第八十九話 灰の檻
第八十九話 灰の檻
灰炉の熱は、奥へ進むほど濃くなっていった。
喉の奥に煤が貼りつく。
目が乾く。
息を吸うたびに、細かい粉が肺の内側を削るような感覚があった。
ここで働かされている者たちは、この空気を毎日吸っている。
腕に布を巻いた男が、灰色の鉱石を砕いていた。
痩せた女が、粉を詰めた箱を両腕で抱えて運んでいた。
年老いた職人が炉の前で膝をつき、咳をしながら棒で灰を掻き出していた。
灰晶石。
ダリオが小声で言った。
「武器に混ぜる素材だ。高い。硬くなる。刃が持つ。だから欲しがる連中は多い」
「……武器」
「ああ。問題は、加工する人間の身体が持たねえことだ」
俺は奥歯を噛んだ。
武器を作るために、人間を削っている。
ベルゼア第四加工倉は、工房ではなかった。
ここは檻だ。
灰と熱と鎖でできた、逃げ場のない檻。
「手を止めんな!」
炉の前で、ロッカが怒鳴った。
「布を当てろ! 粉を吸うな! そこの箱はまだ閉じるな、湿気が残ってる!」
その声は荒かった。
優しくはない。
だが、ただ怒鳴っているわけではなかった。
「三番炉の温度を落とすな! 落としたら今日の分が飛ぶ! 倒れるなら炉から離れて倒れろ! 巻き込まれたら全員止まる!」
ロッカ自身の足にも重い拘束具がある。
首にも鉄の輪があり、腕には火傷と傷が走っている。
奴隷なのに、奴隷を動かしている。
いや、動かさせられている。
成果を出さなければ、責任を負わされる。
他の者が倒れても、炉は止められない。
ノルマが落ちれば、罰が来る。
それを一番よく知っているから、ロッカは怒鳴っていた。
「ロッカ・バルグレン」
現場監督らしき男が、帳面を片手に炉区へ入ってきた。
革の手袋。
整った服。
煤一つついていない靴。
その姿だけで、ここで働く者ではないと分かる。
「灰晶粉、二箱不足。三番炉、焼成遅れ。責任者、前へ」
ロッカはゆっくりと立ち上がった。
「炉を休ませねえと割れる。割れたら明日は一箱も出ねえぞ」
「明日の不足は明日払わせる」
監督は冷たく言った。
「今日の不足は、今日払え」
ロッカの口元が歪む。
「いい商売だな。人間を燃やせば灰晶粉が増えると思ってやがる」
「口数一つ追加」
監督が合図をすると、横にいた私兵が鞭を持った。
奴隷たちは誰も動かなかった。
誰も目を逸らせなかった。
誰も助けようとはしなかった。
助けないのではない。
助ける余裕を、奪われている。
鞭が振り下ろされた。
鈍い音が、灰炉に響く。
ロッカの身体が揺れた。
それでも膝はつかなかった。
二度目。
三度目。
俺の足が、勝手に前へ出かけた。
その肩を、ダリオの手が押さえる。
「嬢ちゃん、飲め」
「……」
「今吐き出す怒りじゃねえ。ここで暴れたら、あいつを出す前に全部閉じる」
分かっている。
分かっているのに、視界の端が赤く染まりそうだった。
壊したい。
今すぐに。
あの監督も、私兵も、この炉も、全部。
けれど、壊しに来たんじゃない。
連れ戻しに来た。
ガルドさんに言った。
ロッカさんは、私が助けます。
その言葉を嘘にしないために、今は飲み込むしかなかった。
鞭が止まる。
ロッカは肩で息をしていた。
背中の服が裂け、血が滲んでいる。
「今日中に不足分を埋めろ」
監督が吐き捨てる。
「次は十だ」
監督が離れかけた瞬間、ダリオが小さく舌を鳴らした。
「動くぞ」
彼は荷の方へ戻ると、わざとらしく声を荒げた。
「おい、数が合わねえぞ! こっちは炉材十二束で札を切ってんだ。十束しか受けねえなら、差分の責任は誰が持つ!」
