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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第二章 この世界の自分

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第八十六話 名前

第八十六話 名前

 ニカは勝った。

 ただ力で押し切ったのではない。

 自分の悪魔を、自分の身体に合わせて使い始めていた。

 それは確かだった。

 けれど、無事だったわけではない。


「……ニカ?」


 細身の男を押さえつけたまま笑っていたニカの肩が、不自然に揺れた。

 次の瞬間、膝が落ちる。

 石畳に手をついたニカの指先が、細かく震えていた。


「平気……ちょっと、力が抜けただけ」


「それ、平気じゃないよ」


 俺は獣車から降りかけて、踏みとどまった。

 まだ周囲には目がある。

 灰鴉の係員も、他の客の護衛も、こちらを見ている。

 けれど、そんな理屈が吹き飛びそうになるほど、ニカの顔色は悪かった。

 唇の色が薄い。

 額には脂汗。

 針を受けた腕の傷口の周りが、黒紫に滲み始めている。

 ただの痺れじゃない。


「お客様への襲撃は、規則違反です」


 駆けつけてきた灰鴉の係員が、倒れた襲撃者たちを見下ろしながら言った。

 丁寧な声だった。

 だが、怒りはない。


「こちらで処理いたします」


 処理。

 裁くでも、助けるでもない。

 秩序を乱した異物を片づける。

 それだけだ。

 俺は声を整えた。


「お願いします。護衛が取り押さえました。灰鴉の客を襲うなど、随分と無作法な方々ですね」


「ご迷惑をおかけいたしました」


 係員は深く頭を下げる。

 その間にも、別の係員が細身の男の口を布で塞ぎ、手足に拘束具をかけていく。

 聞きたいことは山ほどある。

 だが、今は違う。

 ニカが先だ。


「嬢ちゃん」


 荒い足音とともに、ダリオが戻ってきた。

 別の獣車に乗ったはずの男が、派手な上着を揺らしながら駆け寄ってくる。

 そして、ニカの腕を見た瞬間、顔色が変わった。


「医者だ」


「医者?」


「普通の薬師じゃ間に合わねえ。裏針だ。それも、動きを止めるだけのやつじゃねえぞ」


 ダリオはニカの傷口を見て舌打ちした。


「殺しに来てやがる」


 その言葉に、黒髪の女性が獣車の中で小さく震えた。


「わたしの、せい?」


「違う」


 俺は即答した。

 黒髪の女性は、震える指で自分の首輪に触れた。


「ニカ、痛い? わたし、返された方が、いい?」


「違うって言ってる」


 強く言いすぎた。

 彼女の肩が跳ねる。

 俺は息を吐き、少しだけ声を落とした。


「あなたのせいじゃない。今は黙って、頭を低くして」


「……はい」


 彼女はすぐ従った。

 それがまた、腹立たしかった。

 俺の言葉を、命令としてしか受け取れていない。


「灰鴉の薬師は使いません」


 俺が言うと、ダリオは鼻で笑った。


「当たり前だ。あいつらに見せたらどうなるかわかったもんじゃねぇ」


「じゃあ、どこへ?」


「…アテがある。…闇薬師だ」


 ダリオは短く言った。


「腕は一流。値段は悪党。性格は災害。だが、毒と針なら、俺の知る中じゃ一番信用できる」


 ニカが苦しそうに笑う。


「それ、信用していい紹介?」


「死にたくなきゃ信用しろ」


 その言葉は、冗談ではなかった。

 俺たちは灰鴉の係員に襲撃者の処理を任せ、すぐに獣車へ戻った。

 ダリオが御者へ短く行き先を告げる。

 獣車は夜の街を走り出した。

 石畳の揺れに合わせて、ニカの呼吸が乱れる。

 彼女は意識を保とうとしている。

 だが、瞼が重そうに落ちかけては、また上がる。


「ニカ、寝ないで」


「寝てない」


「お願い、がんばって」


「……ちょっと、眠いだけ」


「寝たら怒るよ」


「説教、長そう」


「当たり前じゃん」


「じゃあ、起きとく」


 軽口を叩いているのに、声に力がない。

 俺は手を伸ばしかけて、止めた。

 毒。

 傷口。

 処置の邪魔になることはできない。

 何もできない自分が、ひどく邪魔だった。

 獣車は表通りを外れ、裏路地へ入った。

 そこは、王都の華やかさとは別の顔をしていた。

 狭い道。

 湿った石壁。

