第八十四話 価値ある者
第八十四話 価値ある者
オルグ・ベルゼア。
その名を聞いた瞬間、壁に飾られたベアトリスの写真が、もう一度頭の中に浮かんだ。
柔らかく波打つ金髪。
紫を帯びた瞳。
貴族令嬢らしい、静かな微笑み。
その写真の下に添えられていた文字。
『長子。ヴァルンハート家接続候補』
娘ではない。
家族でもない。
接続候補。
その言葉だけで、この男が何をどう見ているのかは十分に分かった。
それでも、俺は表情を動かさなかった。
ここで怒れば終わりだ。
ここで嫌悪を見せれば、ロッカへ続く道は閉じる。
俺は扇を軽く持ち直し、静かに頭を下げた。
「アイリス・シエーレと申します。本日は突然のお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「いえいえ。五億ビルを即決されるお客様を、挨拶もなくお帰しするほど、私どもも無粋ではありません」
オルグは穏やかに微笑んだ。
声は柔らかい。
所作も丁寧だ。
表情だけを見れば、娘たちの肖像に囲まれた良家の当主に見える。
けれど、その目は違う。
俺を見る目は、人を見るものではなかった。
値段。
役割。
利用価値。
どこに置けば最も利益を生むか。
そういうものを測る目だった。
「どうぞ、お掛けください」
促され、俺とダリオは椅子に腰を下ろした。
上質な椅子だった。
座り心地が良すぎるほどに良い。
この部屋だけは、奥の奴隷市場と別世界だ。
けれど、俺は知っている。
この部屋の静けさは、あの首輪や鎖の上に成り立っている。
「本日の目玉をお気に召していただけたようで何よりです」
オルグが言った。
「希少性の高い品でしたので」
「ええ。黒髪は珍しい。混血の中でも、あれほど色がはっきり出る個体はそう多くありません。観賞にも、研究にも、交渉材料にも使える。良い買い物をなさいました」
品。
個体。
使える。
まるで魔獣素材の話でもしているような言い方だった。
俺は扇の陰で、奥歯に力が入りそうになるのを抑えた。
「価値あるものには、相応の価格を支払うべきだと思っています」
「素晴らしい」
オルグは本当に嬉しそうに笑った。
「価値を理解できる方は、信頼できます。世の中には、価値あるものを前にして感情論を語る者もおりますからね」
「感情論、ですか」
「ええ。人にはそれぞれ役割があります。高く使える者は高く使い、低く使うべき者は低く使う。価値に応じて場所を与える。それは悪ではなく、秩序です」
吐き気がした。
けれど、顔には出さない。
オルグは机の上に置かれた銀の茶器に手を伸ばした。
茶を注ぐ動作は、驚くほど優雅だった。
「私の子どもたちも同じです」
その言葉に、俺の視線がわずかに壁へ向く。
オルグはそれに気づいていた。
「お気づきになりましたか。あれらは私の子です」
「たくさんいらっしゃるのですね」
「ええ。子は家を広げるための枝です。枝が多ければ、多くの家へ伸ばせる。無論、ただ増やせばよいというものではありません。それぞれに向き不向きがある」
オルグは壁に並ぶ写真を、誇らしげに見た。
そこに愛情は見えなかった。
「社交に向く子。武門に向く子。婚姻で価値を出す子。学問で名を上げる子。家を継ぐには足りずとも、接続先として十分な子。人は生まれながらに平等ではありません。だからこそ、正しく配置してやる必要がある」
父親の言葉ではない。
管理者の言葉だった。
俺は静かに尋ねる。
「ベアトリス様も、その一人ですか」
オルグの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「ほう。ご存じでしたか」
「ヴァルンハート家の第二婦人であることは、聞いております」
「ええ。あれは長子です。見目も血筋も悪くない。気性も表向きは穏やかで、扱いやすい。ヴァルンハート家へ置くには悪くない子でした」
扱いやすい。
その一言で、胸の奥が冷えた。
ベアトリスを、娘として語らない。
妻として嫁いだことも、幸福か不幸かで語らない。
ただ、置いた先で役割を果たしているかどうかだけを見ている。
「父親として、寂しくはないのですか」
つい、言葉が出た。
