第八十五話 護衛の牙
第八十五話 護衛の牙
「検体を返してもらおう」
闇の向こうから聞こえたその声に、獣車の中の空気が冷えた。
検体。
その言葉だけで、相手が誰の手の者かは分かる。
競りで黒髪の女性を欲しがっていた、あの学者風の男。
生きた検体は貴重だと、平然と言った男。
俺は扇を握る指に力を込めた。
獣車の外には、まだ取引会から帰る客の気配がある。
遠くの角を曲がる獣車の音。
どこかの護衛が低く話す声。
完全な無人ではない。
ここで俺が剣を抜けば、目立つ。
魔力圧を漏らせば、もっと目立つ。
今夜作った「金を持つ上客」の仮面が剥がれる。
分かっている。
だからこそ、腹が立った。
「アイリス、座ってて」
ニカが言った。
その声は低い。
けれど震えてはいない。
「私は護衛。護衛が襲撃者を払うのは、自然でしょ」
「一人でいける?」
「無理なら呼ぶ」
「呼ぶ前に無茶しそうだけど」
「まぁ見てなって」
ニカは短く笑った。
その横顔は、いつもの少し雑で気安いニカではなかった。
獣人の目。
獲物と敵を見分ける、鋭い目。
ニカは腰の武器には触れなかった。
封印紐がついている。
あれを切れば、こちらが規則を破ったことになる。
代わりに、彼女は拳を握った。
指先から、薄い魔力が滲む。
ニカの契約悪魔、バンデット。
放出を司る悪魔。
以前のニカは、力任せに魔力を外へ叩き出すだけだった。
強い。
だが荒い。
距離も角度も、持続も甘い。
けれど今のニカは違う。
拳の周りに集まった魔力が、薄い膜のようにまとまっている。
放つための魔力。
弾くための魔力。
踏み込むための魔力。
前より、ずっと扱えている。
ニカは獣車の扉を開けた。
夜風が入り込む。
黒髪の女性がびくりと肩を震わせた。
「ご主人さま……」
「伏せて」
「わたし、いい子に――」
「いいから、伏せて」
強く言いすぎた。
黒髪の女性は慌てて身体を縮める。
俺は少しだけ声を抑えた。
「あなたに怒ってるんじゃない。今は、頭を低くして」
「……はい」
彼女は膝を抱えるようにして身を屈めた。
その細い鎖が、床に小さな音を立てる。
その音だけで、胸の奥が熱くなる。
外へ出たニカの声が響いた。
「誰?」
「護衛か。邪魔だな」
闇の中から、数人の影が現れた。
黒服が四人。
その奥に、細身の男が一人。
学者風の男本人ではない。
だが、同じ匂いがした。
人間を人間として見ていない目。
「こちらは正式に落札した商品。奪うなら、灰鴉の規則にも逆らうことになるよ」
ニカはあえて大きめの声で言った。
周囲の目を意識している。
いい判断だ。
襲われた側であることを、外へ聞かせるための声。
黒服の一人が鼻で笑う。
「商品に不備があった。回収するだけだ」
「その言い訳、雑すぎない?」
「退け。獣人」
「嫌だね」
次の瞬間、黒服が踏み込んだ。
速い。
護衛崩れではない。
最初からこういう裏仕事に慣れた動きだ。
短い棍がニカの肩を狙う。
ニカは避けなかった。
半歩だけ踏み込み、肩ではなく肘で受ける。
鈍い音。
普通なら骨が軋む一撃。
けれど、ニカの腕の表面で魔力が弾けた。
バンデットの放出。
受けた衝撃を、外へ逃がしたのだ。
「っ!」
黒服の体勢が崩れる。
その腹へ、ニカの拳が入った。
拳そのものが当たる直前、魔力が短く爆ぜる。
打撃より一瞬早く、内側へ衝撃が抜けた。
黒服の身体がくの字に折れ、地面を転がる。
強い。
だが、ニカの眉はわずかに歪んでいた。
まだ完全ではない。
今の一撃で、ニカ自身の腕にも負担が返っている。
「一人目」
ニカが呟く。
残りの黒服たちが散った。
一人は正面。
一人は獣車の後ろ。
一人は屋根へ。
狙いはニカではない。
中の黒髪女性だ。
「アイリス、後ろ!」
「分かってる」
獣車の後方から手が伸びる。
俺は剣を抜かない。
代わりに、扇を閉じたまま、その手首を叩いた。
骨を折るほどではない。
だが、動きを止めるには十分。
男が呻く。
俺はその顔を見ずに、冷たく言った。
「護衛の邪魔をしないでください。私はただの客ですので」
自分でも白々しいと思う。
だが、今はそれでいい。
外では、屋根に上がった黒服が獣車の天窓へ手をかけていた。