 閉じた窓。

 看板のない店。

 しばらく進んだ先に、小さな診療所があった。

 扉に看板はない。

 ただ、赤い花の絵が一つだけ描かれている。

 ダリオが扉を叩いた。


「バルバラ、開けろ。急患だ」


 少し間があった。

 そして、内側から太い声が返る。


「夜中に女を起こす男は嫌われるわよ、ダリオ」


「女って面かよ。って冗談言ってる場合じゃねぇ」


 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。

 現れたのは、筋肉の壁だった。

 スキンヘッド。

 鍛え上げられた胸板。

 白衣を羽織った上半身から覗く、彫刻のように割れた腹筋。

 腕は丸太のように太く、首も肩も分厚い。

 身長は、おそらく百九十近い。

 俺より二十センチ以上高い。

 しかも横幅が違う。

 だが、その顔には丁寧な化粧が施され、耳には紫の石の耳飾りが揺れていた。

 赤い唇が、不敵に笑う。


「失礼ね。心が女なら女なの。あと、私は今日も美しいわ」


 ダリオは面倒くさそうに手を振った。


「美醜の話は後だ。毒針だ」


 バルバラの目が、一瞬で変わった。

 ふざけた空気が消える。


「あら。なら入れなさい。早く」


 俺たちはニカを抱えるようにして中へ入った。

 診療所の中は、意外なほど清潔だった。

 棚には薬瓶。

 壁には包帯や刃物。

 天井から乾燥した薬草が吊るされている。

 怪しい。

 けれど、汚くはない。

 バルバラはニカを寝台に乗せると、即座に傷口を見た。


「針は何本?」


「二本」


 ニカが答える。


「よく喋れるわね。黙ってなさい、死にかけの子が強がるのは美しくないのよ」


「死にかけ?」


「ええ。とても」


 バルバラはにっこり笑った。

 笑いながら、手は止まらない。

 小刀で布を切り、傷口の周りを押さえ、血の色を見て、匂いを嗅ぐ。

 その動きは恐ろしく速く、正確だった。


「最悪ね。これ、動きを止める毒じゃないわ。殺す毒よ」


 室内の空気が凍った。


「普通のヒュームなら、とっくに泡を吹いてる。獣人で、しかも相当しぶとい血だから持ってるだけ。あんた、何の獣人?」


「ラーテル」


「あら素敵。しぶとさだけは一級品ね。でも死ぬ時は死ぬわよ」


 バルバラは薬瓶を三本取り出し、手際よく混ぜ始めた。


「血を汚して、呼吸を浅くして、最後は心臓を止める毒。刺し方は下手だけど、薬は悪くない。腹立つわね。殺し方に美意識がない」


「助かりますか」


 俺が聞くと、バルバラは横目で俺を見た。


「助けるのよ。誰にものを聞いてるの」


 その一言で、なぜか少しだけ息ができた。


「ただし高いわよ。夜間、急患、裏毒、獣人、しかも二本。三倍」


「払います」


「ハッハー。即答。嫌いじゃないわ」


 バルバラはニカの腕に細い管を当て、黒ずんだ血を少し抜いた。

 次に、傷口に薬を塗り込み、別の薬を飲ませる。

 ニカが苦しそうに喉を鳴らした。


「苦い」


「生きる味よ。感謝しなさい」


「もうちょっと美味しくできないの?」


「毒を食らった直後に味の文句? いい根性ね。好きよ」


 バルバラは笑いながらも、目は真剣だった。

 やがて、ニカの呼吸が少しだけ落ち着く。

 唇の色も、ほんのわずかに戻った。


「今夜は寝かせる。絶対に動かさない。毒は抜いたけど、身体は傷んでる。明日いっぱいは戦闘禁止」


「無理かも」


 ニカが呟く。

 バルバラの太い指が、ニカの額を軽く弾いた。


「患者が医者に逆らうのは、美しくないわ」


「痛っ」


「痛いなら生きてる証拠」


 バルバラはそう言って、今度は俺の後ろにいる黒髪の女性を見た。

 彼女はずっと、部屋の隅で縮こまっていた。

 首輪。

 鎖。

 黒髪。

 大人びた身体つきに、幼い目。

 バルバラは一瞬だけ目を細めたが、近づきはしなかった。

 黒髪の女性は、不安そうにニカを見ていた。


「ニカ、死なない?」


「死なせないわよ」


 答えたのはバルバラだった。

 黒髪の女性がびくりとする。

 バルバラは腰に手を当て、胸を張った。


「ここは私の診療所。死ぬかどうかは私が決めるの。勝手に死ぬなんて、美しくないわ」


 黒髪の女性は、意味が分からないという顔をした。

 けれど、少しだけ震えが収まった。

 バルバラは机の上に紙を置いた。