見張りが反応する。
ダリオはさらに声を張った。
「上の商会に確認させろ。こっちはこっちで記録が残ってんだよ。後で不足だの横流しだの言われるのはごめんだぜ」
監督の顔が歪む。
「面倒な……」
彼が搬入口の方へ歩き出す。
ダリオがすれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で言った。
「八息だ」
短い。
でも、今しかない。
俺は影の通路から滑るように炉の近くへ移動した。
ロッカがこちらを見る。
目が鋭い。
倒れかけていても、死んだ目ではない。
「誰だ」
低い声。
「新しい買い手か。それとも俺の代わりを探しに来たか」
「アイリス・シエーレです」
「あ?」
「ガルド・バルグレンさんに頼まれて来ました」
その名を聞いた瞬間、ロッカの表情が止まった。
だが、次の瞬間には顔が歪む。
「嘘をつくなら、もう少しまともにつけ」
「嘘じゃありません」
「親父がヒュームの小娘に頼むわけねえだろ」
「頼まれた、とは少し違います」
「じゃあ何だ」
「約束しました」
ロッカの目が細くなる。
「ガルドさんは、あなたを助けに行きました。詰所にも、役所にも、その貴族の屋敷にも。工房の道具を売って、金を積んで、頭を下げて、土に額を擦りつけたこともあると言っていました」
ロッカの喉が、小さく動いた。
「それでも会わせてもらえなかった。最後には、次に来れば息子は即刻死刑だと脅された。だから、動けなくなった」
「……やめろ」
ロッカの声が、わずかに揺れた。
「あの人は、あなたを諦めていません」
「やめろ」
「恨んでもいません」
「やめろって言ってんだろ」
ロッカの手が俺の襟を掴みかけて、鎖に引かれて
止まった。
その顔には怒りがあった。
けれど、それだけではない。
「俺が殴ったんだ」
絞り出すような声だった。
「俺が貴族を殴った。俺が工房を潰した。親父の炉を止めた。あの人の全部を壊したのは、俺だ」
「ガルドさんは、そうは言っていませんでした」
「じゃあ何て言った」
「ロッカ・バルグレン。俺の息子だ。工房を継ぐはずだった、と」
ロッカの目が見開かれる。
「私は言いました。ロッカさんは、私が助けますと」
時間がない。
でも、ここだけは省けなかった。
「ガルドさんは言いました。できたら、何でもしてやると」
「……馬鹿親父が」
ロッカはそう呟いた。
その声は、灰炉の熱に掠れていた。
「だから、迎えに来ました。あなたを連れて帰って、約束を果たしてもらうために」
ロッカは俺を見た。
ほんの数秒。
いや、一秒にも満たなかったかもしれない。
けれど、その目の奥で、何かが決まったのが分かった。
「俺が抜ければ、今日のノルマは落ちる」
「分かっています」
「残った連中が打たれる。俺の代わりに誰かが責任を取らされる」
「それも、分かっています」
「分かってねえ顔だ」
ロッカは血の混じった唾を吐き捨てた。
「だが、ここに残っても俺は長くねえ。肺が焼けてる。目も霞む。あと何日もつかなんざ、俺にも分からねえ」
「出ましょう」
「ただ出るんじゃねえ」
ロッカの目が炉へ向く。
「三番炉を詰まらせる」
「詰まらせる?」
「爆ぜさせるんじゃねえ。灰を逆流させる。煙と灰で視界が潰れる。奴らは炉を止めに走る。その間に灰捨て口から出る」
「できますか」
「誰に聞いてる」
その顔に、ほんのわずかだけ職人の意地が戻った。
「炉を舐めんな。職人を舐めんな」