ニカが地面を蹴る。
足元で魔力が弾けた。
跳んだ。
ただの跳躍ではない。
バンデットの放出を、足裏から下へ叩き出した加速。
ニカの身体が、闇の中を斜めに走る。
屋根の黒服が驚くより早く、ニカの膝がその顎を打ち抜いた。
鈍い音。
黒服が屋根から落ちる。
ニカも着地するが、わずかによろめいた。
足首に負担が来ている。
放出で加速するのは強い。
だが、身体がまだその出力に完全には追いついていない。
「ニカ、無理に跳ばない」
「分かってる」
「絶対分かってない返事でしょ、それ」
「うるさい」
ニカは笑った。
だが、その額には汗が滲んでいる。
正面の二人が同時に動いた。
一人が鎖のついた投げ具を放る。
もう一人が足元へ小さななにかを投げた。
床に落ちた物が光る。
透明な膜のようなものが、ニカの足元に広がった。
拘束用の道具。
奴隷や逃亡者を捕まえるための道具だろう。
ニカの足が止まる。
「獣人は力が強い。なら、足を止めればいい」
細身の男が言った。
その声は淡々としていた。
「殺すな。商品の護衛として価値がある。壊すなら片腕までにしろ」
片腕まで。
その言い方に、体温が下がる。
ニカの目が細くなった。
「片腕まで? へえ」
鎖がニカの腕に絡む。
黒服二人が左右から引いた。
拘束膜が足を縛る。
鎖が腕を縛る。
そこへ三人目が棍を構える。
不利だ。
今のニカは武器を使えない。
封印紐を切れば、こちらが問題にされる。
「ニカ」
俺は立ち上がりかけた。
だが、ニカが叫ぶ。
「出ないで!」
その声に、俺の動きが止まった。
「私がやる!」
ニカの身体から、魔力が滲む。
荒い。
だが、以前とは違う。
ただ爆発させるのではない。
腕に絡んだ鎖へ、魔力を流す。
足元の拘束膜へ、魔力を押し当てる。
バンデットの放出は、外へ叩き出す力。
なら、触れているものに対して、内側から衝撃を流し込める。
ニカの犬歯が、わずかに覗いた。
「私を止めたいなら」
腕の刻印が、淡く光る。
「もっと硬い鎖を持ってきな!」
次の瞬間、鎖が弾けた。
砕けたわけではない。
外へ膨らむ衝撃に耐えきれず、留め具が吹き飛んだ。
同時に、足元の拘束膜にも亀裂が走る。
ニカは足を引き抜き、身体を低く沈めた。
獣の姿勢。
そこから、一直線に飛び出す。
正面の黒服が棍を振る。
ニカは棍の下へ潜り込む。
拳を握る。
だが、打たない。
開いた手のひらを、相手の胸へ当てた。
「バンデット」
短い呼吸。
「放て」
衝撃が、相手の背中側へ抜けた。
外から見れば、軽く押しただけに見えた。
だが、黒服の身体は後ろへ吹き飛び、石畳を転がった。
魔力を一点に叩き込んで、相手の身体の向こう側へ放出した。
前よりずっと繊細だ。
ただ殴るより、ずっと強い。
ニカは続けて身を翻す。
背後から迫る男の足を払う。
倒れる前に肩を掴み、地面へ叩きつける。
その瞬間、肩口から魔力を下へ放つ。
地面が小さく鳴り、男の意識が飛んだ。
残った細身の男が、舌打ちする。
「使える獣だな。惜しい」
「私は物じゃない」
「獣人だろう。大差ない」
その言葉で、ニカの表情が消えた。
怒りが消えたのではない。
怒りが、牙の奥へ沈んだ。
細身の男が懐から細い仕込み針を出す。
狙いはニカではない。
獣車の中。
黒髪の女性だ。
「検体には傷をつけるな。首から下は替えが利くが、黒髪は希少だ」
針が放たれた。
俺は動けた。
だが、動いてはいけない。
その一瞬の判断より早く、ニカが動いた。
身体を横へ投げ出し、針の軌道に腕を入れる。
針がニカの袖を裂いた。
浅い。
だが、皮膚を切った。
「ニカ!」
「平気」
ニカは歯を食いしばった。
毒か、麻痺か。
分からない。
けれど、ニカは止まらない。
足元を蹴る。
放出で加速する。
だが、さっきより動きが鈍い。
やはり、針には何か仕込まれている。
細身の男が後退する。
「効きが早いな。獣人にも使えるか」
その声を聞いた瞬間、獣車の中で黒髪の女性が震えた。
「いい子にする……痛いの、いや……」
俺はその肩を抱き寄せた。
「見なくていい」
「わたし、いい子……」
「見なくていい」
外で、ニカが膝をついた。
