺が荒れてる。喉も焼けてる。目もやられかけ。栄養状態は最悪。鞭傷は新しい。古傷も多い。火傷もまともに処置されてない」
「ドワーフは頑丈なんだよ」
「頑丈と無事は違うわ。覚えなさい」
バルバラは薬瓶をいくつか取り出した。
「灰晶石ね」
ロッカの目が細くなる。
「分かるのか」
「分かるわよ。粉塵で喉を焼いた患者は何度か診てる。まともな工房なら長時間吸わせない。あんな症状になるまで働かせるなんて、まともじゃないわ」
「まともな場所じゃなかったからな」
「でしょうね」
バルバラは淡々と言った。
「今すぐ死にはしない。でも無茶は駄目。肺は休ませる。目も様子見。背中は処置する。しばらく鍛冶場の煙も避けなさい」
「親父に会うまでは寝ねえ」
「寝ない患者は嫌いよ」
「嫌われてもいい」
ロッカの声は弱いが、そこだけは譲らなかった。
バルバラはしばらくロッカを見た。
それから、深いため息をつく。
「まったく、美しくない頑固者ね」
「よく言われる」
「でしょうね。血筋かしら」
俺は思わず苦笑した。
バルバラは包帯を巻きながら言った。
「長くは駄目。獣車で行く。歩かせない。会わせたらすぐ戻す。いいわね」
「ありがとうございます」
「礼は金でいいわ」
「払います」
「本当に即答ばっかりね、あんた」
バルバラはロッカに薬を飲ませた。
ロッカは顔をしかめる。
「まっず」
「生きる味よ」
ニカが寝台から小さく笑った。
「それ、私も言われた」
「患者はだいたい同じことを言うのよ。苦い、まずい、死にそう。死にそうなのはこっちが見て分かってるっていうの」
少しだけ、空気が緩んだ。
けれど、リィナだけはずっとロッカを見ていた。
「火のにおい」
リィナが呟く。
ロッカの視線が動く。
「お前、俺を知ってるのか」
リィナは首を傾げた。
「わかんない」
「じゃあ、なんで俺の名前を」
「ろっか。火の、ところ。灰。大きい手」
俺の胸の奥が、静かに鳴った。
白い髪の人。
歌。
大きい手。
硬くて温かい手。
火の匂い。
繋がりそうで、まだ繋がらない。
バルバラがリィナの前に立った。
「リィナ。今はそこまで」
「はい」
リィナは素直に頷いた。
ロッカはまだ何か言いたそうだったが、咳がそれを邪魔した。
俺は口を開く。
「ロッカさん。ガルドさんのところへ行きましょう」
「……ああ」
「立てますか」
「這ってでも行く」
「這わなくていいです。支えます」
「子ども扱いするな」
「患者扱いです」
ロッカは不満そうに顔をしかめたが、反論する体力はなさそうだった。
ダリオが獣車を回す。
ニカが寝台からこちらを見た。
「アイリス」
「うん」
「ちゃんと戻ってきて」
「戻るよ」
「ロッカさんも」
「もちろん」
ロッカがニカを見る。
「お前も患者か」
「毒針食らった」
「笑えねえな」
「そっちも灰まみれで笑えないよ」
「違いねえ」
二人は短く笑った。
俺たちは診療所を出た。
夜が薄くなり始めていた。
東の空がわずかに青い。
王都の外れにはまだ静けさが残っている。
ガルドさんの工房へ近づくにつれ、俺の胸も少しずつ重くなっていった。
約束を果たせる。
そう思うのに、怖かった。
ロッカの傷を見れば、ガルドさんがどれほど苦しむか分かる。
息子が生きて戻る喜びと、三年分の痛みが同時に来る。
古い工房の前に着いた。
割れた看板はまだ風に揺れている。
窓枠には埃。炉の煙突は沈黙したまま。
冷えた工房。
でも今日は、そこへ帰ってくる人がいる。
俺は扉を叩いた。
少し間がある。
中から低い声がした。
「誰だ」
「アイリス・シエーレです」
乱暴な足音が近づいてくる。
「夜明け前から何の用――」
扉が開いた。
ガルドさんの言葉が途中で止まった。
その目が、俺の隣にいる男を捉える。
煤だらけで、痩せて、傷だらけで、俺に肩を借りて立っている男。
それでも、確かにそこにいる。
ロッカ・バルグレン。
ガルドさんの目が、大きく見開かれた。
「……ロッカ」
声になりきらない声だった。
ロッカは少しだけ顎を上げる。
「親父」
それだけだった。
それだけで、三年分の時間が工房の前に落ちた気がした。
ガルドさんが一歩近づく。
大きな手が伸びる。
だが、その手は途中で止まった。
触れていいのか、分からないように。
ロッカはかすれた声で笑った。
「なんだよ。殴らねえのか」
ガルドさんの顔が歪んだ。
拳が一瞬、握られる。
けれど次の瞬間、その腕はロッカの背中へ回った。
「馬鹿野郎」
低い声だった。
「生きてんなら、それでいい」
ガルドさんは、ロッカを抱きしめた。
大きな身体が、傷だらけの息子を包む。
ロッカは最初、固まっていた。
