第八十七話 白薔薇回廊
第八十七話 白薔薇回廊
朝になっても、バルバラの診療所に朝らしさはなかった。
窓は厚い布で覆われ、外の光はほとんど入らない。
代わりに、棚に並んだ薬瓶が淡く色を返し、乾燥した薬草の匂いと、消毒に使う酒のような匂いが混ざっていた。
その中で、ニカは寝台に寝かされていた。
顔色は昨夜よりはましになっている。
唇にも少しだけ色が戻っていた。
けれど、額にはまだ薄く汗が滲み、腕には分厚い包帯が巻かれている。
「生きてるわね。美しいわ。死んでたら治療費を倍にしてたところよ」
寝台の横で腕を組むバルバラが、朝一番から濃すぎる声でそう言った。
白衣を羽織った筋肉の壁。
スキンヘッドに、丁寧な化粧。紫の耳飾り。
鍛え上げられた胸板と腹筋。腕は太いのに、包帯を替える指先だけは妙に繊細だった。
ニカは目だけを動かして、バルバラを見る。
「死んでても取るの?」
「当たり前でしょ。死体だって場所を取るのよ」
「ひどい医者」
「失礼ね。生きて文句が言えるようにしたんだから、むしろ感謝しなさい」
ニカは小さく笑い、それから顔をしかめた。
「痛っ……笑うのもしんどい」
「でしょうね。毒を抜いたとはいえ、身体の中は荒らされてるもの。今日は絶対安静。戦闘どころか、走るのも駄目。起き上がるのも私の許可がいるわ」
「面倒くさい」
「患者が面倒くさいことを言うのは、もっと面倒くさいわ」
バルバラはそう言って、薬瓶を一本持ち上げた。
「飲みなさい」
「また苦いやつ?」
「生きる味よ」
「それ昨日も聞いた」
「なら覚えがいいじゃない」
ニカは嫌そうな顔をしながらも、薬を飲んだ。
すぐに眉間に皺が寄る。
「まっず」
「生きてる証拠」
そのやり取りを聞きながら、俺は手の中の封筒を見下ろしていた。
白い封蝋。
薔薇の意匠。
微かに残る甘い花の香り。
明日の夜、学院の白薔薇回廊へ。
君の探し物へと続くその扉の名を教えてあげる。
署名はない。
けれど、誰からのものかは分かっている。
「行くの?」
ニカが聞いた。
俺は封筒を折り、懐にしまう。
「行く」
「一人で?」
「行く」
「その言い方、もう止めても無駄って感じだね」
「うん」
「その手紙の感じ、ルシェルなんでしょ」
「うん」
「じゃあ余計に一人で行かせたくないんだけど」
ニカの声は弱い。それでも、目だけはいつものようにまっすぐだった。
俺は寝台の横へ行き、少しだけ身をかがめる。
「ニカは動いちゃ駄目」
「分かってる。でも、分かってるのと納得するのは別」
「納得しなくていい。ニカの命の方が大切」
「そんなのずるいよ。でも…嬉しい」
「じゃあ、ニカはゆっくりしてないとダメだからね」
ニカは少し不満そうに口を尖らせたが、反論はしなかった。
昨夜の毒がどれほど危険だったか、本人も分かっているのだろう。
部屋の隅では、リィナが小さく座っていた。
黒い髪。
首輪。
鎖。
大人びた身体つきに、幼い目。
彼女はずっと、自分の胸元に手を当てている。
まるで、そこに名前が落ちていないか確かめているように。
「リィナ」
俺が呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らした。
それから、恐る恐る顔を上げる。
「はい」
「今日はここにいて。バルバラさんの言うことを聞いて」
「ご主人さまは、行く?」
「行く」
「リィナも、行く?」
「行かない。ここで待つ」
リィナは少し考えてから、首輪に触れた。
「逃げないよ」
「逃げる心配をしてるんじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「危ないから」
そう言うと、リィナは不思議そうな顔をした。
自分が危ない場所に連れていかれないことが、分からない。
守られるという意味を、まだうまく理解できていない。
バルバラが横から口を挟んだ。
「黒髪ちゃんは置いていきなさい。その首輪もあるし、連れ回す方が美しくないわ。ついでに言えば、今のあんたが連れ回したら目立つ。目立つ女は好きだけど、目立ち方が下品なのは嫌いよ」
「お願いします」
「預かり賃は別よ」
「払います」
「ハッハー、本当に即答する子ね。嫌いじゃないわ」
バルバラは笑い、リィナに向き直った。