黒服の一人がまだ動けたらしく、背後から棍を振り上げる。
俺の中で、色んな怒りで体が震えそうだった。
そして何かが熱を持った。
右肩が、わずかに疼く。
刻印。
六芒星の一辺の半分。
まだ未完成の、俺とラグナを繋ぐ断片。
壊せ。
どこかで、低い笑い声が聞こえた気がした。
だが、その瞬間。
ニカが地面に手をついた。
「まだ」
小さな声だった。
「まだ、終わってない」
ニカの掌から、魔力が地面へ放たれる。
石畳が震えた。
背後の男の足元だけが、跳ねる。
体勢が崩れた。
ニカは振り返りざま、肘を叩き込む。
肘の先で、魔力が爆ぜた。
男が吹き飛ぶ。
ニカはそのまま立ち上がった。
足元はふらついている。
腕からは血が垂れている。
それでも、目は死んでいない。
細身の男の顔に、初めて焦りが浮かんだ。
「なぜ動ける」
「知らないの?」
ニカが笑った。
牙を見せて。
「ラーテルは、しつこいんだよ」
次の瞬間、ニカは一直線に走った。
速くはない。
さっきより遅い。
けれど、止まらない。
細身の男が二本目の針を構える。
ニカは避けない。
左腕で受ける。
そのまま距離を詰める。
「ば、馬鹿か!」
「よく言われる」
ニカの右拳が、男の腹に触れた。
今度は殴らない。
拳を押し当てるだけ。
そして、魔力を一点に集める。
「バンデット」
ニカの瞳が、獣のように光った。
「ぶち抜け」
衝撃が放たれた。
男の身体が折れ、声にならない息を吐く。
そのまま石畳に膝をついた。
ニカは男の襟を掴み、地面へ押し倒す。
「誰に頼まれた?」
「……言うわけが」
ニカの拳が、男の顔の横の石畳へ落ちた。
爆ぜるような音。
石が砕け、破片が男の頬を掠めた。
「次は外さない」
ニカの声は低かった。
男の喉が鳴る。
「が、学士だ……競りにいた男だ。黒髪を欲しがっていた……」
「名前は?」
「知らない。本当だ。ただ、ベルゼアの下で出入りを許されている研究屋だ」
ベルゼア。
やはり、そこへ繋がる。
男の背後、路地の奥にいたもう一人の影が動いた。
逃げようとする。
ニカはすぐには追えない。
毒が効いている。
俺が動くか。
そう思った瞬間、闇の中に細い光が走った。
美しい線だった。
白く、薄く、まるで絹糸のような術式。
逃げる男の足元にだけ、静かに咲く。
次の瞬間、男は見えない壁にぶつかったように転んだ。
攻撃ではない。
ただ、逃げ道だけを閉じた。
ニカではない。
俺でもない。
誰かが、見ている。
俺は闇の奥へ視線を向けた。
何も見えない。
けれど、そこに誰かの気配があった。
甘い花のような、薄い香りだけが一瞬、夜風に混じった。
ニカが膝をつく。
「ニカ!」
「大丈夫……ちょっと、しびれるだけ」
「それを大丈夫とは言わないんだよ」
俺は獣車を降りかけた。
だが、周囲の気配を思い出し、足を止める。
まだ見られている。
だから、俺は客として声を張った。
「護衛が襲撃者を取り押さえました! 灰鴉の客を襲うとは、ずいぶん無作法な方々ですね!」
近くの獣車から、いくつかの視線が向く。
黒服の係員らしき者たちも駆けてくる。
これでいい。
俺たちは襲われた客。
ニカは職務を果たした護衛。
その形は崩さない。
ニカはふらつきながらも、男を押さえつけたまま笑った。
「ほらね。私が戦うのが自然だったでしょ」
「あとで説教」
「勝ったのに?」
「勝ったからだよ」
ニカは勝った。
ただ力で押し切ったのではない。
自分の悪魔を、自分の身体に合わせて使い始めていた。
黒髪の女性が、獣車の中で小さく震えていた。
「ご主人さま……ニカ、痛い?」
「痛いと思う」
「わたしの、せい?」
「違う」
俺は即答した。
「あなたのせいじゃない」
黒髪の女性は、分からないという顔をした。
その顔を見て、俺はさらに強く思った。
早く、この鎖を外す。
俺はこの子をちゃんと人間にする義務がある。
でもまずはロッカの救出だ。
それがガルドとの約束だ。
ベルゼアの別倉。
加工場。
ようやく、鎖の先が見えた。
その時、遠くの屋根の上で、白い何かが揺れた気がした。
見上げた時には、もう何もなかった。
ただ、甘い花の香りだけが、夜の底に薄く残っていた。