だが、声は乱さない。
オルグは小さく首を傾げた。
「寂しい?」
本気で分からないような顔だった。
「子が役割を果たしているのなら、それは喜ばしいことでしょう。家のために価値を発揮できる。それ以上に望むことがありますか?」
ないのだろう。
この男には、本当にないのだ。
俺は笑みを崩さず、扇を閉じた。
「なるほど。勉強になります」
「あなたは飲み込みが早い」
オルグは俺を見た。
「お若いのに、感情を抑える術を知っている。五億を動かす胆力がある。ベルモンド子爵と繋がり、香粧品の新商材を持ち、なおかつその容姿です」
その視線が、俺の顔から首元、手元へと流れる。
不快だった。
だが、不快さを見せるほど安い場ではない。
「あなたは価値がありますね、アイリス・シエーレ」
「ありがとうございます。自覚はあります」
一瞬、部屋の空気が止まった。
ダリオが隣で喉を鳴らすように笑う。
「ガハハ。だろ? この嬢ちゃんは、変にへりくだらねえんだ」
オルグも、愉快そうに目を細めた。
「良いですね。自分の価値を理解している者は扱いやすい。自分を安く見積もる者は、交渉でも人生でも損をします」
「安売りするつもりはありません」
「でしょうね」
オルグは茶器を置いた。
「ベルモンド子爵から、あなたの商材について少し聞いております。香り付きの汗拭き布、でしたか」
「清香布です」
「清香布」
オルグはその名を口の中で転がすように繰り返した。
「獣車での移動後、茶会や舞踏会の前、商談前に使える。汗と不快な匂いを落とし、香水の下地を整える。消耗品であり、季節ごとに香りを変えられる。贈答用にもできる」
「その通りです」
「一度売って終わりではない。使えば減る。減ればまた買う。なるほど、悪くありません」
オルグの目が、商人のように細くなる。
いや、商人ではない。
この男は、商人よりも冷たい。
商品を見る目で、人間も商材も同じように並べている。
「上位貴族向けには高級箱入りを。準貴族や富裕商人向けには廉価版を。香りを変えれば、同じ相手に何度も売れます」
「販路は?」
「まだ限定的です。だからこそ、今日のような場に価値があると考えています」
「なるほど」
オルグは満足げに頷いた。
「金の匂いがしますね」
ダリオが笑う。
「俺もそう思ったから、この嬢ちゃんを連れてきたんだ」
「ベルモンド子爵の目利きも、まだ鈍っていないようですね」
「鈍ってたら、とっくに海の底だ」
二人の会話を聞きながら、俺は慎重に呼吸を整えた。
ここまでは悪くない。
オルグは俺を商談相手として見始めている。
なら、次だ。
「オルグ様」
「何でしょう」
「本日拝見した品以外にも別用途での奴隷はいますか?」
ダリオの気配が、わずかに変わった。
踏み込みすぎるな。
そう言われている気がした。
けれど、ここで聞かなければ意味がない。
「希少素材や調度品だけでなく、人材……特に職人や技術者の扱いもあるのでしょうか」
オルグはすぐには答えなかった。
静かに茶を飲み、カップを置く。
「興味がおありで?」
「商材を扱う以上、作り手も重要です。特別な技術を持つ者がいるなら、売買だけでなく、契約や雇用の形も考えられるかと」
「雇用」
オルグが薄く笑った。
「美しい言葉ですね」
俺は笑みを返すだけにした。
「技術を持つ者は、売るより使う方が価値を生む場合があります。たとえば、鍛冶、細工、建築、加工。そういった者は市場へ出すより、別の場所で働かせる方が利益になる」
心臓が、一度強く鳴った。
ロッカ。
商品として出てこなかった理由。
売るより使う方が価値がある。
「そういう方々にも、いずれお会いできる機会は?」
「信頼が積み上がれば、あるかもしれません」
オルグは曖昧に笑った。
「ですが、今日はここまでにしておきましょう。初対面で深いところまでお話しするのは、互いに危うい」
「失礼いたしました」
「いえ。踏み込める者は嫌いではありません。踏み込みすぎる者は、長生きしませんが」
柔らかな声だった。
だからこそ、脅しとして十分だった。
俺は頭を下げる。
「肝に銘じます」
「そうなさい」
オルグは少し間を置き、思い出したように言った。