「いい? リィナ。あんたはここで大人しくしてなさい。勝手に首輪をいじらない。薬瓶に触らない。そこの獣人ちゃんを起こさない。分かった?」
「はい」
「いい子ね。美しいわ」
リィナは「美しい」という言葉にまだ慣れていないのか、小さく目を瞬かせた。
俺はその様子を見てから、診療所の扉へ向かった。
ダリオは壁にもたれていた。昨夜からあまり寝ていないのか、目元に疲れがある。
それでも、口元にはいつもの荒っぽい笑みが残っていた。
「嬢ちゃん、本当に行くのか」
「行きます」
「ルシェル・ヴァン・オルフェリア。あいつは面倒だぞ」
「知ってます」
「いいや、たぶんまだ知らねえ。あいつは金で動く連中とは違う。欲しいもんの形が金じゃねえやつは、一番読みづらい」
ダリオの声は低かった。
「分かっています。でも、ロッカに続く情報を持っているなら使います」
「あくまで情報源というわけか」
「ええ」
「まだ稼いでねぇんだ。おっ死ぬんじゃねぇぞ」
ダリオは短く言って、顎をしゃくった。
「俺はこっちに残る。ニカと黒髪を置いていくなら、誰か見張りが要るだろ」
「助かります」
「勘違いすんな。俺の商品価値を守ってるだけだ」
「はい」
「そこで素直に頷くな。腹立つな、お前」
ダリオは舌打ちした。
その軽口に、少しだけ肩の力が抜ける。
けれど、扉の外へ出た瞬間、空気が変わった。
王都の朝は明るい。
けれど俺の中には、昨夜の白薔薇の香りがまだ残っていた。
ルシェルは信用できない。
気持ち悪い。
底が見えない。
何をどこまで知っているのかも分からない。
だが、使えないわけではない。
俺は善人を探しているんじゃない。
ロッカへ続く道を探している。
ガルドとの約束を果たすために。
夏の事業を成功させるために。
そして、助けられるはずの人間を、助けるために。
その夜、俺は学院の白薔薇回廊へ向かった。
白薔薇回廊は、学院の中でも妙に浮いた場所だった。
白い石柱が等間隔に並び、そこへ白薔薇の蔓が絡みついている。
夜の月明かりを受けた花弁は、ほとんど銀色に見えた。
床は磨かれた石で、歩くたびに靴音が静かに返る。
美しい場所だ。
だからこそ、そこにルシェルが立っていることが、腹立たしいほど似合っていた。
白薔薇に指先で触れながら、ルシェルは振り返る。
整った顔。
柔らかな微笑。
乱れのない髪。
夜に溶けるような仕立ての服。
「来てくれたんだね、アイリス」
「用件だけ話して」
俺は距離を詰めすぎない場所で止まった。
ルシェルは嬉しそうに目を細める。
「その温度。ああ、やっぱり君は優しいね。僕に期待を持たせないように、最初から突き放してくれる」
「気持ち悪い解釈をするな」
「そう言いながら、来てくれた」
「情報が必要だから来ただけ」
「うん。理由があるのは大切だ。人は理由があれば、自分の嫌悪すら踏み越えられる」
ルシェルの声は静かだった。
責めているわけではない。
嘲っているわけでもない。
ただ観察している。
俺が何を考え、何を選び、どこで足を止めるのかを、楽しんでいる。
それが不快だった。
「昨日の襲撃」
俺はまっすぐ聞いた。
「あなたが仕組んだの?」
ルシェルは首を横に振った。
「違うよ。あんな粗雑で醜い舞台、僕の趣味じゃない」
「じゃあ、知っていたの?」
「起きるとは思っていた」
その返答に、胸の奥が冷えた。
「五億で落とされた黒髪。若い新規客。護衛は一人。灰鴉の外、夜の獣車。欲深い者が手を伸ばさない方が不自然だ」
「分かっていて、黙って見ていたんだ」
「君がどう選ぶのか、見たかった」
悪びれもしない。
その言葉に、拳を握る力が強くなった。
「最低だね」
「そうかもしれない」
「否定しないんだ」
「僕は君に善人だと思われたいわけじゃない」
ルシェルは白薔薇から指を離した。
「ただ、理解されたいとは思っている」
「理解したくない」
「それでもいい。君はいつも、拒絶の仕方まで綺麗だ」
「私の怒りを飾り物みたいに語るな」
声が低くなった。
ルシェルは少しだけ黙る。
その表情に浮かんだのは、不快感ではなかった。むしろ、喜びに近い。
「君は怒っていた。なのに、剣を抜かなかった。壊したかったはずなのに、壊さなかった。護衛を守るために、場を壊さず、手順を守った。僕はね、アイリス。そういう君が、とても美しいと思う」
「ニカが死にかけていた」
「知っている」
「リィナが怯えていた」