それから、わずかに肩を震わせた。
「俺が……工房を……」
「黙れ」
「俺が、貴族を殴ったから」
「黙れって言ってんだろ」
ガルドさんの声が震えていた。
「工房なんざ、また建てりゃいい」
ロッカの息が止まる。
「お前は一人しかいねえ」
沈黙が落ちた。
ロッカの手が、ゆっくりとガルドさんの服を掴んだ。
「……馬鹿親父が」
「馬鹿息子が」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
俺は少しだけ視線を外した。
見るべきではないと思った。
でも、目を逸らしきることもできなかった。
ガルドさんがロッカから身体を離したのは、しばらくしてからだった。
彼はロッカの肩を支え、俺の方を向く。
「アイリス・シエーレ」
「はい」
「お前は、俺の息子を連れ戻した」
「約束しましたから」
「ああ」
ガルドさんは深く息を吐いた。
そして、頭を下げた。
「ありがとう」
その一言は、重かった。
屈辱ではない。
媚びでもない。
筋を通す男が、感謝として下げた頭だった。
俺は慌てて首を振る。
「頭を上げてください」
「上げる。だが、言わせろ」
ガルドさんは顔を上げた。
その目は赤かった。けれど、昨日までの濁りとは違う。
「この恩は、仕事で返す」
低く、はっきりした声だった。
「俺の腕が要るなら使え。海辺だろうが、商会だろうが、建ててやる。手は抜かねえ」
ガルドさんの拳が、静かに握られる。
「息子の命の借りを、半端な仕事で返せるか」
胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます、ガルドさん」
「礼を言うのはこっちだ」
「ハルヴェイ商会には、正式に話を通します」
「契約書を持ってこい。報酬も条件も、仕事として詰める」
ガルドさんは言った。
「だが、受ける。約束は約束だ」
その言葉で、ここまで続いていたものが、確かに一つ結ばれた気がした。
「親父」
ロッカが低く言った。
「酒臭え」
ガルドさんの眉が動く。
「うるせえ」
「工房も埃臭え」
「黙れ」
「炉、冷えてんぞ」
「……」
「帰ってきたんだから、火くらい入れろよ」
ガルドさんは一瞬、何かを言おうとして、やめた。
そして、乱暴にロッカの頭を掴んだ。
「その身体で偉そうに言うな、馬鹿息子」
「痛え」
「痛いなら生きてる証拠だ」
「その台詞、さっき医者にも言われた」
「ろくでもねえ医者だな」
「見た目もろくでもねえ」
少しだけ笑いが漏れた。
その瞬間、ロッカが激しく咳き込んだ。
ガルドさんの顔色が変わる。
「ロッカ」
「大丈夫だ」
「大丈夫な咳じゃねえ」
「分かってるなら聞くな」
親子で似たようなことを言う。
俺はロッカを支え直した。
「バルバラさんが診ています。一度戻りましょう。長くは外に出せないと言われています」
「俺も行く」
ガルドさんは即座に言った。
「もちろんです」
ロッカは小さく舌打ちした。
「大げさだな」
「三年分だ。黙って付き合え」
「……勝手にしろ」
ガルドさんは工房の中へ一度戻り、古い外套を羽織った。
それから、入口の横に立てかけてあった古い工具袋を手に取る。
癖なのか、迷わずそれを肩にかけた。
冷えた炉のある工房を振り返る。
その目に、ほんの少しだけ火が戻っているように見えた。
俺たちは再び獣車に乗り、バルバラの診療所へ向かった。
夜明けが近い。
王都の空が薄く白み始めている。
ガルドさんは獣車の中で、ロッカの肩を支えていた。ロッカは文句を言いながらも、その手を払いのけなかった。
診療所に戻ると、バルバラが扉を開けた。
「あら、親玉が増えたわね」
「誰が親玉だ」
「その筋肉と顔で違うと言うのは無理があるわ」
「なんだこの医者は」
「美しい医者よ。何度も言わせないで」
ガルドさんは一瞬、本気で言葉を失った。
バルバラは気にせず中へ促す。
「早く入りなさい。患者を外で冷やすなんて、美しくないわ」
俺たちはロッカを中へ入れた。
ニカがほっとした顔をする。
そして、部屋の隅でリィナが顔を上げた。
黒い髪が肩に落ちる。
幼い目。
白い肌。
どこか人形のような危うさ。
ガルドさんの足が止まった。
俺はその変化に気づき、振り返る。
ガルドさんは、リィナを見ていた。
ただ見ているのではない。
息を忘れたように、完全に固まっている。
リィナは首を傾げた。
「だれ?」
その声が落ちた瞬間、ガルドさんの手から古い工具袋が滑り落ちた。
鈍い音が、診療所の床に響く。
ガルドさんの唇が震えた。
「……リィナ?」
その名前だけが、朝の来ない診療所に落ちた。