俺は小さく頷いた。
その瞬間、遠くで監督の声が響いた。
「何をしている!」
見つかった。
ダリオが舌打ちする音が聞こえる。
ロッカが即座に炉へ向かって手を伸ばした。
「そこの灰板を引け!」
俺は灰まみれの鉄板を引いた。
熱い。
手袋越しでも熱が刺さる。
ロッカが炉の通気をずらし、灰の流れを変える。
次の瞬間、三番炉が低く唸った。
ぼふっ、と鈍い音。
灰色の煙が逆流し、炉区に広がる。
「炉が詰まったぞ!」
「水を持ってこい!」
「換気を開けろ!」
怒号が飛ぶ。
視界が白灰に染まる。
その中で、私兵が一人こちらへ突っ込んできた。
「逃がすな!」
剣が振り下ろされる。
俺は双剣を抜き、受けた。
硬い。
いつもの鉄とは違う。
刃が触れた瞬間、嫌な振動が手首へ走った。
灰晶石混じりの剣。
もう一撃。
甲高い音がして、俺の片方の剣に亀裂が走った。
「っ」
三撃目で、刃が折れた。
銀色の欠片が灰の中へ飛ぶ。
私兵が笑う。
「そんな安物で――」
言い終わる前に、俺は折れた剣を捨てた。
残った一本で相手の剣を逸らし、踏み込み、肘を腹へ叩き込む。
膝が落ちた瞬間、首筋へ柄を打ち込む。
私兵は声もなく崩れた。
ロッカがそれを見ていた。
「腕は悪くねえ」
「ありがとうございます」
「だが剣が泣いてる。そんなもんでよく戦ってたな」
「今、折られたんですけど」
「折れる剣を持ってるのが悪い」
「理不尽ですね」
「職人の正論だ」
こんな状況で、少しだけ笑いそうになった。
俺たちは灰の中を走った。
周囲の奴隷たちがこちらを見る。
誰も声をかけなかった。
祝福もない。
祈りもない。
羨望。
嫉妬。
諦め。
無関心。
どの目にも、綺麗な感情はなかった。
それを責めることはできない。
ここは、人が誰かの幸運を喜べる場所ではない。
ロッカは一瞬だけ足を止めた。
その背中に、いくつもの視線が突き刺さっていた。
「ロッカさん」
「分かってる」
彼は低く言った。
「振り返ったら、戻っちまう」
俺は何も言わなかった。
灰捨て口は炉の裏にあった。
狭い。
熱い。
人が通るようには作られていない。
「行けるんですか」
「通るんだよ」
ロッカが先に身を滑り込ませる。
俺も続いた。
背中を石に擦り、手を灰に突っ込み、喉を焼きながら進む。
外の空気が近づく。
最後に錆びた格子があった。
「外せますか」
「そこ、下のピン」
ロッカの指示通りに押す。
格子がわずかに浮く。
俺は身体を押し込み、外へ出た。
夜風が肌に触れた。
冷たい。
こんなにも、外の空気は冷たかったのか。
ロッカも外へ転がり出る。
その直後、激しく咳き込んだ。
煤と血が混じった唾が地面に落ちる。
「外の空気ってのは……こんなに冷たかったか」
路地の奥で、獣車が止まっていた。
ダリオが御者台から手を振る。
「乗れ!」
俺はロッカに肩を貸し、獣車へ駆けた。
背後ではまだ灰炉が騒がしい。
けれど、追手は遅れている。
獣車に乗り込むと同時に、車輪が回り出した。
ロッカは荷台に背を預け、荒い息を吐く。
煤だらけの顔で、夜空を見上げていた。
何年ぶりなのかは、聞けなかった。
「ガルドさんが待っています」
俺が言うと、ロッカは目を閉じた。
長い沈黙の後、掠れた声が落ちる。
「……馬鹿親父が」
声が震えていた。
獣車は夜の南区を抜けていく。
灰炉の熱が、背中から遠ざかる。
ロッカは連れ出した。
けれど、あの灰の檻はまだそこにある。
喉の奥に残る灰の味が、それを忘れるなと囁いていた。