「黒髪の子だね」
「それを見て、美しいって言うの?」
「違うよ。苦しみが美しいんじゃない。苦しみの中でなお選ぶ君が美しいんだ」
言葉だけなら、綺麗に聞こえるのかもしれない。
けれど、その奥にあるものは違う。
ルシェルは助けたいのではない。
救いたいのでもない。
俺がどう動くのかを見たいのだ。
俺の怒りも、迷いも、失敗も、選択も、全部を自分の美意識の中に飾ろうとしている。
俺は息を吐いた。
「あなたは私を見てるようで、見てない」
ルシェルの目が、少しだけ揺れた。
だがすぐに、いつもの微笑に戻る。
「手厳しいね」
「で、用件は?」
「分かった」
ルシェルは懐から一枚の紙を取り出した。
封はされていない。
畳まれた薄い紙だ。
「君が探しているロッカ・バルグレン。彼は売られていない」
俺の意識が、一気に鋭くなる。
「どこにいるの」
「ベルゼア第四加工倉」
その名を聞いた瞬間、オルグの言葉が脳裏に蘇った。
技術を持つ者は、売るより使う方が価値を生む場合があります。
あの男は言っていた。
人を、人ではなく価値として見ていた。
「表向きは石材と木材の加工倉。王都南区の外れにある。ベルゼア家の直轄ではなく、いくつかの商会を挟んだ所有になっているから、名義だけ追っても辿り着きにくい」
ルシェルは紙を差し出す。
「夜になると、職人奴隷が動かされる。建材加工、調度品の下請け、修繕、炉の管理。ロッカはその炉区にいる」
「炉区」
「第四加工倉の奥。通称、灰炉。彼は炉番として使われている。ドワーフの耐久と手先の精密さは、彼らにとって都合がいいんだろうね」
吐き気がした。
ロッカは売られていなかった。
助かったわけではない。商品として並べられなかっただけだ。価値があるから、壊れるまで使われている。
俺は紙を受け取った。
そこには簡単な位置と、外から見える目印が書かれていた。
「なぜ教えるの」
「君が行くから」
「答えになってない」
「なっているよ」
ルシェルは穏やかに笑う。
「君は約束を捨てられない。損だと分かっていても、危険だと分かっていても、ガルド・バルグレンとの約束を果たそうとする。夏の事業のため。仲間のため。自分の筋を通すため。理由はいくつもあるだろうけれど、結局、君は進む」
「だから?」
「その姿を、僕はもっと見たい」
嫌悪が、静かに胸の奥で固まっていく。
「見世物じゃない」
「うん。君は見世物じゃない。だからこそ、目を離せない」
「この情報は使う」
俺は紙を折り、懐にしまった。
「でも、あなたのためじゃない。ガルドさんとの約束を果たすためだ」
「理由なんて、何でもいいよ」
ルシェルの笑みが深くなる。
「君が僕の差し出した道を歩く。それだけで十分だ」
「違う」
俺は即座に言った。
「道を選ぶのは私だ」
白薔薇の香りが、夜風に揺れる。
ルシェルは、ひどく満足そうに息を吐いた。
「そう。その傲慢さが、美しい」
「褒め言葉として受け取らない」
「それでも構わない」
会話を続けるほど、こちらの体温だけが削られていく気がした。
俺は背を向ける。
「もう用件は終わり」
「アイリス」
ルシェルの声が、背中に届く。
「君はいつか気づくよ」
俺は足を止めた。
「自由でいるためには、自由を守る檻が必要だって」
美しい声だった。
けれど、そこにある思想は醜い。
守ると言いながら閉じ込める。
美しいと言いながら飾る。
大切だと言いながら、相手が相手自身であることを許さない。
俺は振り返らずに答えた。
「檻に入った時点で、それは自由じゃない」
沈黙が落ちた。
白薔薇の香りが、背後で濃くなる。
ルシェルが笑った気配がした。
「やっぱり君は、僕の想像を超える」
もう返事はしなかった。
白い石の回廊を抜け、夜の学院を歩く。
懐の中には、ベルゼア第四加工倉への道がある。
ロッカへ続く扉の名。
気に食わない。
心底、気に食わない。
ルシェルの差し出した情報を使うことも。
あの男の言葉通りに動くように見えることも。
俺の怒りや選択を、美しいなどと語られることも。
全部、気に食わない。
それでも俺は、その扉を開けに行く。
ガルドとの約束を果たすために。
ロッカを連れ戻すために。
そして、リィナを番号ではなく名前で呼んだ夜を、無駄にしないために。
白薔薇の香りは、まだ背中にまとわりついていた。