「そういえば、オルフェリア家のご子息も、あなたに随分とご執心だとか」
ルシェル。
ここで、その名前が出るのか。
俺は表情を変えずに返した。
「ルシェル様のことですか」
「ええ。あの方は少々、美しいものへのこだわりが強い。ですが、価値を見る目は確かです。あなたに興味を持つのも分からなくはありません」
「評価していただけているなら、光栄です」
「お気をつけなさい」
オルグは穏やかに微笑んだ。
「価値ある者は、多くの者に求められます。求められるということは、奪われる可能性があるということです」
「奪われるつもりはありません」
「それは頼もしい」
会話はそこで終わった。
オルグは椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「またお話ししましょう、アイリス・シエーレ。あなたとは、長くお付き合いができそうです」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
嘘の笑みを浮かべる。
部屋を出るまで、俺はその笑みを崩さなかった。
扉が閉まり、廊下に出た瞬間、ダリオが小さく息を吐いた。
「嬢ちゃん。よく顔を保ったな」
「崩したら負けですから」
「まぁそうだが、大したタマだぜ」
「オルグ・ベルゼアは、危険ですね」
「危険なんてもんじゃねえ。あれは人間を金貨の山と同じ目で見る男だ。使えるか、積めるか、崩せるか。それだけだ」
「実の子まで、あの扱いですか」
「奴にとっちゃ、実の子も家の札だ。高く切れるなら切る。腐る前に置く。価値がなくなりゃ捨てる」
胸の奥が重かった。
オルグ。
ベアトリス。
黒髪の女性。
ロッカ。
そして、ルシェル。
別々に見えていた線が、少しずつ絡み合っていく。
控室に戻ると、ニカがすぐに立ち上がった。
「大丈夫?」
「うん」
「顔が怖い」
「今は仕方ない」
黒髪の女性は、椅子の横で立ったまま待っていた。
座れと言われなかったのだろう。
いや、座っていいと考えることすらできないのかもしれない。
俺を見ると、彼女は小さく頭を下げた。
「いい子に、してた」
「……うん」
俺は鎖を受け取った。
まだ外せない。
それが、こんなにも腹立たしい。
裏口から案内され、俺たちは獣車へ戻った。
ダリオは別の獣車に乗るらしい。
別れ際、彼は俺にだけ聞こえる声で言った。
「今夜は気を抜くなよ」
「何かありますか」
「あの黒髪に五億ついた。欲しがる馬鹿がいても不思議じゃねえ」
「分かりました」
「それと、嬢ちゃん」
ダリオの目が、珍しく真面目だった。
「お前が動くな。まだ目がある。ここでお前が派手に暴れりゃ、今夜作った上客の仮面が剥がれる」
「……分かっています」
「獣人の姉ちゃんを使え。護衛が戦う分には自然だ」
ニカが横で頷いた。
「任せて」
獣車が動き出す。
窓の外には、まだ取引会から帰る客の獣車がいくつか見えた。
街灯りは薄く、夜は深い。
黒髪の女性は、俺の足元近くに座ろうとした。
「そこじゃない」
俺は向かいの座席を示した。
「座って」
彼女は戸惑ったように目を瞬かせる。
「そこ、いいの?」
「いいよ」
「わたし、座っていい?」
「うん、座って」
彼女は恐る恐る座った。
ニカの顔が歪む。
俺は窓の外を見た。
怒っている。
自分でも分かるくらい、怒っている。
彼女が小さな声で聞いた。
「ご主人さま、怒ってる?」
「怒ってる」
黒髪の女性の肩が震えた。
俺はすぐに続ける。
「あなたにじゃない」
「わたし、いい子?」
「それはあとで話す」
その時だった。
ニカの耳が、ぴんと立った。
「アイリス」
「分かってる」
獣車の前方で、街灯が一つ消えた。
次に、もう一つ。
まるで闇が道を飲み込むように、光が順に落ちていく。
車輪が、何かに弾かれた。
獣車が大きく揺れる。
黒髪の女性が小さく息を呑んだ。
ニカが立ち上がる。
「出ないで」
「ニカ」
「アイリスが戦ったら目立ちすぎる。私は護衛。私
が戦うのは自然」
ニカは封印紐のついた武器には触れず、拳を握った。
獣車の外、闇の向こうから声がする。
「検体を返してもらおう」
俺は扇を閉じた。