「で、その子の名前は?」


 黒髪の女性は、首を傾げた。


「番号なら、ある」


 胸の奥が、重く沈んだ。

 バルバラの眉が吊り上がる。


「却下」


「きゃっか?」


「私の診療所に、番号の患者はいないの。名前を言いなさい」


 黒髪の女性は困ったように俺を見た。


「名前……出して、いい?」


「いい」


「怒られない?」


「怒らない」


「商品は、番号でいいって」


「あなたは商品じゃない」


「でも、買われた」


「それでも、商品じゃない」


 彼女は分からない顔をした。

 けれど、逃げなかった。

 長い沈黙の後、消えかけた火種みたいな声が落ちる。


「……リィナ」


「リィナ?」


「たぶん。むかし、そう呼ばれてた」


 リィナ。


 俺はその名を、心の中で繰り返した。


「いい名前だね」


 リィナは、不思議そうに俺を見た。


「いい、名前?」


「うん。あなたの名前でしょ」


「わたしの……名前」


「そう。リィナ」


 俺が呼ぶと、彼女は肩を震わせた。


「リィナ」


 もう一度呼ぶ。

 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「わたし……リィナ?」


「うん」


「番号じゃなくて?」


「番号じゃなくて」


「検体じゃなくて?」


「検体じゃない」


「混じり物じゃなくて?」


「違う。リィナだよ」


 リィナはその言葉を噛むように、何度も小さく唇を動かした。


「リィナ。リィナ。わたし、リィナ」


 バルバラは黙ってそれを見ていた。

 さっきの調子で茶化すことはなかった。

 ただ、静かに紙へ名前を書き込む。


「リィナ。いいじゃない。美しい名前よ」


 リィナは目を瞬かせた。


「美しい?」


「ええ。だから、簡単に捨てちゃ駄目」


「すてる?」


「分からないなら、それでいいわ。今は覚えておきなさい。あんたは番号じゃない。リィナよ」


 リィナはまた、自分の胸に手を当てた。


「リィナ」


 その声は、まだ頼りない。

 でも、確かにそこにあった。


「誰が呼んでくれたか、覚えてる?」


 俺が聞くと、リィナは少し考えた。


「うた」


「歌?」


「白い髪の人。あったかい声。リィナって、呼んだ」


 白い髪の人。

 母親だろうか。


「他には?」


「大きい手」


 リィナは自分の手を見た。


「かたい手。あったかい。リィナって、呼んだ。たぶん」


 大きくて、硬い手。

 けれど、それ以上は分からない。

 リィナはまた不安そうに俺を見る。


「ご主人さまも、呼ぶ?」


「呼ぶよ」


「リィナって?」


「うん。リィナって呼ぶ」


「命令?」


「違う」


「じゃあ、なに?」


 俺は少し考えた。


「約束かな」


「やくそく」


「私はあなたを番号で呼ばない。商品とも呼ばない。検体とも呼ばない。リィナって呼ぶ」


 意味は、まだ分かっていないのかもしれない。

 けれど、何かが届いた気はした。

 その時、診療所の扉が軽く叩かれた。

 バルバラの目が細くなる。


「誰かしら。今夜は随分と人気ね」


 ダリオが扉へ向かい、外を確認する。

 戻ってきた彼の手には、一通の封筒があった。


「嬢ちゃん宛だ。扉の前に置かれてた」


 白い封蝋。

 薔薇の意匠。

 かすかな、甘い花の香り。

 夜の路地に残っていたものと同じ香りだった。

 俺は封を切った。

『今夜の君は、美しかった。怒りながら剣を抜かず、毒に倒れた友を前にしても、なお手順を間違えなかった。ああ、アイリス。君は本当に、僕の想像を超えてくる』

 背筋に冷たいものが走った。

 怒りではない。

 恐怖でもない。

 もっと質の悪い、不快感。

 続きを読む。

『明日の夜、学院の白薔薇回廊へ。君の探し物へと続くその扉の名を教えてあげる』

 署名はない。

 けれど、必要なかった。


「……ルシェル」


 やはり、見ていた。

 あの路地で、逃げ道を塞いだ白い術式。

 甘い花の香り。

 そして今、この手紙。

 鎖の先は、ベルゼアだけでは終わらない。

 誰かがその鎖を、横から指でなぞっている。

 俺は封筒を握りしめた。

 白い薔薇の香りが、夜の底で静かに滲んでいた。


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